人はその時に応じた一つの生活習慣ができる。特に朝の過ごし方はどの人もある程度決まっていよう。何時に起き、まず何をし、次に何をする。私はこの朝の3時間の過ごし方を重視してきた。そのことを川柳連れ連れ草第236号の「英人の20句抄」の素材にした。その句に説明を付けながら私の生活の一端を紹介したい。
◎朝五時起きを始めて二十幾年
◎冬の五時暗くて寒くて辛いもの
◎習慣になれば苦もなく起きられる
毎朝5時にキチンと起きるようなったのは平成10年(西暦1998年)の頃である。ですからもう20年以上になる。それまでは夏は早く、冬は遅い季節に応じた起き方であった。早いと言っても5時頃であり、遅いと言っても6時半頃である。これは休日だから違うと言うこともなく、年中同じであった。
冬の5時はまだ真っ暗であり、寒いものである。起きれば机に向かう。今は離れを改築して日当たりのいい部屋にいるが、当時は母屋の北側の部屋で暗くて寒かった。でもこれも習慣で、慣れればそれ程の苦ではなくなる。
◎早起きのきっかけとなったインターネット
◎その頃は電話回線使ったネット
◎インターネット使えば電話がつながらぬ
◎早朝なら電話がかかることはなし
私がパソコンを買ったのは平成8年頃である。職場でもかなりの書類がパソコンで作るようになっていた。でも、仕事上私にパソコンは必要でなかった。担当者にパソコンに達者な人がいた。この機会に覚えておこう。この好奇心が私の私たるところである。その担当者にいろいろ助けてもらいながら順次覚えていく。そしてパソコンを使うようになると、インターネットに繋ぎたくなる。これが早起きのきっかけとなったのである。その頃は電話回線を使ってインターネットに繋いでいた。インターネットを繋ぐと電話が使えない。昼間や夜は電話がかかってくることもあって、これは問題が多い。早朝なら電話がかかることはまずない。そこで5時起きとなったのである。
◎朝一番コーヒーを入れ新聞読む
◎早朝は決めた時間が取れるもの
◎いつしか日記も朝書くことに
◎飲んで帰って夜は日記も忘れがち
◎思い出し書く日記は呆け防止
起きてすぐ湯を沸かし、コーヒーを入れるようになった。これは平成19年に離れを改造し、そこに机を移してからである。それまでは日当たりのいい離れは母が使っていた。母が施設に入り、この部屋をもう母が使うことがなくなったので、改造して自分達の居間と食堂として使うようにした。まずコーヒーを飲みながら新聞を読む。そして、前日の日記を書く。私は昭和60年から3年連用日記を使っている。今見てみると結構書いてない日がある。多分その日に飲み会でもあったのだろう。飲んで帰れば日記を書くどころではない。残業で遅くなったのかも知れない。夜は不規則である。その点朝はほとんど決めた通りに進む。いつから日記を朝書くになったかは確かではないが、離れに移ってからは朝だと思う。そして、この歳である。前日何があったか、すぐに思い出せないこともある。一生懸命思い出してみる。これぞ呆け防止である。
◎読んですぐ書く返信は危険です
◎いらだったメールは一晩置きなさい
◎一晩を過ぎれば気分和らぐもの
これはメールを朝書くようになって知ったことである。私はインターネットを使うようになるとまもなく、40歳以上が参加資格の「DMA」というメーリングリストに入った。中高年もメーリングリストを楽しもうというのである。60人ばかりの参加者であった。始まったばかりで盛んであった。ある時、私のメール文に批判が入った。一読してすぐに思ったまま返信を書いたのであろう。どんな内容だったか全く覚えていないが、完全なる誤解であった。参加者全員が読むのだから、すぐに皆が誤解だと言ってくれた。読んだすぐには何か激しい言葉で言い返したくなることがある。でも一晩経ってもう一度読み返し直してみると全く優しい文に変わっていく。これはその後私が度々体験したことである。今でも毎日とは言わないが、度々パソコンでメールを書く。スマホより多いであろう。よほどの急ぎでない限り、必ず朝送信することにしている。朝は冴えているし冷静である。
◎ラジオ体操に合わせ妻起きてくる
◎一緒に体操をして食事です
◎今年からこの後散歩が加わった
