fu020maai
愛知県編

愛知県内も気をつけて歩いてみれば、結構偉人像は立っている。
嬉しい発見である。愛知県編を別立てとする。(070213)


   
1)松尾芭蕉 2)新城市(鳳来寺表参道)        (191116)
3)「1691年10月、新城の太田白雪に案内されて鳳来寺山へ登山。
仁王門にさしかかった頃、芭蕉の持病が激しく一行は止むなく下山し、
麓の屋根屋という旅籠に無理に頼んで泊めてもらった」(説明板より)
こがらしに岩吹きとがる杉間かな   夜着ひとつ祈出して旅寝かな 


   
 1)田中吉政  2)岡崎市(籠田公園前)  3)1548〜1609年。1590年(天正 15)、徳川家康が関東に
領地替えになった後に岡崎城主となり、1600年(慶長5)まで岡崎を支配した。岡崎城主となった吉政の業績と
して、岡崎城の城郭と城下町を整備したこと、矢作川の堤防を造ったこと、太閤検地を行ったことなどがある。
(碑文)  【岡崎城主(1590〜1600年)。当時菅生川の南にあった東海道を城下に引き入れて
「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また、惣堀(田中堀)を築造するなど城下町の整備を行った。】
この後、筑後藩主となった。街角の偉人・九州編にも載せています。   (140913)


   
 (特別) 1)テミス像  2)津島市(津島高校内) (140111)
  
テミスは、ギリシャ神話にみる法と正義を司る女神です。右手の文秤は法の理念である「衡平」を、左手の剣は正義を実現する「力」を表しています。テミス像は国内外の裁判関係の建物にあり、日本の最高裁判所にもあります。衡平は本校の校訓である「知・仁・勇」の中の仁に該当します。衡平な心を持つことは、社会生活や家庭生活の全てにおいて必要です。本校創立110周年を記念して本校に学ぶ皆さんが衡平の心を持ち成長することを祈念して寄贈します。
  2010年9月 千賀修一(高校14回卒業生)

             (像横説明板より)


1)豊臣秀吉・織田信長・徳川家康・水戸黄門  2)名古屋市(円頓寺商店街西交差点   3)平成25年7月25日序幕。
寄贈は地元の時田一弘氏、制作は日本美術専門学校(埼玉県伊奈町)生徒。      (130827)
*8月27日、この像を孫と写真を撮っていて、CBCテレビよりインタービュ−を受けるが、残念ながら放映はなかった。

円頓寺商店街西交差点 
 
豊臣秀吉

織田信長 

徳川家康 
 
水戸黄門



1)左から土田御前、幼少期の織田信長、織田信秀 

2)愛西市(勝幡駅前)3)勝幡は信長誕生地としてPR (130601)


  1)於大の方  2)刈谷市(椎の木屋敷跡)

3)1528〜1602年。三河刈屋城主水野忠政の娘として生まれ、1541年攻略結婚により、岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年男子を出産、これが竹千代、後の徳川家康となる。
しかし、父水野忠政が病死した後、刈屋城を継いだ兄信元が織田方に付いたので、今川氏の保護を受けていた広忠は、1545年、於大を離縁して刈屋に帰す。その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁したが、於大は、家康が織田方の人質となってからも音信を絶やすことがなかったと伝えられる。家康も生母の至情を忘れることなく、天下統一の後には、再婚しているにも拘わらず、実家の者として於大を迎え入れ、久松家を親戚として尊重した。夫の久松俊勝逝去の後は髪をおろし「傳通院」と号した。椎の木屋敷には松平広忠から離縁された後、久松俊勝へ嫁ぐまでの間移り住んだといわれている。  (121127)


