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 青 春 放 浪 記 (その3)


 
 親の同意も得ず、家を出て寮に入ってしまえばもう完全決裂である。自分の意思で進むばかりである。もう一般の結婚式は挙げられない。親しい友人に結婚式の相談をする。そして、その頃時々話を聞くようになった会費制の人前結婚式にしようとなる。昭和45年4月、親しい友人7名で結婚式実行委員会が組織された。いろいろ議論しながら着々準備は進む。一方2人は親や親戚と話し合いをしていく。もちろん貴之の親戚はいい顔をしない。ひどいことを言われて、京子は泣いて帰ることも度々であった。しかし、結婚式には出ない、という貴之の両親を説得してくれたのは親戚であった。ここで出なくてはもう取り返しが付かなくなる、出席していれば後の好転することもあろう、と言う思いからであった。
 昭和45年10月4日、あいにく雨の日であった。それでも123名の参列者を得て、市役所近くの公共施設で結婚式は盛大に行われた。2人の両親や親族も出席した。
 貴之はこの青春放浪記を書くために久しぶりに結婚式の記録を取りだした。いろいろな資料が1冊にまとめられている。「貴之君・京子さん 結婚式・祝賀会」という2人の写真入りの案内文が綴じられている。また結婚式の進行の中で、友人2人のよる2人のいきさつを紹介する、掛け合い式の朗読文も綴じられていた。後半部を少し抜粋する。


【A男】昭和44年11月3日、2人は鬼岩へ行きました。ここで更にお互いを知ったのです。彼は彼女の熱心さと朗らかさを、彼女は彼の素朴さと誠実な生き方を、心と心はこの場所で結ばれたのです。
 ここで彼によく聞かされる「人の価値」に対する彼の考えを述べておきます。それはただ「努力」と言う2字です。人はそれぞれ生まれながらに能力の差、環境の相違はあります。それは自分自身ではどうにもならないことです。そういう本人の意思に関わらぬものによって人を判断することは間違っている。いかに努力したか、いかに前向きの姿勢であったか、そこに人の価値を求めようとするのが彼の考えです。
 そういう目で人を見るとき、彼女は尊敬に値する人だったのです。小学生時代に中日新聞のブルーバード賞を受けるような態度、高校時代の働きながら優秀な成績であったこと、更に夜間大学へ行こうとする意欲など。そんな彼女に感心したのです。
【B子】一方京子さんは、意欲的に事に当たる人、自分の力で道を開こうとする人、そんな人に憧れてみえたようです。彼の出現はそんな彼女の心を躍らせました。見かけは気むずかしいそうな人でも、一言話してしまえば非常に気さくな人であることが分かりました。11月23日からお二人の交換日記が始められます。日記を通じて人生を語り、日々の問題を解決していきます。それが今日ではもう700ページほどになったということです。こうして二人は暗黙の内に愛を誓ってみえたのです。
 12月5日、市職員全部が顔を喜ばす日、そうです、ボーナス支給日です。そして京子さんには、それ以上に嬉しい日になったのです。帰りのデート時、その昼出たばかりのボーナスで、彼自身が選び、買い求めた黒いハンドバックをプレゼントされたのです。
 こんな彼のあふれるばかりの愛に応えて、京子さんは12月に入ると、中日文化センターのお料理教室へ通い始めました。実は言えば、それ以前にも料理を習いに行こうとされた時があったのです。その時は「あわてることはない。学校を卒業してからで十分だ。あまり無理はしてはいけない」と言う彼の言葉に一度は思いとどまったのです。しかし、彼のために料理の腕前を少しでも上げようという気持ちが強かったのでしょう。今度は彼に内緒で申し込んでしまったのです。
 それを知った彼はどんなに感激したことでしょう。その心の現れでしょうか、彼は毎週土曜日、4階の待合室で彼女の料理の終わるのを待ってみえたのです。なんとほほえましい光景でしょう。3月からはお花の講座も受けられるようになりました。
【A男】しかし、2人はただ楽しいことばかりではありませんでした。人生と真正面から取り組み、時には議論し、けんかをし、そして泣き、難しいことも解決してきたのです。苦しかったこと、辛かったこと、それらはそれを乗り越えることによって彼らの力となり、深い絆となったのです。
 4月に入ると、本気で結婚のことを考えるようになりました。2人とも社会人とは言え、また学生です。大学を卒業してからにしようか・・・、それをあえて苦しい時代からにしたのです。それが将来ためにもなるだろう。夜9時半に帰って、それから食事、勉強もしなければならない。でも彼らは踏み切ったのです。そして今日という日が選ばれたのです。  


