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美濃路を行く(T)垂井〜起
平成16年11月13日(土)・14日(日)の両日、「尾西市市制50周年記念」として
「悦び街道・美濃路ツーディズウォーク」が、一宮歩こう会を事務局として計画された。
担当役員として、垂井から熱田まで美濃路全行程58kmを
事前に歩いたので、主要な見所を紹介していく。
なお、歩行日は垂井〜墨俣 9月11日、
墨俣〜国府宮 9月20日、国府宮〜熱田 5月29日である。
JR東海道線・垂井駅を降り、相川を渡り、まもなく美濃路の起点、垂井追分に来る。
垂 井 追 分 |
美 濃 路 と は 美濃路は美濃街道とも呼ばれ、江戸 時代には幕府の道中奉行の管轄下に あった主要街道のひとつであった。 東海道の熱田宿から、濃尾平野を 縦断して中山道の垂井宿を結ぶ 全長約57.5kmの脇街道であった。 この間には、名古屋宿、清洲宿、 稲葉宿、萩原宿、起宿、墨俣宿、 大垣宿の7宿があった。 慶長5年(1600年)、徳川家康が 関ヶ原から凱旋の帰路、この道を 通って帰ったところから「お悦び 街道」とか「吉例街道」と呼ばれる。 参勤交代の大名、朝鮮通信使、 琉球王使なども通っている。 |
垂井追分から美濃路を歩いていくと、まもなくユニチカ工場に来る。
この辺りが美濃路でただ1箇所、1kmばかり残る松並木である。
大垣市に入り、大谷川を渡り、久徳の一里塚である。
久徳の一里塚 |
そして、杭瀬川に出ると、立派な木製の常夜燈が見える。塩田の常夜燈である。
近鉄養老線の踏切を渡ると「芭蕉・木因遺跡」である。
水門川の高橋に来る。この辺りは芭蕉の「奥の細道むすびの地」である。
芭蕉と芭蕉を見送る門人の立像及びむすびの地の碑が建っている。
水門川は人工の運河であり、開削年は不詳であるが、永禄4年(1561)大垣城城主
氏家直元が開削したものといわれている。現在は水門川をはさんで住吉公園となって
おり、住吉灯台、芭蕉にまつわる句碑など、史跡と風趣にとんだ一角を形成している。
水 門 川
大垣城は街道と少し離れているが、第1日目
20kmコースの出発地点でもあるので寄ってみる。
大 垣 城 |
関ヶ原合戦で西軍・石田三成の本拠地に なったこともあるが、寛永12年以降は、 戸田家十万石の城となった。現在の城は 昭和34年に再建されたもので、全国的 にも珍しい4層の天守閣である。 |
その後、ひたすら歩き、新揖斐川橋を渡り、結神社に来る。
結神社を過ぎるとすぐに輪中堤の上に出る。
そして、堤防の上に「照手姫ゆかりの観音堂」がある。
結 神 社 古くから「むすび」すなわち「生産の神」、ひいては 「縁結びの神」「和合円満の神」として崇敬され、 霊威ある神の坐す社、美濃国の歌枕(名所)と して、多くの歌人に詠われてきた。 |
照手姫ゆかりの観音堂 照手姫は相模の国で小栗判官と夫婦の 契りを結んだが、父は反対し、判官は 三河の国に逃れた。照手姫は結大明神に 判官との再会を祈願したところ、 満願の夢枕に霊験合って、判官の 居場所が分かり再び合うことができた。 |
輪中堤の上を歩いていくと、一夜城が目に入って来る。
墨俣宿である。琉球使節通行記念灯籠や本陣跡がある。
一夜城も美濃路からはずれるが、第1日目10kmコースの出発地点と言うことで寄る。
墨 俣 一 夜 城 豊臣秀吉の出世の糸口と言われ、信長公記にも書かれている 墨俣一夜城は、当時は砦のようなもので、天守閣はなかった けれども、現在は立派な天守閣が資料館として建っている。 |
一夜城から犀川の堤防上を歩いていくと、仏足跡が目にはいる。
明台寺である。早速堤防を降りていって、写真に撮ってくる。
明 台 寺 浄土宗の寺であり、橋杭笑地蔵、土岐悪五郎 の墓、頼山陽碑文など、見るべき物が多い。 |
明台寺の仏足跡図 |
犀川の堤防は桜の名所であるが、今は彼岸花が一面に咲いていた。
長良川を渡り、大江川、境川と渡り、羽島市に入ってくる。
境川の堤防上を歩いていくが、堤防上には西小熊の一里塚や
美濃路の標柱、親鸞上人御旧跡碑などが見える。
のどかな田園の中を歩きながら、先を急ぐ。
イラストフェンス(不破一色辺り) |
金刀比羅神社まで来ると、もう木曽川堤防である。
堤に出て、少し下ると起渡船場石灯台が目につく。
金刀比羅神社 |
起渡船場石灯台 |
木曽川にかかる濃尾大橋を渡り、愛知県にはいる。
岐阜県側のちょうど対岸にも、起渡船場の常夜灯と金刀比羅神社がある。
少し下れば、起宿脇本陣である。その隣には尾西市歴史民俗資料館が建てられている。
起宿脇本陣