zu122
 青 春 放 浪 記 (その4)


 
  話を少し戻して新婚旅行について触れておきたい。結婚式を終えた当日、東北方面へ5泊6日の新婚旅行に旅立った。1泊目は東京で泊まった。二人ともまだ学生の資格である。運賃は学割である。そして、宿泊場所はすべて地方公務員の共済組合が運営する宿に泊まった。新婚旅行で行くと伝えたらそんな宿ではないと断られたところもあった。そんなところは全く特別扱いであった。これも今となってみれば懐かしい思い出である。

 さて、昭和40年代の名古屋市南部や東海市は大気汚染公害の最悪の状態であった。その東海市に家を借りてしまったのである。契約は8月15日となっている。もう結婚式まで1ヶ月半である。なかなか決まらぬ新居に連絡がありがたく思えたであろう。あの時、公害のことはほとんど頭に浮かばなかったのはなぜだろう、と思う貴之である。
 ところが住んでみてすぐに後悔することになる。太田川駅で電車のドアーが開くと、プーンと嫌な臭いがする。紅い雪が降ると言われた。布団を干すと煤塵がいやでも目に付く。貴之は風邪を引くと咳がなかなか治まらない。気管支が弱いと思っていた。これでは殺されてしまうと、恐れた。早々に大気汚染公害のないどこかへ引っ越ししなければなるまい。
 また家を借りるのか。電車の吊り広告を見ていると、400万円前後で土地付き新築住宅の広告が目に付く。そんな額で家が買えるのなら、そちらを検討してみてもいい。京子はもう10年近く働いている。贅沢を知らない女性であるので、それなりの蓄えもある。貴之は家を出るに当たり、財産放棄と引き換えに親から100万円を貰っている。頭金は何とかなりそうである。本気で物件探しが始まった。ところが400万円前後のものは、地盤の低い海部地方や名古屋通勤には遠い可児地方である。候補を絞っていくと、大府駅から自転車で行ける団地になった。ところが土地も広く、価格も高いのである。返済計画を綿密に立てていく。何とかなるだろうと決断する。そして、売り出しの中で最も安い建売分譲住宅に決める。土地65坪、建物30坪、価格620万円、2人の共有名義とし、昭和46年5月に契約をした。300万円を銀行から借りた。15年返済計画、利息は1割強である。今では考えられない高利息である。

 そして、46年年末に引っ越しとなる。47年正月はまた片付かないが、新築の家で過ごした。結婚する前、京子の両親にいずれ自分の家を持つ、と約束してことを早々に果たせた。これは幸運と言えるのだろうか。職場に近い公営住宅に当たっていれば当分そこに座り続けたろう。また公害の凄い東海市に住まなければ、このように早い転居にはならなかった。返済額は月2万円程度で、持ち家を持てばそれなりに支出もあり家計的にはきつくなった。京子は46年1月から家計簿をつけるようになった。その家計簿は今も使い続けている。

 健全な夫婦であれば、いずれ妊娠、出産と言うことになる。47年5月19日の家計簿に診察料というのが上がっている。ヒョッとしてこれが産婦人科の診察であったかも知れない。いずれにしろこの頃妊娠が分かるのである。嬉しかったのは言うまでもないが、担がれて「だめだった!」という言葉に落胆したことはよく覚えている。顔色が変わった、と後に京子によくからかわれた。そして、10月7日に第一子長女の誕生である。核家族である。育児が大きな問題となる。京子は夜間大学まで卒業して、社会に出て働いているのである。家に閉じこもるつもりではなかったはずだ。そこで貴之は言った。「社会に出て働くのは、社会に出て活動したいからか、それともお金を稼いでいい生活をしたいからか。前者なら、子供を預けるところを探そう。後者なら仕事を辞めて家庭に入ってくれ」と。京子は悩んだと思う。でも選んだのは後者であった。そして、翌年3月末まで子供を稲沢の実家に預けながら働き、退職するのである。この選択が良かったのか、悪かったのか。京子から間違ったという言葉は一度も聞いたことがないし、貴之もその後の活動から良かったのではなかろうか、と思っている。
 
 順調に進んでいる家庭生活であるが、長女誕生から、ちょうど1年後の昭和48年10月に「第1次オイルショック」が勃発する。第四次中東戦争に端を発する石油の供給危機で、石油価格の急騰により、インフレや貿易収支悪化といった深刻な経済的ダメージを受けて不況に陥る。日本も戦後続いていた高度経済成長が終焉し、トイレットペーパーや洗剤など石油関連製品の買占めなどにより、「狂乱物価」という社会現象が起きる。家庭生活は苦しくなる。しかしながら物価上昇に伴って給料も上がってくる。家計簿から年収額を見てみると、昭和48年が166万円、49年が219万円、50年が282万円となっている。2年で1.7倍になっているのである。逆に借金は6割に減っていることになる。生活が苦しくなったと言っても2人は共に贅沢を知らない。ある程度まとまった預金になると、その分を返済に充てた。そして何と、50年6月に完済したのである。15年の返済予定が3年半である。人生何が起こるか分からない。貴之はこの幸運を未だ信じられない。49年6月に第2子次女が誕生していた。

