平成27年6月に選挙顛末記を書きました。それは中学、高校の同級生が突然、市議会議員選挙に出ることになり、その顛末を書いたものです。当選、そして4年後の令和元年4月の選挙でも、無事2回目の当選を果たしました。この間私は、後援会の事務局として、また事務長として彼に寄り添ってきました。時を経るに従って、私の役割は大きくなっていきましたが、経験も増しそれなりに対応してきました。そして今回、令和5年4月に第3回目の選挙を迎えることになったのです。初当選が70歳ともう高齢なので、私は2期までだろうと思っていました。ところがこの8年間で、彼は大きな成果を生み出しました。それをもう少し見届けたい、と言う思いが私にもよく理解できます。そして本人も元気です。彼が立候補の意思表示をしたとき、どこからも異議の声は聞こえませんでした。こうして、3期目の選挙に臨むことになったのです。
後援会は令和4年12月から動き始めました。選挙対策は過去2回の選挙に準じて進められました。中心は第1回目の選挙対策本部長をした人が、立場を変えて務めることになりました。体験と彼の能力に負うことが大きいからでしょう。しかし、全体の活動力は落ちています。特に同級生の特務班はがた落ちです。第1回目では大きな力を発揮しましたが、この8年間で皆衰えました。今77歳ですから当然です。本人もまたその家族も、多くは何かの健康上の問題を抱えています。私にしても、妻が昨年から抗がん剤の治療を受け、もうあまり出かけられる状態ではありません。1期目の選挙期間中は、毎日選挙事務所に詰めていたのにです。今回の同級生は本当に脇役です。更に大きく変わったのは地域事情です。以前は、地盤割りをした2名に限られていましたが、前回は党派公認候補が1人立ち、当選しています。そして今回は、無所属3人に党派公認候補が3人立つという状況になりました。新聞等でも一番の激戦区として取り上げられるほどです。まして今や、女性と若い人が人気を得る時代です。いずれを取っても不利です。安穏が許される状況ではありません。しかし、一宮市に合併して66年間、地域推薦の2人を出してきた地域です。票は減っても当選できると思っています。
4月15日(土)には地元の神社で当選祈願祭を実施し、続いて選挙事務所開きを行いました。翌16日(日)は、今回も私が立候補届を市役所へ提出しに行きました。定数38名のところ49名が立候補しました。立候補届を受理してもらって、選挙事務所に戻ります。そして10時から出陣式です。170名ほどが集まっていました。式はシナリオに沿って進められていきます。ところが応援演説に来てもらう市長の姿がなかなか見えないのです。遅れる連絡が入りました。式はもう進行しています。突然私に中継ぎをしてくれるように指名がかかりました。全く予定していない出来事です。しかし、何とかしなければなりません。少し焦りますが、幸い今回は私が毎日立ち会い演説会場で応援弁士を務めることになっていました。そのために話す内容はおおよそ頭に描かれていました。そこで、この場でもその話をすることにしました。彼が8年前に立候補するに到った経緯や、その後の活動などです。この話のほとんどは私しか知らないことです。そして、繋いだ結果、間を空くこともなく進行できました。ヤレヤレです。後で聴いていた同級生が褒めてくれました。これで少し自信が持て、この後の立ち会い演説会場での話が楽になりました。
収まってきたとは言え、まだコロナ下の中の選挙活動です。1カ所に多くの人を集めるのはためらわれました。そこで、立ち会い演説会場が主体になりました。各地の公民館を回るのです。月曜日から金曜日まで、午前午後の2回演説をすることになりました。まず後援会長また副会長、そして私、最後に本人と奥さんの順です。1日に2会場、4回話したこともあり、都合14回話しました。ほとんど内容は同じ、会場によって少し話し方を変えるだけです。今回の私の大きな役割でした。先にも少し書きましたが、私の話した内容は、まず立候補に至る経緯からです。