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 青 春 放 浪 記 (その2)


 
 貴之は終戦の年、農家の二男として生まれた。二男と言っても、長男はもう3年前に病死していたので、実質長男である。その後妹が生まれ、二人兄妹として育った。戦後のどさくさである。何もかも大変である。貧農と言っても農家であるので食べるものには困らなかったようだ。町の人が着物などを持って、物々交換に来ていた姿を思い出す。
 貴之は、時々ではあるが小学校に上がる前から、名古屋の青物市場へ出かけていた。父が自転車でリヤカー引き、そのリヤカーに乗っていくのである。新川や庄内川など大きな川に来ると、道は坂になっている。その時は降りて、リヤカーを押すのである。それは小学低学年まで続いたと思う。あの砂利道を、たくさんの野菜をリヤカーに乗せて自転車で引っ張り、稲沢から名古屋の枇杷島や熱田の市場まで行くのである。野菜が多くとれる頃ともなると、毎日のようではなかったろうか。夜2時頃出かけ、昼近くに帰ってくる。その間に母が収穫など次に行く準備をしている。父や母は本当によく働いた。今の時代には信じられない。小さい頃の忘れられない思い出である。
 その頃の農家の子は、学校は二の次であった。特に長男は、農家を継ぐものとして育てられた。学校も田植え休みや稲刈り休みがあった。貴之もご多分に漏れず、学校から帰るとすぐに畑へ行って手伝った。これは高学年になってからであるが、町からの転校生が、貴之の生活が気になってのぞきに来たことがあった。すぐ畑へ行く姿に驚いていた。

 貴之の小学校時代は、1学年30人ほどであった。その中で優等生であったという自覚はあまりない。普通の貧しいに農家の子の意識で、裕福な子やサラリーマンの子とは違う。でもいろいろなことを思い出すと優秀であったらしいことに思い当たる。いつも級長をしていた。多くのことで代表になっていた。特に、小学3年の担任の先生が父親に「この子は高校に進学させてやってください」と言っていたことがある。貴之の記憶はその先生に後に聞いた話かもしれない。卒業式の送辞も答辞も貴之がした。将来のことを何も考える歳ではないが、当然農家を継ぐものと思っていた。
 地元の中学へ進んだ。3つの小学校から生徒が集まってくるが、終戦の年は生徒が特に少なく、110人ほどであった。3クラスである。1学期から級長であったが、高校へ進学をしないことが先生に伝わっていたらしい。多分父兄会の時にでも親が言ったのだろう。先生が「貴之は高校に進学しないから使えるだけ使っていい」と言うようなことを、生徒の前で言っていた覚えがある。


 中学1年の10月6日、父が軽3輪車で熱田の野菜市場行く途中、名古屋の御園座近くで交通事故を起こした。近くの病人に運ばれたが、4日間生死をさまよう重傷であった。どちらの過失が大きかったかは知らないが、相手の車の人は非常にいい人で、助かったと言うことを後に聞いた。少しの後遺症は残ったが、2ヶ月間の入院で無事退院した。10月から2ヶ月間というと、農家は全く多忙な時期である。まず白菜や大根の出荷時期である。近隣の人総出で、その出荷をしてくれた。それが2回ほどあった覚えである。11月に入ると稲刈りである。これも近隣の人に助けてもらった。母と二人ではとても無理である。そして裏作の準備である。当時は裏作に小麦を作っていた。田を起こして畝を作らねばならない。これは止めてもよかったろうが、母とした。そしてほとんどは貴之がした。中学1年でよくあれだけのことができた、と貴之は今でも自身ことながら感心している。父の入院した2ヶ月間のうちで、貴之は40日程度、学校を休んだ。出校したとき、先生に「休むのも仕方がないが、もう少し出てこいよ」と言われた。