1)小野道風  2)春日井市(上:観音寺、下:春日井市道風記念館)  3) 894〜967年。平安時代中期の
書家、歌人。小野篁の孫、小野好古の弟。醍醐、朱雀、,村上の3天皇につかえる。和様の書を確立し、藤原佐理、
,藤原行成とともに三蹟とよばれる。「後撰和歌集」に5首のる。作品は「屏風土代」「玉泉帖(じょう)」など。
春日井市松河戸町の生まれという伝説がある。観音寺は道風記念館の東隣にある。       (121124)
   
   


 1)稲垣一郎  2)西尾市(西尾市歴史公園)  3)1887〜1938年。西尾上町で茶園、製茶、
販売を営む。大正10年(1921)繭販売組合吉良社を設立、初代理事長に就任。大正12年から愛知県
議会議員として3回当選、11年間勤める。昭和12年西尾町長。西尾町茶業組合長、愛知県茶業
組合連合会長等をつとめ、西尾茶の宣伝に貢献した。       (120506)           



1)豊臣秀吉 2)一宮市(一宮高等学校内)
豊 太 閤 銅 像 の 由 来  
この銅像は1936年 当時本校教諭であった現愛知学院大学長小出有三先生が郷土教育資料として
寄贈せられたが 偶々大東亜戦争に因って供出した 爾来先生はこれが再建を念願して居られたが
1963年先生が古希の寿齢を迎えられたのでその記念として六中時代の教え子720数名が協力して
その悲願を達成した   (銅像裏面記載内容)                           (110327)


1)織田信長(左)と今川義元(右) 2)名古屋市(桶狭間古戦場公園)
3)(今川義元について記す。織田信長はこのページに前出)1519〜1560年。
戦国時代の武将。今川氏親の子。兄氏輝の死で駿河・遠江を領国とする家督を
つぐ。織田氏を攻め三河も支配,今川家の全盛時代をきずく。1560年尾張に侵入。
織田信長の奇襲をうけ、桶狭間で同年5月19日討ち死にした。42歳。 (101229)


1)三岸節子 2)一宮市(一宮市三岸節子記念美術館)
3) 1905〜1999年。女性洋画家で唯一の文化功労者。
愛知県一宮市に生まれ、東京の女子美術学校(現・女子
美術大学)で油絵を学ぶ。1924年、三岸好太郎と結婚。
1946年、女流画家協会を創立。1968年からは南仏に
居を移して、作品の制作をする。1991年に帰国し神奈川
県大磯の山荘へ転居。             (101017)


1)志賀重昂(しげたか) 2)岡崎市(東公園) 3)1863〜1927。岡崎市生まれの世界的
地理学者で日本人初のイギリス王立地理学会名誉通信員。その他、政治家、ジャーナリスト、
教育家。1886年、自費で軍艦「筑波」に乗船、オセアニアを調査研究した。1888年に政教社を
     起こし「日本人」を創刊。「日本ライン」の命名者。著作に「日本風景論」がある。(100825)     


1)利修仙人 2)新城市(湯谷温泉) 3)鳳来寺を開いた利修仙人は山城国端正郡
(京都市)の人。欽明天皇31年(570)生まれという。百済国に渡って仏法を学んだ後、
この鳳来の地へ来て千寿峯、万寿坂で修導し、白鳳元年(672)入山した。(中略)
利修仙人はたびたびこの鳳来泉につかり、心身を整えて仙術を身につけたという。
元慶2年(879)309歳で山中の岩窟に入定した。(現地案内板より)    (100307)


1)渡辺錠太郎   2)小牧市(西林寺)   3)1874〜1936年。小牧で生まれ、19歳で
岩倉の渡辺家の養子となる。独学で士官学校に入学し、陸軍大将、教育総監の要職に
就いた。昭和11年2月26日未明の二・二六事件の犠牲者の一人となった。(091229)
1)徳川義親  2)小牧市(小牧山)  3)1886〜1976年。植物学者、侯爵、貴族院議員、
尾張徳川家第19代当主。尾張徳川家当主として、財団法人徳川黎明会を組織し、のちに徳川
美術館を開設するなど徳川家の歴史的遺産の保存や社会文化活動に力を注いだ。小牧山も
昭和2年国に寄贈した。また植物学者としても林政学の分野で先駆的業績を残した。(091229)


