zu141  縁 あ れ ば こ そ

 
 (その1)偶然が偶然を呼ぶ
 令和6年7月のことである。JA年金友の会が主催する1泊2日のバス旅行に参加した。事前に渡された参加者名簿から妻の知り合いのご婦人が参加されることを知った。妻とはPTA役員で一緒であり、また長いこと公民館活動を一緒にしていた。とは言ってももう20年も前のことである。そしてそのご婦人の名前は私も知っていた。妻宛に毎年年賀状が届き、特徴のある年賀状に私も覚えていたのである。更に近年知ったことであるが、二女がそのご婦人の近くに住んでいて、時折声をかけてもらっていたのである。
 バス1台30人の参加者である。バスの座席名簿が渡された。私は一番後部席である。私がこの旅行を申し込んだのは締め切り間際である。ある知人と話していて「JAの支店長が参加者集めに苦労しているので、申し込んだら喜ばれるよ」と、言われたからである。電話したら喜ばれ、すぐ申込書を持ってこられた。そしてそのご婦人もほぼ見当がついた。最初の立ち寄り場所で椅子で隣り合わせになった。一緒にいたもう1人の女性が知り合いだったので、多分彼女がその場を作ったと思う。その時は挨拶程度で終わった。
 そのご婦人(以後「タミゴン」と書くことにする)は、ご主人と一緒に参加されていた。夜の宴会の席で、私は近くの人にビールを注いだ。少し遠いその人にも手を伸ばして注ごうとしたら、立ち上がって私の側にやって来られた。タミゴンのご主人であった。話しているうちに「一宮カラスと起トンビ」の話になった。この人は何を言っているのか、とよく分からなかったが、話していて昔自分が書いた文章のことか、と気がついた。昔、頼まれて仕事に関して業界誌に書いたことがある。このご主人とも初対面である。私について、このことだけが強く印象に残っていたのであろう。
 翌日松本城へ行った。天守閣に登ろうと、受付へ行ったところタミゴンに出会った。ご主人は登らないということで、1人だった。その後バスに帰るまで、2人でズッと話して過ごした。随分いろいろな話ができた。そしてその後、添乗員さんに頼んで、2人のLINEを組んでもらった。もうこうなれば、いろいろなやり取りができる。早速2人が写った写真を送った。
 未だ会ったのはその1回であるが、LINEでは随分やり取りをして、かなりいろいろなことを知った。私のホームページのアドレスも教えた。時折見ていてくれているようである。8月末のある日、川柳の話から年賀状の話になった。私の年賀状は、川柳を始めて以来、妻と2人の川柳を載せてきたからである。そしてこの話から、タミゴンからもらった年賀状が残されていないか、早速調べてみた。7枚あった。そして、平成6年の年賀状に「12月初め、主人が“チョット面白いものがあった”と、コピーして持ってきてくれた」と添え書きしてあった。そして私の名前も書いてあった。それが先に書いた、業界誌のコピーである。そして、私も久しぶりにその業界誌を読んだ。もう30年も前のことである。懐かしく読んだ。
 ここまで来るのには随分いろいろな偶然が重なっている。その偶然が繋がって30年前を振り返ることになった。一つでも欠けたらこうはならなかったであろう。これも「縁あればこそ」であろうか、何とも愉快である。これからタミゴンとどんな交流になっていくのであろうか。   (令和6年8月30日)

 
(その2)自転車旅行
 JA年金友の会の旅行は7月22日であった。タミゴンとの話から、昔のことをいろいろ思い出すきっかけになった。そして「青春放浪記」に、学生時代に行った自転車旅行のことを書いてないことに気がついた。これぞまさに私の青春、代表的な出来事である。
 大学1年の夏休みから大学3年の春休みまで、4回自転車で旅行をした。第1回は昭和39年8月16日から6日間、2人で箱根・芦ノ湖まで行った。これは完全に失敗であった。第2回は昭和40年3月13日から8日間、2人で姫路まで行った。これはまず順調であった。第3回は昭和41年3月9日から2週間、1人で紀伊半島を一周した。これも満足で自信を持った。
 そして第4回目である。大学の同級生で九州へ旅行することになった。4月10日から4日間である。それを私は1人自転車で行くと言ったのである。家から敦賀へ出て山陰を走り、4月10日に門司で落ち合う計画を立てた。昭和42年3月28日に家を出る。思いのほか早く進んだ。熊本まで行けると踏んで、やまなみハイウェーを走り、熊本まで行って門司に返った。4日間皆と共に行動し、帰りは山陽を走って帰る。4月19日、23日間の旅を終え、無事に帰宅した。このことを簡単に「青春放浪記(その5)」として7月31日までに一応まとめた。そしてこれは10月10日にホームページに掲載した。
 ところが記録を読み返していて「中国・北九州地方1周自転車旅行」をデジタル化したくなった。今にしてみれば全く驚くばかりの記録である。8月25日から着手した。8月31日の中日新聞発言欄に「息子の夏休み」と題して、高校生の息子が浜松まで自転車で出かけた、という投稿文があった。何か身近な話しに感じた。それを9月26日の「話・話」 第3731話として掲載した。更にこの「話・話」 から10月7日に英人書を書いた。「自転車の若者に吾思い出す」。このように偶然、縁は繋がってくる。ただこの縁のほとんどは一期一会であったが、全く楽しかった。
 日記風の記録文はほぼデジタル化を終えた。後は精査と写真などをどうするかである。いろいろな構想が浮かんでくる。    (令和6年9月20日)