 久しぶりに読む文に、貴之は胸を熱くした。また、結婚式の出欠席返信はがきも綴じられている。返信はがきには祝いの言葉や励ましの言葉などが書かれている。貴之はいろいろな人を思い出しながら更に胸を熱くして読んだ。
 
 結婚式は実行委員長挨拶、誓いの言葉、結婚届の署名、結婚成立宣言等で進めれていく。誓いの言葉は実行委員にも意見を求めたものである。結婚届はその日のうちに、役目を負った人が区役所に届けた。結婚成立宣言は、届け書を確認した人によって宣言された。これこそ人前結婚式である。新しい形式である、仲人をどうするかと言うことも悩んだが、結局上司にお願いした。最初は拒否されたが、事情を話したところ気持ちよく引き受けていただいた。その後もよく自宅に伺った。
 祝賀会はほとんどがお祝いの言葉で過ぎていった。質素ではあったが、心がこもっていた。
 会計報告も綴じられていた。参列者は1000円会費である。結婚式会場の経費はほぼこれでまかなえている。他には京子の花嫁衣装代と親戚への引き物等で約10万円かかっていた。何もないところからの出発と言うことで、たくさんの家庭用品をお祝いにいただいた。
 その後のことであるが、この結婚式に出席した何人もの人が、この人前結婚式を挙げるのである。それ程に良い印象を持ったのである。その度に貴之は実行委員をお願いされて行く。

  
 新居は各地の公営住宅を10回程度応募したがすべて外れた。そこで数地域の不動産屋さんに借家の紹介を頼んだ。東海市太田川に空き家がる連絡が入った。3軒長屋の真ん中、6畳と4畳半、そして2畳ばかりのところに台所とトイレである。これで月1万円である。風呂は前居住者が自費で家の外にトタン張りで作っていた。それを1万5千円で譲り受けた。テレビも前居住者から1万円で譲り受けた。貴之は8月から一人住まいを始めた。
 そして10月から2人の生活が始まる。2人そろって8時前に家を出る。満員電車で地下鉄市役所駅まで行く。そして仕事を終えるとそれぞれ千種区の学校へ行く。帰る時には再び落ち合い一緒に帰る。帰宅したのは10時頃だったろう。それから夕食の準備、夕食である。風呂があるのは助かったが、それでも冬に向かって大変だった。トタンで周りを囲っただけである。冷たい風が吹き抜けていく。毛布で囲い、石油ストーブを持ち込んだ。それでも京子には嬉しかった。京子の家に風呂はなかった。高校の帰りに銭湯によって帰るのである。学校へたらいなどの風呂用品を持って行くのが嫌でたまらなかった、と言っていた。京子はそんな生活もしてきたのか、と愛おしさが増す。そして夏になるとまた大変であった。3軒長屋の真ん中で、ただでさえ風が通らないのに、北側を風呂で囲ってしまっている。ほとんどと言っていいほど風が通らない。家の中は蒸し風呂である。それでも楽しい新婚生活であった。

 貴之は3年に編入学しているので、45年度には卒業できるところであった。しかし、それは科目等の問題で元々無理であったし、それにこの結婚騒動である。46年度に2人そろって卒業を目指すことにした。夜学生は勉強熱心である。当時、学園紛争はまだ終わっていなかった。昼間部の学生が、夜学の教室に乗り込んできて、アジテーションを始めた。「俺たちは勉強に来ている!帰れ!!」と追い出してしまった。多くの学生は仕事を終えて、学校に勉強に来ているのである。授業が中止になって喜ぶ学生はいない。公務員の場合、大学卒業の資格を得て、上の試験を目指す人もいる。貴之はそんな友人と私的な勉強会も始めた。そして2人とも卒論を提出し、無事卒業の資格を得た。ところが47年3月、卒業証書は授与されるが、卒業式は行われなかったのである。学園紛争でバリケードが作られ、学校が閉鎖されてしまったのである。貴之は今でも残念な気持ちでいる。あの時、卒業式が実施されていれば、ヒョッとして京子が卒業生代表をしたのではなかったろうかと。成績優秀者に授与される特待生の授業料免除を、2学年ばかりでなくその後も受けていたのである。
 順調な新婚生活であった。ところがすでに問題は生じていたのである。

                            (令和2年1月13日) 

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