一宮友歩会の例会状況を、一宮友歩会ホームページのトップページに掲載したあいさつ文を活用して紹介し始めたのが2007年の第6回からです。ですからもう14年経ちます。それまでの5回は「一宮友歩会内々話」として紹介しています。内と外の使い分けは自分勝手な思いつきです。昨年は2回しか例会を開催できませんでした。そこで、この外々話をどうするか迷いましたが、継続が大切と書くことにしました。そして今年は十分に書けるだろうと思っていますが、さてどうなるのでしょう。
◎第87回例会(令和3年4月3日)
再開となりました4月例会は、第87回例会「史跡巡りシリーズ・西尾張編partR2」として令和3年4月3日(土)、新木曽川駅集合で行いました。このコースは、平成18年7月1日の第3回、平成19年4月14日の第7回のコースを参考にしたものです。出発式は木曽川資料館です。参加者は42名です。久々小学生の顔も見えました。「ケーブルテレビICC」のスタッフ2名の顔も見えました。
9時30分出発です。すぐに黒田城址です。M氏から資料を持って説明です。次は山内一豊の父(盛豊)と兄(十郎)の墓のある法蓮寺です。本堂裏にある墓も見学しました。次は籠守勝手神社です。一宮友歩会ではもう何度も訪れたことがある神社です。ICCのスタッフとはここで別れました。東海北陸自動車道に出ます。すぐに側道にある田所遺跡です。少しの間、この側道を北上します。光明寺霊園です。ここには光明寺村女工焼死事件の「織姫乃碑」が立っています。光明寺城址です。ここでもM氏から説明です。光明寺公園に入ります。園内の遊歩道を歩き、ここで休憩です。穏やかな日です。桜はまだ十分に見られます。花が咲くと、桜の木の多さがわかり毎年ながら驚かされます。木曽川堤防上の遊歩道を下流に歩き、河野妙性坊という寺院で昼食です。着いたのはちょうど12時でした。集合写真を撮り、午後の出発です。北方代官所跡です。ここではY氏の説明です。森春濤碑を見て、名鉄木曽川堤駅です。ここで2名が帰られました。宝江の渡し跡や尾西線木曽川橋駅跡を見ていきます。今は玉ノ井駅で止まっている尾西線が、今の木曽川堤駅まで延びていたことに驚いた人も多かったでしょう。次は児童愛護事業の「雀のお宿」という施設の跡地です。「雀のお宿」の名付け親は北原白秋といい、現地には大橋曽陽の「雪の日に松わたりくる床に聞く」の句碑が唯一残っています。雀の宿公園で休憩した後、宇夫須奈神社を通り抜け、奥村用水を遊歩道化した道を歩きます。桜並木です。賀茂神社に着きます。すぐ玉ノ井駅に向かえば30分に1本の電車に間に合います。見所の多い神社ですがその見学はあきらめ、3時1分発の電車で帰りました。賀茂神社の見学を諦めたのは少し残念だった気もします。
午後になっても風もなく、終日穏やかな陽気に恵まれ、見所も多く、桜もいっぱい見られ、良い例会になりました。翌日、終日雨だったことも思えば、本当に天候にも恵まれた会です。コロナ禍の中、中止も危惧される中ですが実施できて本当のよかった、いろいろなことに感謝したい思いです。
4月5日から6日にかけて7回ほど、ケーブルテレビICCの「街ネタプラス」というニュース番組が放映されました。そのトップにこの一宮友歩会例会が紹介されました。数分でしたが、例会の状況は十分に伝わったと思います。良いPRとなり、また記録となり、いい思い出となりました。これにも感謝です。
◎第88回例会(令和3年12月4日)
令和3年の4月例会以来、6月7月10月と中止となってしまい、今年2回目の例会をやっと12月4日(土)に開催することができました。第88回例会「河川探訪シリーズ・二之枝川編part4」として、名鉄津島線勝幡駅に集合しました。どれだけの参加があるか気になっていましたが、31名でした。常連の方の顔もかなり見られませんでしたが、それでもホッとしたのが実感です。愛知県ウォーキング協会の会長、事務局長さんの顔もあり、出発式で挨拶をしてもらいました。令和4年の例会計画を皆さんに渡しました。
駅前広場に立っている地図入りの説明板を使って、Y氏の説明を受けてから出発です。まず勝幡神社です。オコワ祭りの説明板があります。私も少し説明を加えました。三宅川に沿って下流に歩き、領内川に出ます。ここでもY氏の説明です。兼平堤を南に歩いて行きます。この堤は津島上街道にも当たります。釜地蔵寺に来ます。ここで役員のA氏から1833年58歳で槍ヶ岳に登頂した津田正生(つだまさなり)についての説明です。津田氏については釜地蔵寺から50mほど南に行った民家の道路わきに顕彰碑があります。この説明の間に、通りかかった人が「地蔵寺」の扉を開けてあげます、と言われる。更に近くのお堂も開けて頂いた。更にドウダンツツジの紅葉している自宅の庭も見せて頂いた。そしてこの方は何と、津田正生の子孫に当たる方でした。こんな思いがけない出来事もありながら、津島の大楠碑や清正公社、津島神社に寄りながら昼食場所の天王川公園に着いたのは12時を過ぎていました。