1)伊奈長三郎

2)常滑市(陶芸研究所)


3)1890〜1980年。常滑焼きの陶工伊奈家の六代目。常滑の窯業を発展させるために伊奈製陶(現INAX)を創業、タイルのトップメーカーとなる。常滑町議員、常滑町長、常滑市初代市長を務める。陶芸振興を目的とした市立陶芸研究所建設の資金を寄付。 (091024)


1)中村道太  2)豊橋市(豊橋公園)  3)1836〜1921年。吉田藩士の中村哲兵衛の長男と
して生まれた。28歳の時、福沢諭吉の書いた『西洋事情』に感動し、師弟関係を結んだ。その後丸屋商社
(のちの丸善)に入社し社長となる。そして豊橋に戻り、東三河地方で初めての銀行である朝倉積金所を設立、
さらに政府の国立銀行条例に基づき豊橋に第八国立銀行を設立した。
    (100127)
1)神武天皇  2)豊橋市(豊橋公園)  3)『古事記』『日本書紀』に出てくる初代天皇。
九州の地から大和の地へと遠征していく「神武東征」の場面が有名。現在の建国記念の日
は神武天皇の即位の日とされている。日清戦争での戦勝記念碑として奉納された。 (090826)

1)伊藤圭介  2)名古屋市(御園小学校)
3)1803〜1901年。尾張名古屋出身。25歳の
ときに長崎へ赴きシーボルトに師事、本草学の
革新へと進んだ。のちに東京大学に迎えられ、
小石川植物園を監督した。明治21年に日本最
初の理学博士となる。リンネの植物分類法を初
めて本格的に紹介した。   (090826)


1)都築弥厚  2)安城市(弥厚公園)  3)1765〜1833年。明治用水の祖。荒れ野だった
安城が原に用水を通す計画を立案。矢作川の水を引っ張ってくるということで、地域の住民から
洪水の心配で反対する声が多かったが、私財を投げ出して測量等計画を進めた。しかし、志半ばで
亡くなった。その後、岡本兵松・伊与田与八郎らによって明治用水は完成した。 (090723)
1)岡田菊次郎  2)安城市(JAあいち中央本店) 3)1867〜1962年。18歳で
村役場の書記となり、その後、安城町長、碧海郡議、愛知県議を歴任した。
耕地改良事業に献身し、また明治用水管理者で水の神様といわれた。(090702)
1)山崎延吉  2)安城市(安城農林高等学校)  3)1873〜1954年。石川県出身の
日本の農政家・教育者、衆議院議員、貴族院議員。愛知県立農林学校初代校長。農業改善に
力を尽くし、安城市一帯を「日本のデンマーク」と呼ぶほどの農業先進地にした。(090702)


1)吉良上野介義央 2)幡豆郡吉良町(黄金堤) 3)1641〜1702年。元禄15年(1702)12月14日、
赤穂の旧家臣に討たれ悪人扱いされているが、地元吉良町には、義央公が築いた黄金堤(こがね
づつみ)を始め、義央公が寄進した文化財等も多数残り、今でも名君として慕われている。(090514)



1) (左)太田賛平 (中)太田善四郎 
(右)池田駒平  2)幡豆郡一色町(前野神社)

太田賛平

太田善四郎

池田駒平
3)一色町出身の3偉人の銅像が前野神社境内に建立されている。中央に立つ太田善四郎は1846年
生まれ。84歳で亡くなるまでに村長、郡会議員、衆議院議員などを歴任、一生を通じて公共につくし、
地方開発、住民の福祉に貢献した。左の太田賛平は善四郎の二男にとして1885年に生まれる。町長、
県会議員、その他水産、農業、商工などの各種組合長などを歴任。それらの功績により正六位勲五等に
叙される。右の池田駒平は1906年生まれ。県会議員5回当選を果たすなど郷土の発展、地方自治の
進展に寄与したが、58歳で逝去。いずれも議員活動などを通じて、地域発展に貢献した。 (090514)


