貴之の行動について、結婚にまつわる話を中心に生いたちから父の死まで、30代後半までを「青春放浪記」として4回にわたり語ってきた。青春とは「人生のある期間ではなく心の持ち方を言う」と、言う言い方もあるが、20歳〜30歳頃の男女を指すと言う定義をもう少し広く考えて使った。語りついでにもう少し加え、50代前半までを書いてみたくなった。もう青春とは言えないので「番外編」として語ることにする。
貴之と京子は何かひとつは共通のものをやっていこう、と考えていた。趣味等別々でいいが、すべて別では夫婦になった意味が薄れるし、共通の話題がなくなる。そこで何かひとつは、となるのである。そして、できればボランティア活動がいいと考えていた。昭和47年1月から新しい住居、新しい地域での生活が始まり、10月には長女が誕生し、忙しくなってきたが生活は安定してきた。新たな活動を考える。今となってはきっかけは何だったか思い出せないが、記録によれば、昭和48年7月1日に鶴舞図書館へ行っている。これが初めて点訳奉仕団体「六ツ星会」を訪れた日のようである。例会日は毎週日曜日午後である。このときから点訳の活動が始まるのである。行くのは貴之である。帰って京子に教える。赤子のいる状況で京子が図書館に出かけるのは無理である。このやり方で団地にいる間は進めた。このやり方で十分できた。貴之は古里に戻るまで約8年間続けた。京子は所属する会を朝水会という会に変え、その後も10年ほど続けた。点訳はかなりの根気が要る。昭和53年3月に貴之は職場の会報に点訳ついて寄稿している。そこから一部を抜粋する。
【(点訳の利点について)第1は、漢字すべてをカナに直すので、常に辞書を手元において原本の正しい読み方に注意します。ですから、正確な言葉、特に漢字の正しい読み方を覚えます。第2に、点訳は、その作業に膨大な時間を要します。例えば、200ページの文庫本1冊を点訳するのに、150時間くらいかかります。1日に1時間やっても、5ヶ月かかります。ですから、「小人閑居して不善を為す」と言いますが、余暇の悪い使い方が防げます。第3に、点訳にはほとんど費用がかかりません。用具代や用紙代はわずかな費用で手に入りますが、それも私の場合、会が負担してくれます。お金の無駄使いが防げます。その他、点字は、正確に落ち着いてする必要があるので、心に落ち着きが出てきます。また自分も社会に役立っているという自信が得られます。】
次に訪れたのは川柳である。昭和54年12月、京子が小学校で開かれた「短詩系文芸について」というPTAの教養教室に出かけた。その文芸とは川柳であった。読んでみて何となくできそうな気がした。「青木さんのご主人が川柳をやってみえるようだよ」という京子の言葉に、近くにそんな人がみえるなら少し書いて、添削してもらおうということになる。このいたずら心が、会ができ川柳を始めるきっかけになるのである。
青木さんは同じ団地に住む、京子と保育園の「母の会」の役員仲間である。後に知ったことであるが、青木さんのご主人は10代から川柳の創作活動を始め、当時は「川柳碧の会」を中心に全国的な活動をされていた。しかし“自分の住む地域に活動の場を持つべきではないか”と考え始めておられる矢先に、我が夫婦が迷い込んだのである。飛んで火に入る夏の虫(このときは冬)とはこのことであった。
早速会づくりが始められ、昭和55年3月に母の会の役員を中心に9名で「川柳保々の会」は発足したのである。男性は青木先生の他には貴之一人である。貴之夫婦が会のできるきっかけになったこともあって貴之が会長に押され、引き受ける。川柳の会というのは一般には中高年(いや、高年といったほうがいいかもしれない)が多いと思うのだが、ほとんどが30代半ばというとんでもない若い人の会ができたのである。
貴之は会が発足したその年の11月に父の入院をきっかけに、9年間住んだ団地を離れ、生まれ故郷の稲沢市に帰った。だから、団地に住みながら保々の会に参加したのは1年に満たない。稲沢にきて少しの間は例会に出席していたが、しょせん無理で、そのうち例会開催日が平日になったりして、もっぱら投句だけになってしまった。それでも続けた。
平成13年11月に、主要メンバーの病気により、会は解散することになった。会報は昭和55年4月号を第1号に毎月発行し、最終号は260号であった。貴之夫婦はその後進め方を変えながらも川柳を続けた。まさにライフワークの一つになったのである。
貴之がこの同人誌を知ったのは昭和63年2月のことである。職場の同僚がB5版の15ページほどの冊子をめくっていたのを見かけた。手書きで湿式コピーのものである。ちゃちと言っても言い過ぎではない。「FLOWER」とあり「文集第198号」ともある。こんなちゃちなもので198号ということが興味を引いた。どんないきさつのものか、説明をしてもらった。そして、すぐに入会を希望した。快く了承してもらい、第199号から貴之の投稿が始まった。湿式コピーができる薄手の紙に数枚手書きで文章を書き、手渡し又は郵送で主宰者のところに送る。書く内容に何の制限もない。送った文章がコピーされ、綴じられて送られてくる。毎回5、6名の投稿がある。勝手に読み、勝手な感想を持つ。それだけで、投稿文について何の評論も意見交換もない。
