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 青 春 放 浪 記 (その5)


 
  貴之は傘寿を迎えた。ある日、青春放浪記を読み直す機会があった。そして貴之の原点と言えるあるひとつのことを書き落としていることに気がついた。そして書きたくなった。それは大学時代に行った自転車旅行である。記録が残してあるので、それを見ながら記していくことにする。
 貴之は日光高校に入ると、まもなく先生が日本育英資金の貸与を受けることを勧めた。貴之は貧農の子である。先生は十分に受ける資格があると踏んだ。そして一般貸与を受けることになった。2年からは特別貸与を受けた。一般貸与は月1000円であり、特別貸与は3000円である。そして特別貸与の返却額は、一般貸与と同じ1000円である。
 夕陽大学に入っても特別貸与を受けた。大学の一般貸与は3000円であり、特別貸与は8000円であった。そして返却額は、高校と同じように一般貸与分でよかった。大学に入ると貴之はアルバイトに明け暮れた。掲示板に張り出されたアルバイト先に申し込む。模擬試験の試験官だったり、それは様々であった。特に面白かったのはプロレスの会場作り、客の誘導であった。多くの時間はプロレスを見ておられるのである。そのうち、家庭教師の口が見つかり収入も安定してきた。


 
長い夏休みに入る。旅行に行くのは大学生の常である。貴之はお金のかかる旅行に行く気はなかった。そして自転車旅行を思いついた。弓道部で同じになった河合君を誘った。親は反対した。もちろん危険であるからである。でも貴之は実行に移した。出発は昭和39年8月16日、お盆の最中である。行き先は富士五湖である。何も調べず、稲沢の自宅から安易な出立である。泊まるところは学校か寺院に頼み込むつもりで、何の予約もしていない。
 そしてこの旅行は完全に失敗、敗北であった。国道1号で箱根を登り、芦ノ湖を見て帰ったのである。都合6日間であった。失敗の最大原因は夏の暑さを甘く見たことである。肌むき出しで、皮膚がボロボロになった。河合君は特にひどく、やけどのように体中水ぶくれとなり、寝ることもできなくなった。完全に意欲消失であった。彼を励まし帰るのがやっとだった。
 次は春休みである。大学で親しくなった杉山君を誘った。行き先は姫路城である。昭和40年3月17日出立である。今度は暑さの心配はない。そして泊まるところも、友人などの家を頼んでおいた。24日に帰るのであるから8日間の旅であった。かなりの余裕があった。そして、この2回は次の準備のようなものになった。
 第3回目は大学2年の春休みである。紀伊半島1周である。そして今度は1人で出かけることにした。2週間を予定した。そして7日分の宿を友人宅に頼んでおいた。出立は昭和41年3月9日である。宿泊場所を予定しているのは良いようで悪い。予定の日にそこまで行かねばならないのである。だからかなり余裕を持って予定を組まねばならない。時には辛くてもそこに行き着かなくてはならない。そしてほぼ予定通り終えることができた。「旅行を終えて」という文が記してあったので、そこから引用、修正して書く。一人旅である、話し相手はいない。記録は休憩の度に書いていく。
 【22日午後2時をもって無事、全予定コースを終えた。出発前からいろいろな不安があった。@今度は1人であること。A期間が長いこと。B雨の多い地方であり、また天候不順の時期であること。C峠が多く、道路が悪いこと等。
 1人であったことは何の問題もなかった。体力に自信はある。相手に合わせる必要がないので、返って幸いであった。終始、好奇心と楽しみを持って過ごせた。コースが長くなれば期間も長くなるが、これも問題ではなかった。体の方も2日目は少し参ったが、以後は慣れ、疲れもその日その日でとれていた。心配した天候も、出発前は毎日雨であったが、その後は好天が多く、2日ほど降られたのみであった。この幸運は大きい。ただ風は強い日が多かった。ただCの峠が多いことと、道が悪いことはその通りであった。南紀の方へ行けばアップダウンの連続、道路は砂利道である。ただ覚悟していたので、それ程と思うこともなかった。宿泊について、友人等予定していたところでは過分なおもてなしを受けた。そして予定していなかった宿泊箇所についても、過分なもてなしを受けたことについては少し丁寧に書いておきたい。
 縁もゆかりもない全く見ず知らずの人を泊める。そして風呂を沸かし、食事まで提供する。利益を期待しての親切でない。人間の善意から出た行為である。旅行中の40食分で、自分でお金を払ったのは10食分のみである。自分はそんな行為を受ける価値があるのだろうか、自分はそんな行為を人に示すことができるだろうか。それができる人間になることが、恩返しであろう。
家族には毎回心配をかけていた。特に母は「気が狂いそうだった」と言っていた。全く申し訳なく思うが、自転車で紀伊半島を1周したと言う事実を作った。名所、旧跡を見て勉強になり楽しかった。いろいろな土地の人と触れ、その土地の人柄、生活を知った。いつか成果が現れるときが来るだろう。認めてやって下さい。】