妻はどうかという、年中6時15分くらいに起きてくる。6時30分からのNHKのラジオ体操ができるようにである。その時私はほとんどパソコンに向かっている。これは平成18年頃からだと思うが、私も一緒にするようになった。このラジオ体操がまた私に大きな変化を及ぼすのである。今や私はラジオ体操の信奉者である。この話は長くなるのでまた別の機会にしたい。そして食事となり、その後に今年から朝の散歩が加わった。7時半頃から散歩に出かける。家を出て、100mほど行ったところの川の堤防を歩く。数年前に遊歩道として整備された。この整備には私も少し関わっていて、私が歩かない手はない。200mほど遊歩道を歩くと自分の畑がある。畑を見回り、そして墓に向かう。そこで手を合わせ、村中に入っていく。寺院、薬師堂、神社と手を合わせて周り、帰宅する。3000歩30分弱といささか短い散歩ではあるが、今や完全に私の日課になっている。良い日課になったと思う。コロナ下で出かけることが減ったおかげである。
◎早起きの得は片手で足らぬもの
◎充実の朝の三時間我が老後
このように早起きは三文の得どころか、大きな得があるのである。、数え上げたら5指どころか10指でも足らないかも知れない。充実の朝の3時間である。これが今の私である。
私は専業農家の生まれで、元々早起きであった。陽が上がると同時に起きないと親が許してくれなかった。農家は日曜日もなかった。「三つ子の魂百まで」で心身共に農家魂が身についていたのである。これは生涯良いことも悪いこともいろいろあった。
さてここまで書いて、私が早起きの起因になったパソコンことをもう少し書いておこう。職場でパソコンが全員に支給されるようになったのは、私の定年後、数年経ってからである。ですからパソコンの知識は無くても現役は無事過ごせたのである。私は定年の10年も前からパソコンの知識を身につけ、使ってきた。もちろんパソコン教室へ通う訳でも、誰かについて学ぶ訳でもない。必要な知識を自習で学び、それでも分からないことは周りの人に聞いた。平成12年(西暦2000年)にはホームページも開いた。人に勧められ、好奇心でそれに乗ってしまった。でもこのパソコンが曲がりなりにでも使えることが私の大きな力、威力となった。私より数歳若い人になるとパソコンが使える人は多くなるが、私の歳でパソコンが使える人は限られているのである。今神社総代をしているが、パソコンが使える人は私一人で、うんもすんもなく庶務担当になってしまった。檀家総代の時も、私のパソコン能力で事なきを得たときがある。それ以後パソコンを使うことが普通になった。町内会の副会長はパソコンができる人に限った時代があった。町会長はまずできないからである。私は59歳の時に副会長を務めた。思い出せばまだいろいろ出てくるだろう。そして、ホームページである。ホームページはテーマが問題である。そして一度作れば終わりではない。更新していく必要がある。「寺さんにはいろいろあるだろう」と人に勧められ、数ヶ月迷った。そして、ある構想を思いつき、着手した。独習、我流である。周りに聞ける人もいない。ホームページを開いている知人などいないのである。本当に1週間、寝ても覚めてもこのことばかりであった。それが今の「寺さんの川柳$ウォーク」である。今もってスタイルはほとんど始めたときのままである。下手に変えれば全体の形態が壊れてしまうと、変えていない。これは今さらという怠け心もある。見る人が見れば全く稚拙である。でも、何も分からない最初によくこれだけの構想を考えたものだと、感心するものもある。今もって川柳もウォーキングもしているので、更新のネタに事欠かない。逆にこのホームページがあるから川柳もウォーキングも止められないのである。相乗効果である。この随想も止められないのである。これもホームページのネタである。最も続くのは「伝えたい話・残したい話」(「話・話」 )になるかも知れない。これは新聞記事を素材に1000字ばかりの文章を書くだけである。ベットの中でもできる。9月中旬に3200話を超えた。
こう書いて、パソコンの知識を持ったことが人生をいかに豊かにしたか、改めて思う。きっかけはただの好奇心、いつまでも好奇心をなくしてはならない。
(令和3年11月) |
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