1)河野霧海  2)稲沢市(素盞嗚社) 3)南禅寺派第5代管長。愛知県稲沢市
生れ。号は南針軒・僊壷庵等。正眼寺の泰龍文彙に参じ、のち虎渓山僧堂の
豊田毒湛の印可を受ける。昭和10年(1935)没、72才。         (081223)


1)近藤勇  2)岡崎市(法蔵寺)  3)1834〜1868年。新撰組局長。近藤勇は東京板橋の
刑場で斬首、首は京都三条大橋西に晒されたが、同士が三晩目に持出し近藤勇ゆかり京都誓願寺に
持ち込んだ。しかし、誓願寺の住職が法蔵寺の住職になったため、土方歳三ら新選組の同士達と
この寺に埋めたと言われている。                              (081101)


1)高田 知文  2)北名古屋市(松林寺前)  3)大正8年から昭和3年にかけ旧西春町の
公共事業に貢献。、旧西春町の九之坪から沖村まで、2間幅の道を造った。  (081013)


1)豊臣秀吉  2)名古屋市(常泉寺)  3)1536〜1598年。尾張国中村の百姓の
子として生まれる。織田信長に仕える。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、
山崎の戦いで光秀を破り信長の後継の地位を得る。大阪城を築き関白・太政大臣に
任ぜられ豊臣姓を賜り、全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や
刀狩などの政策を採る。慶長の役の最中に秀頼を徳川家康らに託し没した。(080915)
1)加藤清正  2)名古屋市(妙行寺)  3)妙行寺は常泉寺のすぐ南側に位置する。
清正の説明は、本ページ下部(能楽堂前)に掲載済み。    (080915)



1)中村寿一・豊田喜一郎
2)豊田市(市役所広場)

3)(顕彰碑要約)豊田市の経済
は、自動車産業を中心に飛躍的
発展し、今や世界的な産業技術
中核都市に発展したが、これは
昭和13年9月、当時の論地ヶ原
にトヨタ自動車の挙母工場が進
出したことが大きく、工場誘致に
粉骨砕身された中村氏、豊田氏
の英断と努力によるものである。
  (080620)
1894〜1952年。自動織機を発明した豊田佐吉長男と
して生まれた。トヨタ自動車工業株式会社の創業者。
豊田市に自動車量産工場を建設し、国産自動車工業の
基礎を確立した。
2代目挙母市長(1955.5〜1956.2)。挙母町長時代、
トヨタ自動車の誘致に奔走し実現した。工業都市の基盤
作りに尽くした。挙母市は豊田市の前身。


1)前田利家  2)名古屋市(荒子駅前広場) 3)1538〜1599年。尾張国荒子村の土豪
前田利春の四男として誕生。15歳で織田信長に仕え、尾張海津(萱津)の戦いに初陣して以来、
次々と合戦で武功をあげ、32歳で前田家の家督を継ぐ。賤ヶ岳の合戦後、勝利した秀吉に仕え、
加賀国金沢城に入城する。以後、利家は、秀吉の全国制覇の重要な担い手として活躍、また、
秀吉の幼子秀頼の傳役となり、徳川家康と肩を並べる豊臣政権下の実力者として五大老にも
列する。慶長3年(1598)秀吉が没すると、翌年後を追うように63歳の人生を閉じる。(080406)


1)水野又太郎良春  2)尾張旭市(尾張旭駅前広場)  3)元弘の乱(1331年)に吉野金峯山寺の
僧兵団の将として戦い、建武の新政とともに祖先の地である志段味(名古屋市守山区)に帰った。
延元元年(1336年)、南北朝の戦乱に際し、吉野によばれ南朝方として転戦した後、再び帰郷し、
康安元年(1361年)に志段味から南の地に移り、居を構え田畑を開墾し、新居村を築いた。(080222) 