 さて貴之の実家の方はどうなっていっただろうか。跡継ぎの貴之が飛び出したので、親としては妹の光子に跡を取らせたくなる。婿養子を迎えなくてはならない。まず親は結婚を認める前提に、貴之に財産放棄の書類を書かせた。貴之にしてみれば、自分の取った行動からして何の異論もない。素直に書いた。これで婿養子候補に、光子に兄がいることの不安を少しでも解消したつもりであった。そして見合いを重ねていった。光子に魅力がなかったのか、貴之の存在が邪魔したのかは分からない。数年が過ぎていった。もう30回近く見合いをしたと聞いて、貴之は光子に「後は何とかするから出て行ってもいいよ」と言った。親はどう判断したか分からないが、光子は49年4月に嫁ぐのである。

 貴之と京子の両親とは普通の親子のように交流していった。ただ両親同士の交流はなかった。そして、昭和55年9月のことである。貴之は稲沢市民病院から呼び出しを受けた。そして、父親は胃がんの末期症状で余命半年と告げられた。父親に胃がんの症状の自覚は全くなかったようだ。もうこうなれば、父親の元に帰るより仕方がない。光子が嫁いだことにより、いずれ実家に帰ることになることは、京子も承知していた。そして、貴之はいろいろ作り事を並べて「帰らせてください」と頭を下げた。まだ早いという父を承諾させた。そして、11月23日に実家に転居し、両親と同居するのである。
 京子にしてみればとんでもないことである。すべての問題はこの親の結婚反対で始まったことである。侮辱もされた。辛い思いもした。苦労もした。その親の面倒を看るのである。拒絶されても不思議ではない。それを易々として受け入れてくれた。こんな女性が自分の妻である。貴之にしてみればいくら感謝してもしきれない。
 そして父は昭和57年1月21日、68歳で死去するのである。半年が1年半に延びた。本人は胃がんと知っていたろうか。胃がんと言いながらもほとんど苦痛はなかったようである。静かな死であった。


 貴之も37歳になる。青春放浪記もそろそろ終焉である。ここまでに書いたことに関連することを蛇足的に少し述べておきたい。
 「京子が退職する選択が良かったのか、悪かったのか。貴之はその後の活動から良かったのではなかろうか、と思っている。」と書いたことについてである。京子は仕事を辞めた後は全くの専業主婦で過ごした。2人の子供が保育園に入った時から高校卒業する時まで、ほとんど毎年のように母の会やPTA役員を引き受けていた。特に小中学校約40校からなる市PTA連合会の女性部長を引き受けた時の活動は貴重な経験であった。そうした関連から地域の役員もいろいろ仰せつかった。貴之も退職後にいろいろな地域活動に携わるが、自己紹介を「京子の夫です」と言った方が良く分かる、といつまでも言われていた。それほど京子は地域では知られるようになっていた。これも専業主婦だからできたことであろう。そう言ったことで、良かったのではなかろうかと思うのである。そうでなければ京子に全く申し訳なく思う貴之である。
 その他に、貴之は元々生まれ育ったところだから抵抗はないが、京子にはかなりの苦痛であったと貴之は思う。同じ稲沢市内と言っても京子は町育ちである。そして、サラリーマンばかりの高級団地に9年過ごしたのである。いろいろな生活レベルは高い。今度住むところは昔ながらの田舎である。このレベルの違いは大きい。長女が後に言っていたが、団地ではほとんどの人がピアノを習っているが、こちらでは数人である。そこでいろいろな代表でピアノを弾いていた。これは心地よかったようである。しかし、村の風習、しきたり等ほとんどのことが苦痛の種であった。貴之自身も団地の生活を懐かしむものがあった。京子には申し訳なく思うと共に、本当によく受け入れてくれたものだと思う。
 大府駅近くに買った住居はどうなったであろう。1、2年は隣の人に見て貰っていたが、処分した方が良いと言うことになる。住んでいた家を3年以内に売却すれば3000万円まで無税という制度があった。そこで売却した。何と購入時の3倍で売れた。これがその後の経済的余裕になった。
 父は貴之を内心どう見ていたか。父が亡くなって貴之が地域の寄り合いなどに参加することになる。そこで、父がこう言っていた、ああ言っていたなどと聞かされることになる。そんなことまで言っていたのか、とびっくりすることも度々であった。でも息子を誇りに思っていたことを知って貴之は安堵するのである。
 夫婦仲については言うまでもない。長女の娘婿が、自分の親と比べて「おまえの親のように仲の良い夫婦ばかりでない」と言ったという。貴之は京子を裏切ったことは一度もない。京子と付き合う前に付き合っていた八重子のことも事前に話していた。これほどにして結婚した相手を裏切ったら、自分の価値が下がる、と貴之は思ってきた。2人の間で膨れることはあったが、けんかまで発展した覚えはない。これで今年は金婚式を迎える。そんな年にこんな思い出話を書いている。

                              (令和2年4月10日)

川柳&ウォーク