zu137   残 念 な こ と

 
 いつも調子のいいことばかり書いている気がするので、今回は少し残念なことを2つばかり書いてみます。いずれも令和5年のことで、少し書いてあったものの手直しです。

◎健康体操クラブ「羽根る会」
 私の村・浅野羽根に平成29年5月に発足し、この令和5年9月に解散した健康体操クラブ「羽根る会」と言うものがありました。私は発足から解散まで携わってきました。
 私は平成29年度4月から村の老人クラブ「白寿会」のクラブ長を務めることになりました。会員は250名ほどです。村には当時、第1白寿会から第3白寿会まで3つのクラブに別れ、私は第1白寿会のクラブ長になると共に、3人のクラブ長の代表になりました。そして何と、千秋町内の老人クラブ連合会長にもなってしまうのです。(注:ここでは村が16集まって町内と表現する)
 新年度始まってすぐの4月2日、老人会会員の女性が娘さんを伴って訪ねてこられました。健康体操を指導している人があって、私の村で受け入れないかと、言われるのです。よく聞いてみると、毎月第3木曜日に町内の公民館で指導しているが、午前が空いているので、その時間を活用したいと言われるのです。娘さんは、地域包括支援センターの職員で、こうしたことの支援をしておられる方でした。私は、健康クラブのようなものを作られたら、老人会は支援しましょうと、話しました。そして数週間の内に20名以上の参加者を集められたのです。4月20日午前9時半、羽根の公民館にその人たちに集まってもらって、会合を開きました。そして、会長には老人会の女性部長になってもらいました。会の名称も「跳ねる」をイメージする「羽根る会」となりました。この語呂合わせには全く感心しました。指導者はあるのだから、後は進めながら考えていくことにします。
 第1回は5月18日午前10時、浅野公民館で開始です。私はこの日は他用で欠席しましたが、翌月の6月15日は参加しました。参加者は25名近く、しかし男性は1人もいません。指導者は男性2名、椅子に座っての簡単な体操が主で、タオルを持っての体操もあります。私にはいささか物足りないのですが、高齢女性には適当かも知れません。そして約1時間で終了です。高齢者はまず出かけること、参加することが大切と考えているので、内容はその次です。男性が1人もいないこともあって、これからはできるだけ参加しようと考えました。これも支援のつもりです。その後指導者には、口腔衛生士の女性(以下Sさんと書く)も加わりました。平均20名以上の参加者を得て、平成29年度は終わります。そして、3月1日付けで会則も施行しました。案は私が作ります。役員には会長補佐、会計また若干の世話人も設けました。会場準備等には人も必要です。
 会長を女性部長としたことで、翌年度は会長が替わりました。会長と言っても特に用務はなく形式上です。平成30年度は私は老人会の役員から身を引きます。と言っても、平成29年6月から始めた「サロン羽根邨」の運営のこともあって、いろいろな関わりは逃れられません。そして羽根る会の男性参加者は私1人と言うことで、次第に関わっていきます。令和元年度はまたクラブ長を引き受けました。
 令和2年度は新型コロナウイルス騒動のまっただ中です。指導者が福祉関係の人で、この人たちも出かけられません。結局1回しか開催できませんでした。
 令和3年度から老人会のクラブはひとつとなり、そして私が継続してクラブ長を務めることになりました。そして、羽根る会の会長も私が務めることになりました。令和3年7月からはコロナ禍も納まりが見えたので、継続して開催してきました。ところが参加者が半減してしまったのです。やはりこのコロナ禍の高齢者に及ぼした影響は大きいと改めて知りました。1人1人眺めていくと、本当に参加できなくなった人が多いのです。亡くなる、施設に入る、公民館まで出てこられない。当初は全く無報酬できてもらっていた指導者に、令和4年度より車代として1回3000円を払うことにしました。10人程度に3人の指導者で3000円、どうしようかと悩みました。
 ところが令和5年7月、男性指導者2人の方から、仕事の都合上行けなくなった、と言う連絡です。新たな指導者を探すほどの参加者はもうありません。これを機に解散とすることにしました。令和5年7月を以てちょうど60回の実施でした。
 そして、9月にはSさんに来てもらって、お別れ会としました。少し過去を振り返ることになりました。これで一つの歴史の終焉です。
 この口腔衛生士の話は非常に楽しく、また有意義でした。先日もある講演を聴きに行った時、タンパク質の摂取と口腔衛生を特に強調されていました。口腔衛生について話を聞き、指導を受ける機会はなかなかありません。そこでサロン羽根邨で年2回ほどの指導をお願いしました。
 最初から最後まで関わって足かけ7年、私の一つの歴史です。こういうことができた幸運をありがたく思います。 