1)唐人お吉  2)知多郡南知多町(白砂の湯)  3)唐人お吉こと斉藤きちは1841年に
南知多町内海に生まれ、4歳の時一家で下田に移住。14歳で芸者となり、米国の総領事ハリス
の世話係となるが、このことがお吉の運命を大きく変え、離婚、事業に失敗、酒に溺れて
50歳で投身自殺。この像のモデルは歌舞伎俳優の坂東玉三郎。(071116)


1)大野晃  2)北名古屋市(十五カ用水脇) 
3)木津用水から取り入れている五カ用水と十カ用水の効率を
高めるための十五カ用水事業に、組合長として事業一切の中
心的原動力として活躍し、昭和8年5月完成させた。(071027)


1)堀尾金助とその母   2)丹羽郡大口町(八剱社)  3)堀尾金助は天正18年小田原攻めに
初陣したが、同年18歳で病死した。一人息子の金助の供養のため、その母は翌年名古屋の裁断橋を
かけかえる。さらに息子の三十三回忌に裁断橋を改修してその擬宝珠に由来をほり、我が子の
冥福を祈った。この銘文は我が国の女性文の3名作のひとつといわれる。       (070701)


1)ヨハネス・デレーケ  2)愛西市(船頭平河川公園)  3)1842〜1913年。1873(明治6)年、
明治政府に招かれて来日したオランダ人技師。木曽三川分流工事をはじめ,多くの河川・港湾の
設計や工事の指導をした。「治水は治山にあり」という理念の下、分流工事だけでなく、山林の保護や
砂防工事も提案した。分流工事は明治33年に完成、36年に帰国した。 (070602)


1)アンリー・デュナン 
2)名古屋市
     (愛知県白壁庁舎)


3)1828〜1910年。国際赤十字の創始者であり、初のノーベル平和賞受賞者。スイス人。1859年に起こったイタリア統一戦争の惨劇を目の当たりにし、戦時におけるすべての傷病者や捕虜の保護を目的とした国際赤十字を提唱、1863年に創立。1864年には赤十字に関するジュネーブ条約の成立にも成功している。
白壁庁舎には日本赤十字社愛知県支部が入居していることからデュナンの像が建立されたと解される。  (070528) 



1)タロ・ジロ 2)名古屋市(名古屋港)
3)昭和33年2月、悪天候の為、タロ・ジロを含め15頭の樺太犬は昭和基地に置き去りとなる。1年後、タロ・ジロの兄弟犬の生存が確認される。昭和30年生まれ、タロは昭和45年、ジロは昭和35年死亡。昭和60年、南極観測船「ふじ」が名古屋港に永久係留、博物館として公開されたことを記念に「タロ・ジロ」の像が建立された。  (070526)


1)渡辺崋山  2)田原市(池ノ原公園)
3)1783〜1841年。田原藩家臣・渡辺定通の長男
として生まれる。困窮した生活をしのぐために画業を
学び、蘭学・西洋画にも長じた。40歳で田原藩家老を
務め、天保の大飢饉には備蓄庫によって藩内に死者
を出さなかった。1833年高野長英、小関三英らと尚歯
会を結成し、日本の海防強化を唱えた。1840年蛮社
の獄に連座し、蟄居中に自殺。  (070424)


1)本多光太郎  2)岡崎市(岡崎市民会館)
3)1870〜1954年。長岡半太郎の指導の下に、
磁気のひずみの研究を行った。その後、鉄および
鉄合金の研究に進み、強力な磁石鋼であるK・S鋼
を、1933年(昭和8)にはその4倍近い保磁力をもつ
新K・S磁石鋼を発明し,文化勲章を受賞した。
鉄鋼の世界的権威者としてその名を知られ、鉄鋼
の父「Steel Father」と呼ばれている。(070212)


