例 会 案 内
第36回ウォーク例会・開催要項 |
1.開催日時 平成24年2月4日(土) 9時〜(15時) 2.集合場所 名鉄常滑線 道徳駅 3.コース等 道徳駅→宮の渡し→白鳥御陵→断夫山古墳→闇ヶ森神社→栄国寺 →塩竃神社→ささしまライブ→名古屋駅 5.その他 *雨天でも開催します。 *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。 *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全 健康管理は自己責任でお願いします。
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堀川を下流から歩く(対岸は宮の渡し) |
宮の渡し |
1番割観音堂と身代わり地蔵 |
白鳥御陵 |
名古屋国際会議場 |
古渡城址 |
栄国寺・切支丹塚 |
妙善寺 |
日置神社 |
塩竃神社 |
名駅ウォールアート |
ささしまライブ・愛知大学 |
主な見所の説明
◎宮の宿 東海道には船を利用して海を渡る箇所があり、それが宮(現在の名古屋市熱田区)と桑名(三重県)を結ぶ海上七里である。そのため、宮の宿は渡し場としてまた 佐屋路や美濃路(みのじ)などの脇街道との分岐点として、参勤交代や朝鮮通信使の通行・宿泊など人馬の往来で大変なにぎわいを見せた。 関ヶ原の戦いの翌年1601年(慶長6)に宿場としての施設が整えられ、1625年(寛永2)には往来の船の安全を願って、成瀬正房によって常夜灯が設置された。4代将軍家綱の時代1651年(慶安4)の慶安の変(由井正雪の乱)を契機として夕方から翌朝までの出航が禁じられた。そのため旅客の宿泊が激増、都々逸(どどいつ)発祥の地が宿場内の神戸(ごうど)であるようにその繁栄は全国に知れわたった。その後、1676年(延宝4)に尾張藩主徳川光友の命により、時の鐘が設置された。 宮宿には船番所も設けられ、行き交う船の管理を行っていたが、天保年間にこの渡しに利用された渡し船は75艘、小渡し船42艘で、40〜50人乗りの乗合船から3〜5人乗りの小船まであったようで、所要時間は約4時間であった。 ◎白鳥御陵(白鳥古墳) 昔から日本武尊の御陵ではないかといわれていて、日本武尊が白鳥となって熱田の宮に飛び降り、この地に降り立ったことから白鳥御陵と名付けられた。そしてこのあたりを白鳥と呼ぶようになった。しかし、この古墳は6世紀初め頃に作られたものであることがわかり、尾張氏の墓であるという説が有力となっている。全長74メートルの前方後円墳ですが、前方部全体と後円部の東部分が削られ原型は留めていない。 ◎断夫山古墳 東海地方最大の前方後円墳。全長151m、前方部の幅116m、高さ6.2m、後円部の径80m、高さ13mの規模を誇り、前方部が発達した前方後円墳としては新しい時期に属する。現在は石垣で組まれ、区画された周濠(しゅうごう)をもつが、以前はより幅広い濠が巡らされ、古墳周辺部には円筒埴輪が置かれていた。伝承では日本武尊の妃宮簀姫(みやずひめ)の墓と伝えられているが、5〜6世紀に尾張に勢力を伸張していた尾張氏の首長の墓と考えられる。 ◎栄国寺 西山浄土宗の寺院。栄国寺のある場所は尾張藩の刑場で千本松原と呼ばれていた。刑死者の中には犯罪者だけでなく、キリシタンも多く含まれていた。1631年(寛永8)には57人、1664年(寛文4)には200人にのぼるキリシタンの処刑がこの地で行われたことが確認されている。尾張藩2代藩主徳川光友は刑場を土器野(かわらけの、現清須市)へ移した。それまでの刑死者の菩提を弔うために建立されたのが清涼庵であり、現在の栄国寺である。境内には千人塚、切支丹灯籠などがある。平成9年(1997)にカトリック名古屋教区の司教により「殉教者顕彰碑」が建てられ、その碑文には尾張のキリシタンの殉教史が綴られている。また、境内の堂宇を利用した切支丹遺蹟博物館が昭和44年(1969)に開館され、マリア観音や踏絵などの切支丹遺物を中心に切支丹関係史料や南蛮紅毛美術など100点余が展示されている。 |