(その3) 思いがけない発展
 10月5日(土)、一宮友歩会は第104回例会「史跡巡りシリーズ・岐阜編part16」として、IR東海道本線美濃赤坂駅より歩く例会を実施した。36名の参加である。赤坂港跡、赤坂宿、昼飯大塚古墳と見ていく。コースリーダーが遊塚古墳を見ていこうという。下見の時、遊塚古墳は探したがよく分からなかったので、その後コースリーダーが調べたようだ。そう言われるならと、先に言って確認をしなければならない。自分が先に歩く。見かけたご夫婦に聞くが、ここは遊塚であるが、古墳はよく分からないと言われる。大方の見当を付けて急ぐ。そして見つけ、少し遅れてきた参加者にはそれを見てもらう。
 これからの話しは、私が例会から家に帰ってから後のことである。帰ったら妻から、今日の例会を見た人から電話があり、この番号に電話をしてくれと言う。早速に電話をした。女性であった。凄い勢いで話される。圧倒される。今日私が遊塚古墳を尋ねたときにおられたご婦人ですか、と問えば私には「まだ会ったことがない」と言われる。どうも私が通り過ぎた後、一宮という地名に懐かしくなって、後続の人に話し掛けられたらしい。各務原という地名が出てきたので、その人に尋ねることにした。各務原の参加者は一人である。後日メールを送って尋ねたら、数日後に返信が届いた。
 “あの時、遊塚古墳の手前で彼女に出会いました。良く喋る人でした。会長の所に電話が有ったのなら、良く喋ったでしょう。彼女、一宮市の今伊勢出身だと言っていました。私たちが通過した時に「一宮友歩会」の旗を見て親近感を持ったのだと思います。「唄つむぎ和音」と言う名前で色々の活動しています。”とあった。YouTubeやブログも添付されていた。これでかなりなことが分かった。そして数日後に彼女(以下和音さん、と書きます)から葉書が届いた。その葉書は5日の差し出し日になっている。何という行動力であろうか。
 そして再び電話をし、手紙を出した。数回の電話と簡単な葉書だけで、まだ会ったこともない人である。手紙には自己紹介と何を求めておられるのか、そんな質問もした。次に来た手紙は10月24日差し出しである。それには“御縁というのは宇宙の真によって、私たちの生命が生じる以前より組み立てられているものと言う科学者もあり、本当に不思議で楽しいものと近頃感じており、感謝”とあった。まさに縁を求めていく人であった。
 また電話をした。YouTubeで、ご主人がギターを弾き、和音さんが歌を歌い、いろいろなところへ慰問されていることを知ったので、そのことを話題にした。そして私も私である。サロンを主催しているので、そこへ一度出演して貰えませんか、と話してしまった。そしたら5月の第2火曜日は空いているので喜んでいきます、という言葉である。あっけない位の話である。さてこれからどうなっていくのでしょう。     (令和6年12月10日)


(その4) ちょこボラ 
 一宮市千秋町ではほぼ毎月末広大学という、高齢者向けの講座が開かれている。末広というのは開催が原則「八」日だからである。場所は千秋町公民館である。令和6年7月は「ちょこボラサービス」についてであった。私には初めて聞くサービスである。一宮市社会福祉協議会が主催し、言葉の通り、ちょこっとしたボランティアサービスである。サービスを提供する人も受ける人も登録が必要である。そして令和6年4月時点で千秋町で提供する人はゼロであった。そして後日の話である。私の同級生が「ゼロはまずい」、と言い出す。私も同感である。そして早速2人で登録をした。ボランティアの要望が多いのは草取り、掃除、買い物である。ちなみに、ボランティアを受ける人は30分330円を払い、する人は300円を受け取るのである。
 9月に入って依頼が入り、9月20日、同じ町内の家庭に出かけることになった。庭の草取りである。妻には自分の家の草をほかっておいて、他人の家の草取りか、と皮肉を言われる。2人である。相方は同じ町内の人であった。ちょこボラは6月に申し込まれたようである。2人で1時間半ほど、草取りに精を出す。そしてお互いいろいろな話をする。私の同級生の従兄弟に当たる人であった。2回目は11月22日であった。そして相方は前回と同じ人であった。もう気心も知れている。私よりかなり若い。自然私が全体を見ながら指示役になる。これからもこのコンビは続く気がする。その後知ったところによると、どうも(その1)のタミゴンのご主人と同じ勤務先であったようだ。これでまた少し縁が深まった。同じ町内だけにまだいろいろな縁を感じることもあろう。縁があればこそである。楽しみである。   (令和7年1月5日)

 
 ここまでその時その時、思いついたときに書いた。もう大分時間が経ち、状況が変化したこともある。その後の話は後日の楽しみとして、今回はここで終えておきます。 (令和7年2月4日)

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