午後は更に南下し、津島高校の横を通りながら佐屋用水に出ます。佐屋出身の内閣総理大臣加藤高明の懐恩碑や佐屋代官所跡碑を見て、佐屋駅に着いたのは午後2時45分、解散式も省きすぐ発車となる電車に乗って帰宅となりました。
この例会は12kmばかりの距離でしたが、まさに説明のオンパレードでした。Y氏の説明は10回を越えたでしょう。更にA氏や津田氏の説明、私も時折関連事項を話しました。現地説明会と言ってもいいようなウォーキング例会です。いろいろな人の協力でこんなことのできるありがたさと、1回でも長く開催したいものだと改めて思いました。
自分のウォーキング歴を見るために、久しぶりホームページの古いページを開いてみました。子どもが小さい頃から名鉄電車の開催するウォークに参加していましたが、愛知県ウォーキング協会の例会に初参加したのが平成5年2月例会です。これが私のウォーキングの始まりと言えるでしょう。その後年々参加回数が増えていき、平成14年には愛知県ウォーキング協会の役員になります。一宮歩こう会の役員にもなり、平成17年には一宮友歩会を立ち上げます。
私のウォーキングの最盛期は平成7年頃からの10年間でしょうか。1年間で50日ほど出かけた年もあります。ある機関誌に投稿した文を少し引用します。
(第10回)お気に入りのウォーク 【会報第20号・2007年5月発行】
私のお気に入りで、誰でも気楽に参加できるウォーキング大会を3つほど紹介しておきます。●滋賀県の高月町では毎年8月第1日曜日に「高月観音まつり」が開催されます。この日は21寺社の観音様が一斉に公開されます。滋賀県ウオーキング協会ではこの日に、3年で全寺社回るように計画して例会が持たれます。暑い真っ盛りですが、観音様を拝観しながら、また地元の人の厚いもてなしを受けながら歩くのは、本当に清々します。距離も10数キロ、ペースもゆったりでどなたでも参加できます。●これも滋賀県ですが、近江八幡市で3月第2土曜日に左義長まつりが行われます。これに会わせた大会です。コースは3コースくらいありますが、私は毎年25kmコースに参加しています。琵琶湖や西の湖などコースが良いし、もてなしも良いし、特に日牟礼神社に勢揃いした左義長が素晴らしい。●毎年8月16日、京都の「五山送り火」に併せて京都府ウォーキング協会が大会を開催しています。昼間歩いて、夜送り火を見る。名古屋からなら少し強行軍ですが、青春18切符を使用した日帰りもできます。前日の15日に送り火の「火床」を見るウォーキングが開催されるようになってからは、毎年そちらに参加しています。普通では見る機会のない火床を、毎年一つずつ見る楽しみも良いものです。
(第11話)思い出のウォーク 【会報第23号・2007年11月発行】
平成13年9月から14年10月にかけて開催された、京都の宇治・興聖寺から福井県の永平寺まで歩く「道元さん慕古の道 七街道ウォーク」という大会に参加しました。250kmを5ステージ延べ11日をかけて歩きました。当初は無理と思っていた、全コースを歩くという幸運に恵まれました。この大会は、班を構成して歩き、私が属した班は毎回同じ顔ぶれが同じ宿に泊まりました。北は千葉県から南は福岡県までの18人ほどですが、この大会が終わってからも、毎年どなたかの地域に集まりウォーキング会を開いています。こんな例は他に知りません。さらに私にとって記念となったのは、私のホームページに掲載したこの大会の記録が、第3ステージ以降大会誌に掲載されるという栄誉に浴したことです。●10年連続「鎌倉歴史探訪ウォーク」に参加しました。鎌倉の7切り通しを毎年一つずつクリアーしていきます。一宮から10人前後を誘って青春18切符を使い、ということは普通列車に乗って、ほぼ22時間で鎌倉を往復してきます。かなり狂気じみた強行軍の行動ですが、10年も行えば一つの誇りでしょう。●その他、初の遠出となった「瀬戸内倉敷ツーデー」、沖縄まで行った「名護やんばるツーデー」、そして「日本スリーデー」なども思い出の大会です。スペースの関係で紹介できないのが残念です。
五山ウォークは平成7年から、鎌倉へは平成6年から、高月は平成10年からの参加です。いずれも今開催されているかは知りません。
またPHP研究所発行「ほんとうの時代・平成14年10月号」に私自身とウォークについて、気恥ずかしくなるほど立派に掲載していただいた。今年(平成15年)11月発行の保存版にも再掲されました。JCBカード会報誌「NOON」からも取材を受けました。これはホームページの効果で、全く驚くべきものがあります。
久しぶりに振り返ってみて、できる時にやっておいて本当によかった、これもつくづく思います。今は今でやれることをする、この気持ちは生涯忘れないようにしたいものだと思っています。
(令和4年3月02日) |
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