zu126
 
 神 社 総 代


 
 昨年(令和2年)2月頃に3年任期の神社総代を依頼された。いろいろな取り決めのある中で順番かな、と思って引き受けた。そして、3月中頃に引き継ぎがあり、第1回目の役員会議を3月28日に開いた。総代6名、一般役員27名の大所帯である。氏子は420戸である。
 総代の中で私は庶務担当を引き受けた。パソコンが使える人は私しかいないので、有無もない。総代6名は3年ごとに総入れ替えであり、一般役員は1年交替である。ほとんどの人が未経験者である。私にいたっては、神社のことはすべて妻任せであったので一般役員で参加したこともない。第1回目の役員会議資料は、ほとんどすべて前年度資料を踏襲した。祭典は年7回あり、その最初の祭典がもう4月19日に予定されていた。安産、学業成就、交通安全等の祈願祭である。申込者を募り、その氏名を掲示する。105名の申し込みがあった。前年踏襲と言っても、このコロナ下である。例年であると、祭典は役員全員で準備し参加するところであるが、多くの人を集められない。思いつきで人数を絞り、飾り付け等も簡略化する。そして無事乗り切った。次の祭典は8月までない。本当にどさくさの1ヶ月であったが、多くのことがみえてきた。


 総代は総入れ替えであるので、1年目が特に大変と聞いていた。3年任期なら2名ずつ交替すればいいと思っていたが、これは根本的に仕組みを変えないとできないと言うことが分かった。総代は担当組の長老といわれる人が主に出てくる。今回も6人中5名が後期高齢者である。80歳越の人もいる。いくら寿命が延びたと言っても無理がある。今の時代、パソコンができる人がいないと進まない。昨年までは2人で資料作りをしていたようだが、今年からは私1人になってしまった。その私のパソコンも初心者並みである。今が過渡期かも知れないが、荷が重い。そして、1年を通して実質3人でいろいろ決めることになってしまった。
 私は寺院の総代を、昨年11月まで11年間務めてきた。ところが寺院と神社の総代は大違いである。寺院には住職がみえる。また行事も、その事前準備も少ない。神主が常駐しているような大きな神社ならいいが、多くの神社は祭典の時だけ神主を依頼し、普通は無住である。その分、総代等の負担になっている。ボクはたまたまだが、昨年から毎朝の散歩に神社に寄るようになった。寄れば気になるところが見えてくる。一石二鳥になったが、たまたまである。聞くところによると、7つの祭典は多い方かも知れない。このコロナ下で、多くの行事は中止になっている。神社の行事も中止してもいい。しかし、考えてみると、神社の祭典は祈願か感謝である。こういう時こそやらねばならないのである。止めようという声はどこからも上がらない。


 式典は大祭と小祭に分けてある。少し規模の大小があるのである。4月の次の行事は、8月5日の祇園天王祭という小祭である。これも簡素化、縮小で行った。結局1年を通して簡素化、縮小になった。なぜ我が神社で祇園天王祭を行うのか、気になって調べてみた。祇園祭と言えば京都の八坂神社(祇園社)である。そして、八坂神社の主祭神は牛頭天王(素戔嗚尊)である。祇園祭という名称自体も、同祭神である牛頭天王やスサノオを祀る各地の社寺祭礼の名称として全国各地に広まっていった、とある。我が神社の主祭神は素戔嗚尊である。そういうことかと、納得である。
 10月25日に例大祭を行った。例大祭は何かと言うことも調べてみた。「1年に1回または2回、その神社で定められた日に行われる最も重要な祭祀の事。例大祭が行われる日は、その神社の祭神、あるいは神社に特別の由緒がある日である事が多く、人物神を祀る神社では主にその人物の誕生日や命日となり、特別な由緒のある日を持たない神社では春祭り・秋祭りを例大祭とする場合が多い」とある。特別の由緒がるかどうかはまだ知らないが、我が村は秋祭りである。大祭は本殿以外に脇社でも儀式をする。秋祭りと言っても我が村では神社の祭典以外、子供獅子が各戸を回るくらいである。その子供獅子も今年は中止となった。
 次は12月23日に新嘗祭を行った。新嘗祭とは「稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する古くからの祭儀。天皇が新穀を天神、地祇(くにつかみ・土着の神)にすすめ、その恩恵を謝し、また、みずからも食する。戦後は多くの神社でも行われるようになった」とある。大祭である。我が地域は農村であるので、新嘗祭は重要な祭典である。
 神社の行事は年末年始に集中している。12月30日には大祓式、31日から元日にかけては初詣客の接待、そして1月2日は新年祭である。式典当日はもとより、その準備や後始末で12月20日から1月5日まで位は毎日のように神社に出かけていた。更に、1月14日にしゃぎと(左義長)があり、今年はこれにも携わったので、これが終わってやっと一息ついた。と言いたいところであったが、これがまた違うのである。