 
そして第4回目が来る。大学3年の春休み、昭和42年4月のことである。同級生で修学旅行をしようと言うことになる。修学旅行は、9日に夜行で名古屋を発ち、北九州から長崎、熊本に回り、13日に解散すると言うものである。それを貴之は、家から自転車で行くから10日、門司で落ち合おう、と言うのである。そのために貴之はアルバイトに精を出して、3段付きギアーのある自転車を購入するのである。前の3度は高校時代に通学に使っていた実用車であった。この自転車に竹で編んだ籠を載せて走るのである。何とも見られぬ姿である。
 3月28日、1人家を出立である。家から敦賀に回り、山陰を走って10日に門司で落ち合う。3日間を皆と過ごし、また門司から、今度は山陽道を通って帰る。皆と一緒する3日間以外、宿泊場所は1件も予約していない。まさに行き当たりばったりである。そして帰宅したのは4月19日、23日間の旅となった。この旅を記録に従って詳細に書くと1冊の本になってしまうので、まずは、宿泊地とその日の走行キロ数を書く(町名は当時のもの)。
 (28日)福井県敦賀市・中郷小学校、110km、(29日)福井県大飯町・慈眼院、70km、(30日)京都府久美浜町・久美浜小学校、105km、
(31日)兵庫県浜坂町・浜坂小学校、115km、(1日)鳥取県東伯町・法輪寺、95km、(2日)島根県大社町・日光寺、130km、(3日)島根県三隅町・洞明寺、130km、(4日)山口県楠町・願生寺、140km、ところが落ち合う10日前に九州に入ってしまうのである。まだ5日間も余裕があるので熊本まで行けるだろうと踏む。(5日)大分県四日市町・正覚寺、115km、(6日)大分県由布院町・区公民館、80km、(7日) 熊本県北部村・仏願寺、125km、(8日)福岡県姪浜町・清楽寺、120km、(9日)福岡県門司区・大專寺説教所、95km、そして皆と落ち合って、再び門司から自転車に乗るのである。(13日)福岡県門司区・大專寺説教所、(14日)山口県熊毛町・西善寺、145km、(15日)広島県呉市・岸正広宅、110km、(16日)広島県福山市・浄泉坊、120km、(17日)兵庫県太子町・了源寺、140km、(18日)京都市伏見区・浄徳寺、145km、そして、19日135km走って自宅となるのである。走行キロ数は、この記録では2225kmとなっている。これは図上で測った距離であるので、実際は2500kmを超えているのではなかろうか。費用は、電車に乗った4日間を省くと約6000円であった。
 当時は1級国道と言っても砂利道が多く、またトンネルや橋が少なく、道路は曲がりくねっていた。今から思うと考えられないくらいの悪路であった。またほとんど毎日のように雨に降られた。30何年ぶりの多さと言っていた。雨の中を自転車を走らせていてお巡りさんに職務質問を受けたこともあった。この旅行も「旅行を終えて」の感想が書いてあるので、少しだけ抜粋引用する。
 【無事23日間の旅を終えて帰ることができた。父母には前回以上の心配をかけた。申し訳なく思うが、これが貴方の息子です、許してもらいたい。自分自身も今回は楽観していたわけではない。ひとつ間違えば大事、笑いものである。それなりに注意を払ってきた。いろいろ苦労もあったし、寂しく思うときもあった。褒める人もあれば批判する人もあろう。でも、ともかく九州まで自転車で行って、帰ってきたのだ、自分はこの事実だけでいい。親切にして頂いた人には本当に感謝である。】
 そして多くの人に礼状を出し、またきしめんを送った。何通かの返信も頂いていて、それも記録には綴じてある。面白いのはものの値段である。自転車通行料10円、パン35円、うどん40円、ほとんどのものが100円以下である。


 貴之は記録を、自分の事ながらビックリしながら久しぶりに読んだ。こんなに苦労しながら、青春を楽しんだのだ。若いと言うのは凄いと思った。本にして出してもよかったと思った。最初の方に、この自転車旅行を貴之の原点のひとつ、と言えると書いた。それは、行動力と感謝、恩返しのことである。貴之はいろいろなところで行動力を発揮してきたつもりである。恩返しは直接その人にはできないから別の人にする、いわゆる恩送りである。点訳など早くからボランティアを始めた。また、結婚した月から、とあるところに40年以上、ほぼ毎月金銭寄付をした。これらはこの自転車旅行が生んだと思っている。
 貴之はこの記録を読みながら、恵まれていた青春、悔いのないことを改めて思った。そして傘寿の今である。健康である、京子はいつまで経っても変わらず優しい、穏やかな日々に感謝している。行動力もまだ保っている、でもこの記録を読んで、もっともっと前向きに進みたいと思った。
  (令和6年10月10日)

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