◎高血圧症
 高血圧については高齢者の大半は降圧剤を飲んでいるのではないかと、そんな気がするくらいです。私ももう50代くらいから高めで、平成22年10月から降圧剤を飲み続けています。昨年令和5年10月にちょっとした事件を起こし、認識を新たにしたので、少し綴っておきます。川柳にも書いたので、それを利用しながら書いてみます。
    いつの間に血圧上がって降圧剤
    十余年降圧剤を飲み続け
 医師からは毎朝毎晩、血圧測定をするように言われる。妻も少し遅れて降圧剤を飲むようになり、そして妻は律儀にも今でも毎朝毎晩測定をしている。ところが私はそうではない。
    血圧を朝晩測る面倒さ
    測ること止めいつの間に幾数年
    病院の定期診察で安心し
 上腕で測定する器具を使っているので、上着を脱いだり、腕まくりをしなければならない。特に冬は大変である。そしていつの間にか止めてしまった。医師からも特に手帳を見せて欲しいと言われないので、そのまま過ごしてきた。そして、医師には2ヶ月に1度、診察を受け、血圧を測定し、降圧剤をもらってくる。安心していた。ところが、10月19日のことである。来客があって、一緒に自宅近くの喫茶店に行った。
    会話中めまい覚えた喫茶店
 1時間近くたってふらつきを覚えた。何かおかしい。収まった時を見て帰宅する。
    帰宅して血圧測れと妻が言う
    血圧が二百越えで仰天し
 何と最高血圧は200を超え、最低も100近いのである。妻は行きつけの病院にすぐ電話をし、車に乗せて連れて行ってくれた。手続きを終え、診察を待っている。
    診察を待つ間に異変起き
    ベット上で発汗おう吐繰り返し
    もうこれで終わるのかと不安持つ
 気持ちが悪くなり、ベッドに寝かせてもらう。そして嘔吐である。何回も吐く。すごい汗である。妻と看護士が拭いてくれる。点滴が始まる。
    点滴で血圧下がる時を待つ
 そして動ける状態になってからCTとMRI検査である。手足は自由に動く。私は倒れたとき脳梗塞を疑った。
    検査受け異常なしに安心し
 4時間くらいで、無理なく歩けるようになったので、帰宅する。さてそれからである。翌日金曜日の講演会はすぐ欠席の連絡を入れる。土曜日は一宮友歩会12月例会の下見である。翌日まで様子を見ることにする。倒れた連絡を入れた知人から「止めなさい」というきつい達しが来る。様子を見ているとやはり数値は上がってくる。自分でも不安である。まだ日数はある、延期にしよう。決断をすればすぐに連絡である。そして、翌週の出歩く予定はすべて取りやめにした。
    当分の外出予定は取りやめる
 日帰り旅行が2日もあったのに全く残念である。最高血圧が180を越えたら飲みなさいという薬を毎日1粒、3日飲んだ。そしてもうそんな数値になることはなくなった。
    数日で従前に戻り安堵する
    あの異常何であったのと首ひねる
 医師は時折あること、と妻に言ったらしい。本当に何だったのだろう、全く恐いことである。
    散々に忠告言われ言葉なし
    身を以て知る精進の必要性
    確かにと改善計る計画し
 倒れる前日の17日は外出していた。遠くで倒れたらまた大事である。妻も大きな病気を抱えている。支える貴方が倒れたらどうするのですか、強い言葉も返ってきた。血圧は血管の指標である。改めて血圧の重要さを認識した。測るのが面倒などと言っておられない。簡易にできる手首式血圧計を購入した。生活ももう少し考えなければならないだろう。元気に生きてこその人生である。人間の体というの本当に分からないものである。
    人間の不可解また一つ知る
 そしてちょうど半年経った。ほとんどすべてが元に戻った。毎日血圧を測定することもなくなった。
     (令和6年5月)


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