 
神社の役員会議は3回開いた。3月28日に年間行事予定や担当役員の当番表、祈願祭の申し込み等の案内である。第2回は9月20日、維持費の集金等をお願いした。そして第3回が11月21日、年末年始の対応等である。更に、1月31日の厄祭賀寿報告祭の申し込みもお願いした。そして役員からの申し込み受け取りを1月10日にした。44人と例年の3分の2と少なかったが、それでもその後が大変であった。申込者の氏名を掲示する。また神主が読み上げるためにふりがなを振ったものを作る。ところが追加が入ってくるのである。修正、作り直しである。慎重にやらないと、これがよく間違いになるのである。また組別に集計表を作り、お守りやお下がりの配布がやりやすいようにする。
 さて1月31日、祭典の当日である。昨年までの進め方を聞いて、9時半から厄祭賀寿報告祭、10時から祈念祭とし、人にもそのように案内してあった。ところがみえた神主に確認すると、祈年祭が先と言われる。その後は大慌てである。ところがこういう時に限っていろいろなトラブルが生じる。まずお供えの鯛が遅れる。雅楽を流すのテープレコーダーが動かない。大騒ぎしながらも何とか儀式を終え、お守り等の配布物も無事配り、ちょうど12時頃に帰ることができた。
 例年だと、すべての行事終わった2月下旬に慰労会を開き、その場で会計報告などをする。ところが今年はコロナ禍で慰労会が開けない。会計報告等を配布で済ますことにする。そして食事の代わりにクオカードを配る。これで今年の行事はすべて終わりである。ところが先に記したようにもう4月に行事が待っているのである。

 ここで1年務めてみてやってきたことや思うことを書いてみたい。総代の任務は神社によってかなり違っていることが分かった。総代が名誉職的なところもあり、来賓のような扱いのところもある。ところが我が神社は全く違っており、総代が準備等真っ先に先頭を走るのである。お供えや配布するお下がりの買い出しもある。飾り付けも先頭になって行う。村の中では町内会長の次に大変ではなかろうかと思うほどである。それが6人の総代が一度に交替するのである。我が檀那寺のように毎年2人ずつ変わればスムーズにいくのに、と思っていた。ところが選び方を根本的に変えないと、難しいことが分かった。私は総代になったら変えようと思っていたが、諦めた。我が神社には、一般的にある由緒書きがない。誰を奉ってあるのかも分からない。これでは親しみも沸かないだろう。私は早速にいろいろ調べた。ところが神社境内奥に、石碑の由緒書きがあることが分かった。知らない人がほとんどだろうし、知っていても石碑で漢文書きなので読めないだろう。早速に分かりやすい文章にして、まず役員に配布した。役員の人には、コピーして各戸に配布した人もあった。そして、今年2月には業者に頼んでアクリル板で作り、見やすいところに掲示した。ところがである。1ヶ月も経たないうちに、いたずらをされるのである。何文字かが削り取られたのである。これはもう少し様子を見て、対応策を考えねばと思っている。また上記文章の中でも触れたが、各祭典のいわれである。これは今年役員に配布し、また神社境内にも張り出した。事務の簡素化もいろいろ図った。これはもう自分のためと、今後の役員のためである。批判もあるかなと思ったが、あまり聞こえてこなかった。今年は2年目である。昨年の経験と反省も含め、まだいろいろ変革していきたいと思っている。


 以前の神社仏閣は地域住民の大きな繋がりの場所であったと思う。その境内で遊び、いろいろな行事もそこで行われた。私の子供の頃はそこしかなかった。しかし近年は多様になり、神社仏閣の関心は薄れていく一方である。その中で、どう維持していくのだろうか。関心がない人にすれば、金銭や役員の負担は避けたい一心であろう。地域住民の絆や繋がりなど、別に求めればいいと言われるかもしれない。でもそれ程に簡単なことではない。神社仏閣には、壮大な建物があり、広い境内もある。行事はなくなっても、その建物や境内は維持していくか、処分しなければならない。これは行事をする以上に大変なことである。 私の村にお薬師堂があり、西切という団体が管理している。そして、借家が建っている土地があって、その借地代で運営してきた。ところが、その借家が取り壊され、土地が返却された。もう固定資産税がかかるだけである。収益はない。処分すればいいだろうが、その土地の名義人はもう100年も前の人の3人の共有地のままである。これを整理して、現在の人の名義しないことには、売ることも寄付することも何もできない。私は以前から心配していたが、今年やっと腰が上がった。大変な苦労とお金がかかる。昔の遺産を維持し、処分することは並大抵なことではない。
                         (令和3年5月5日)

川柳&ウォーク