時代の流れと共に、いつからか湿式コピーはゼロックスコピーとなり、B5版もA4版となった。多くは手書きからワープロ、パソコンとなっていった。毎月がいつからか隔月になった。インチキな文でも毎回投稿した。そしてこの「FLOWER」は 平成13年7月号、第290号を持って廃刊となるのである。
その後会の名称を変えながらも続けられていく。文章を書く生活を持つか、持たないかは大きな違いがある。文字を知ることはもとより、思考能力に影響し、考えを整理し、要領のよいまとめ方にも及ぶだろう。貴之には苦手であったものが、自信にさえなった。投稿文を頼まれた時にも、気安く引き受けられるようになった。ある業界紙に頼まれた時「これほど手を入れなくてもいい文は少ない」と言ってもらったこともある。随分得をした人生となった。
そして「FLOWER」に入会して数ヶ月後のことである。ベートーヴェンの交響曲第九番ニ短調作品125「合唱付き」、つまり第九を歌う機会が訪れる。昭和63年4月にある尾張部の青年会議所が地元で第九の演奏会を開こうと企画し、会員募集を始めた。男性が全く足りない。歌うことに全く縁のない貴之だが、合唱好きな友人が強引に誘ってきた。そこで興味半分ながら参加する。そして、演奏会が近づいた9月頃、折角集まった会員をこのまま散会にするのはもったいない、来年以降は市民団体として演奏会を開けないだろうかという動きがでてきた。そして、いろいろな経過をたどりながら「尾張第九をうたう会」が昭和63年12月に結成され、音楽音痴の貴之がなぜか初代会長という重責を担うことになった。250人以上の会員の勢いに乗った熱意に、貴之は動かされ動いた。大変な紆余曲折を経ながら2回の演奏会を成功裏に終え、平成3年1月に会長を退き、平成5年6月に退会した。この間の苦労や困難、その成果としての喜びは大変なものであった。会長になったときにある人から「貴之君は運があるから自信を持ってやってくれ」と言われたことがある。その是非は別にして、こんな事業はやりたくても、力があっても、多くの人の協力がなければやれないのだから、貴之は本当に幸運であったと思っている。また、こうした市民団体の運営として、このときの苦労を担う気になればほとんどの会はこなせる、と言う貴之の自信にもなった。これが後にいろいろつながるのである。
貴之は農家育ちの影響があるのか、野外活動が好きである。運動神経は劣るが、学生時代はいつも何かの運動クラブに属していたし、就職してからはハイキングやジョギングを続けてきた。平成5年2月に第九をうたう会の会員から愛知県ウォーキング協会の例会に誘われて参加、平成6年から会員になった。会員となってすぐの1月13日から3泊4日で開催された「熱田・伊勢125km初詣ウォーク」に参加した。第1日目は、熱田神宮から桑名の渡しまでの29kmであったが、もう1日目からいくつものマメ(肉刺)を作った。それでも4日間、体をガクガクにしながらも完歩し、この間、全国から集まったウォーカーからウォーキングの世界についていろいろな話を聞いた。全国的な大会がいくつもあること、30km、40kmといった長距離ウォークがあること等貴之には全くびっくりするような話ばかりであった。このウォークで新しい世界が貴之の前に一挙に開けた。
その後、愛知県ウォーキング協会の例会に参加する回数も増え、年間完歩賞(注:年間に規定回数以上の参加者に与えられる賞)をもらうことも度々になった。また、平成8年頃からは滋賀県ウォーキング協会の例会にも参加するようになった。一度出かけてみて、気に入ってしまったのだ。東海道本線(愛称・琵琶湖線)や北陸本線のすぐ近くに湖があり、山があり、史跡がある。このウォーク環境の良さに、一時、愛知県ウォーキング協会の例会に参加するよりも多く参加する時期があった。
泊まりがけで遠出もするようになった。平成7年3月には「瀬戸内倉敷ツーデーマーチ」に仲間9人と参加し、平成8年9年には、日本のウォーキングのメッカ・埼玉県東松山市で開催される「日本スリーデーマーチ」に一人で参加した。近郊の日帰りウォークはますます盛んになり、この頃は年間50日前後、ウォーク(山登りを含む)に出かけている。平成14年には愛知県ウォーキング協会の役員になった。その後いろいろな経験を積みながら、ウォーキングもライフワークの一つとなった。
幸運なことばかり綴る内容になったが、当然そんなことはありえない。仕事には全く触れなかったが、京子が心配するほど辛いこともあった。退職を意識したこともあった。仕事以外でも挫折したことはいくつもあった。でも、それを乗り越え今がある。今年は金婚式である。先日、市に金婚式祝いの申請を提出してきた。
(令和2年7月25日) |
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