1)下山順一郎  2)犬山市(犬山城)
3)1853〜1912年。尾張犬山藩士の長男と
して生まれ、明治11年、現東大医学部を首席で
卒業する。明治16年ドイツ留学。帰国後の明治
20年帝大教授。生薬学講座を開設し、生薬学
の基礎を確立した。明治32年薬学博士第1号
となる。日本薬剤師会初代会長。(070203)
1)墨宇吉  2)一宮市(念敬寺)
3)1855〜1938年。手作業で行っていた
織り上がった織物の仕上げの艶だし
作業を機械化し、近代工場を建設、
艶出しの技術で尾州織物を広めた。(070127)
1)内藤魯一 2)知立市(猿渡公民館)
3)1846〜1911年。福島の譜代大名板倉氏に
仕えたが、三河に転封になって後23歳の若さ
で執政大参事となり,抜本的な行政改革を
行った。1879年(明治12)に,魯一らが中心に
なって知立に「三河交親社」が結成された。
その後自由党を設立し,自由党総裁の板垣
退助が遊説したときは先導役を務めた。


1)野口米次郎  2)津島市(天王川公園)
3)1875〜1947年。愛知県津島市に生まれ、1893年に
渡米して放浪の後、詩人ミラーに師事して勉学に励む。
後に渡英して詩集『From The Eastern Sea(東海より)』
を出し、国際詩人としての名声を得る。象徴的叙情詩人
として評価され、「ヨネ・ノグチ」の筆名で外国では知ら
れている。   (061030)
1)雉本朗造(きじもとときぞう) 
2)名古屋市緑区(浦里公園)

3)1876〜1922年。ドイツで民事訴訟法を学んだ後に日本の民事訴訟法を体系化し、京都帝国大学法学部教授を勤めた。1917年、鳴海の小作人は凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、「鳴海争議」がぼっ発する。雉本家にかつて出入りしていた小作人が高い法律知識をもつ彼に争議への協力を願い出、1920年に仲裁に入った彼に対し,地主側がまったく応じようとしなかった。彼は農民の側に立って裁判の参加に踏み切る。鳴海争議は長引き、1922年には国会でも問題となり、翌年に和解が成立し,小作料が引き下げられた。しかし、前年に静養先からの帰途,船上から姿を消し,遺体で発見された。地元で銅像後援会を作り、保存に努めている。 (061017)

1)細井平洲   2)東海市  3)1728〜1801年。知多郡平島町の農家に生まれ、7歳の時から
寺子屋へ通って勉強。その後、9歳で名古屋に出て学問を積み、私塾を開く。教えは分かりやすく多くの
人々を引き付け、やがて米沢主上杉鷹山の大切な相談役として重用され、藩財政の建て直しに活躍する。
その後、平洲は尾張藩に帰郷し、藩校「明倫堂」を開設し、武士ばかりでなく町人も講義を聴ける日を設けた。
「人はみな学ぶことによって正しい人の道を知ることができる」最後までこの信念を貫き通した。
東海市内に4カ所も像が立っているのにはびっくり、平洲を誇りに思う気持ちを感じる。 (060920) 