それは8年前、誰も地域推薦で立候補する人が見当たらなく、それはまずいと彼が「地域のためなら出てもいいよ」と言ったことから始まったことです(このことは、平成27年6月の文に詳しく書いてあります)。そして、この8年間の彼の成果の話です。まずは、何の計画もなかった河川堤防に約6kmの遊歩道を持ってきたことです。今2km程が出来上がり、何十人もの人が歩いています。私も歩いています。そして、名神高速道路の尾張一宮パーキングにスマートインターを計画させたことです。これこそ彼の発案で、8年間の努力の結果です。昨年12月に市にこの特別委員会ができました。当然彼も委員に入りました。これができれば地域は大きく変わるでしょう。これをもう少し見届けたい、これがもう1期市議をしたかった最大の理由だと、私は思っています。この2つは私も少し関わったので、その経緯を十分に話すことができました。まさに皆さんが聴きたい裏事情です。
22日土曜日午後3時から総決起集会です。この日も170名ほどの人が集まりました。そして、23日、投票日です。結果が出たのは夜12時頃、落選です。無念さを抱いて家に帰りました。翌日の新聞を見ると約100票足らなかったのです。
5月10日、後援会の解散式をしました。これで私の選挙及び市議に関わることはすべて終わりました。そして、今回の選挙結果から思うことは沢山あります。まず1)今のマスコミは女性と若い人をもてはやします。80歳近い人はもう論外でしょうか。今回の結果を見ると、当選者38名の内70歳以上は4名、落選者11名の内4名が70歳以上です。確かに私でも、彼を知っているから、また地域推薦だから投票したのであり、知らなかったら入れなかったでしょう。女性は今回12名が立候補し、10名が当選しました。落ちた2名は党派公認でしたが、流れから強気に出たことが裏目に出たと言うことでしょうか。前回は9名全員が当選でした。2)我が地域は市と合併して66年、地域推薦で2名の市議を出してきました。私の地域は一宮市のはずれです。こんなところに誰が関心を持ってくれるでしょう。これを訴えたのですが、聴いて欲しい人は演説会場に足を運びません。こういうことは地域の大役をするとよく分かるのですが、したことのない若い人には関係ないと言うことでしょう。3)これが最も大きいと思いますが、先にも書きましたが地域から6名も立候補したことです。3人当選、3人落選です。新聞沙汰になるほどに多数が立候補したことは初めてです。党派公認が3人います。維新の新人は高位当選です。党派公認は市域全域に渡り強いと言うことでしょう。4)アンケートでどんな人を選びますかと問われると、人柄とか政策とか言います。人柄など余程親しい間柄でも分からないのですから、分かるはずがありません。政策も上手な言葉の羅列です。市会議員なのに国会議員かと思う政策もあります。これらは建前でしょう。そして、実績ですが、残念ながらこれはそれ程に評価されるものではありません。8年間、彼に寄り添ってやってきましたが、その成果は先に挙げたように、十分以上にやったと思います。でも先の理由の前には小さなものとしか思えません。こうしてみてみると、余程の強い地盤あれば別ですが、世の流れに逆らえないと言うことでしょうか。いろいろあっていいと思うのですが、今回など同じ主張ばかりです。考え始めると切りがありません。これらは私の一私見です。
私には無念さと虚しさが残りました。本人は更に大きく、私とは比較にならないでしょう。「議員も落ちればただの人」という言葉があります。彼はこれからどうしていくのでしょう。若い人だったらどうなるのでしょう。でも私にとってこの8年間は意味がありました。もう4年間、頑張ろうと思いましたが、露と消えました。でも多くのことを知り、多くのことが体験できました。ことの成り行きからこのようなことになってしまいましたが、この歳でやり甲斐を与えられました。以前は意識的にこういう世界から遠ざかっていただけに、感無量のものがあります。この体験を今後に生かす道はないかと、模索を始まめています。
(令和5年7月)
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