加家(かけ)公園

中央図書館

平洲小学校

平洲記念館
1)二宮尊徳  2)一宮市(中学校校庭)
3)1787〜1856年。相模国足柄上郡栢山村(小田原市)の
農家に生まれる。 14歳で父を、16歳で母を亡くし、伯父の家に
引き取られた通称・金次郎は、日夜一生懸命に働き、暇を惜し
んでは勉学に励み、 弱冠24歳の時、独力で一家を再興した。
また、小田原藩家老・服部家の財政建て直しにも成功するなど
して、高い才能を藩主・大久保忠真公に認められ、1822年、野
州桜町復興の命を受ける。自ら体得し編み出した「至誠」「勤
労」「分度」「推譲」の四つの教えは、天保の大飢饉にも生か
され、 多くの人々を救済した。
    (060910)
久しぶりに母校に用があって出かけたら、二宮金次郎像が残
っていた。最近めっきり見かけなくなったものが、母校にあって
ホッとした。我々が小中学生の頃、どこの学校にあったものが
なぜなくなったのだろう。真似したら交通上危ないと言うが・・。
1)徳川家康 
2)岡崎市(岡崎公園)
3)1542〜1616年。 江戸幕府初代将軍。三河岡崎領主松平広忠の子。幼いころは織田氏や今川氏の人質となるが1560(永禄3)年桶狭間の戦以後岡崎に帰り今川氏を離れて織田信長と結んで三河を平定した。姉川の戦、三方ヶ原の戦、長篠の戦、小牧・長久手の戦、小田原攻めなどに参戦。後北条氏の滅亡後関東に入る。1600(慶長5)年関ヶ原の戦で石田三成を破り1603(慶長8)年征夷大将軍に江戸に幕府を開く。将軍職を秀忠に譲った後も大御所として活躍した。  (060904)
1)本多忠勝  2)岡崎市(岡崎公園)  3)1548〜1610年。徳川四天王の一人。
徳川家きっての猛将。永禄三年(1560年)大高城兵糧入れで初陣後、関が原の戦いまで
生涯57度の戦いにおいて傷一つ負わなかったと言われる。鹿角脇立兜をかぶり、止まった
トンボさえも真っ二つになるという名槍「蜻蛉切」を片手に、家康とともに主要合戦にはほとんど
参陣した。家康の関東入封に際して上総大多喜十万石を拝領し、関ケ原の戦い後は伊勢
桑名で十万石の他に次男忠朝が大多喜五万石を領する。慶長15年10月18日63歳で死去。

1)織田信長  2)清須市(清洲公園)  3)1534〜1582年、信秀の子として生まれる。
信秀の病死により織田家の家督を相続すると、家臣団の統一、尾張国内の統一を果たす。
1560年、大軍を率いた今川義元を10分の1の兵数で桶狭間(桶狭間合戦)において打ち破り
その名を天下に轟かす。その後、戦国の有力武将を次々と滅亡させ、畿内を平定し、信長自身が
助けて足利幕府15代将軍につけた、足利義昭を追放し、足利幕府を滅亡に追い込むなど、
比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、天下統一まであと一歩と迫る。 しかし、1582年中国地方を
攻略中の羽柴秀吉を救援に向かう際、宿舎とした本能寺を明智光秀に襲われ、切腹。享年49歳
1)濃姫  2)清須市(清洲城広場)  3)1535〜1612?年。斎藤
道三の娘で織田信長の正室。帰蝶。美濃から嫁いだので濃姫と呼ばれる。
その生涯についてはあまり史料がない。  (0608901)
1)加藤清正  2)名古屋市(市能楽堂前)  3)1562〜1611年。安土桃山時代の武将。
尾張の人。豊臣秀吉に仕える。賎ヶ岳七本槍の1人。天正16(1588)年肥後半国を与えられ
熊本城主となる。文禄・慶長の役、関ヶ原戦など多くの戦功をのこすが、特に文禄・慶長役の
蔚山の戦や虎狩は有名。築城・治水・干拓も得意とし、7年をかけて築城した熊本城のほか
尾張名古屋城・肥前名護屋城の設計もしている。          (060830)
1)盲導犬・サーブ  2)名古屋市(久屋公園)  
3)1977〜88年。中部盲導犬協会で盲導犬としての訓練を受けた後岐阜県美並村の全盲の人に仕えていたが、1982年に誘導者を交通事故から身をていして守り、片足を失った。この美談が広がり「がんばれ盲導犬サーブ」という本が出版されたり没後に像が建てられたりした。   (060830)

川柳&ウォーク