 父が退院してまもなくの頃だったと思うが、正月でもあったろうか。「高校へ行くか?」と言いだしたのである。入院中にいろいろ考えたようだ。子供にこんな農業をやらしていていいのだろうか。社会は大きく発展しようとしている。農業に大きな将来は見いだせない。先生は、是非高校へやってくれと言っている。貴之はこのことで、父がどのくらい考え、悩んだかは知らない。「行ってもいいというなら、行くよ」、答えはそれだけである。本人に何の意思も希望もない。父親の言うがままである。そして行くなら、工業高校となる。技術を身につけた方がいい、というのである。工業高校の名門となると名古屋へ行くことになる。
 先生に高校進学が伝わると、先生も一生懸命応援してくれることになる。個人的に課題などが与えられた。何せ田舎の中学校である。何もかも劣るのである。当時、その地域の名門高校と言えば日光高校である。100人以上も合格する中学校があれば、その中学からは毎年数人の合格である。中学2年の時には伊勢湾台風が、中学3年の時には第2室戸台風が襲った。貴之はいろいろ大変なことがありながらも、楽しく中学校生活を過ごしていった。そして高校受験を迎えるのである。


 高校入学試験は3月初旬である。その年の1月下旬、高校の受験願書を出す1週間ほど前のことだったと思う。その日自宅で法要があった。貴之が学校から帰ってくると父親がすぐにこう言った。「日光高校へ行くか?」。それをどんな気持ちで聞いたか、その覚えはない。その日父親は、読経に訪れた住職に貴之の高校進学について話したらしい。先生が日光高校を勧めている、とも言ったらしい。住職は「何も普通科へ行ったからと言って、大学へ進学しなければならないものでもないだろう。普通科からでも十分就職できるし、先生がそれほど勧めるならそうしたら」という助言であった。そこで父親は翻意したのである。貴之は父親の言うがままである。「行ってもいいというなら行くよ」これが貴之の回答である。願書を出す1週間前に急遽変えるとは、人生何が起こるか全く分からないものである。高校進学はしないから始まって、工業高校、普通科高校へと、突然に変わっていく。この出来事は貴之のその後を大きく変え、貴之の思想にも大きく影響したことである。
 高校受験は日光高校1校である。私学は受けない。落ちたらその高校の夜間部へ行けばいい。悲壮感はない。そして無事合格するのである。その中学から日光高校へ進学したのは9名であった。前代未聞の多さであった。この年は優秀な生徒が特に多かったようだ。それでも、その年の高校進学者はちょうど5割であった。そんな時代、そんな地域であった。日光高校の普通科は8クラス430人である。そして、貴之はかなりトップクラスで合格したようである。担任の先生から1学期の級長に指名されたのである。


 さてここまでは幸運に導かれたような人生であった。ところがこの頃からいろいろな軋轢が始まるのである。まず父親とである。学校から帰るとすぐに農業を手伝うような貴之であったが、町の人たちの生活を見るようになった。違いが大きい。劣等感が強まっていく。名門高校である。ついて行くには、家に帰っても勉強をしなければならない。非常に理解を示してくれた父親であったが、農業を手伝わない貴之に不満が生じた。そんな父親を見て貴之にも不満が生じる。決定的になったのは、高校2年5月、ゴールデンウィークの時であった。いつまでも寝ている貴之に父親が激怒した。起きないと言ってもまだ6時半である。この頃は野菜の植え付けに忙しい。父母たちは多分5時前に起きているだろう。こじれ始めると次々こじれていく。しょせん田舎の優等生である。成績もそう上位は維持できない。
 貴之にとって高校時代にあまりいい思い出はない。男子ばかりのクラスが毎年2組ある。毎年クラス替えはあるが、貴之はなぜか3年間、男子ばかりのクラスであった。3年間男子クラスばかりというのは数人であろう。女子生徒と全く接触の機会はなく、これも味気なくした要因かもしれない。ともかく劣等感で固まっていた。成績もあまりはかばかしくないが、それでも国立の中部中央大学を受験できる程度の成績は維持していた。
 日光高校に入るときは、その経緯からして全く大学は意識になかった。しかし、8クラス中6クラスが進学コースである。大学進学は当然のことのような雰囲気である。ある程度の成績が左右したかもしれないが、大学進学についてあまり議論することもなく自然そんな気になっていく。いろいろ不満はあるが、親もそんな気持ちになっていったと思う。貴之の村で、サラリーマンやお金持ちはあったろうが、普通の農家の子供が大学進学した例はまだなかった。まして国立大学はなかったと思う。中部中央大学へでも進学してくれれば、親として誇れる誇れる気持ちもあったろう。


 大学受験が近くなってくる。第1希望を国立第1期校の中部中央大学とし、第2希望を第2期校の東西工学院大学としていた。ところがここで貴之の気弱さが出てきた。成績は落ち気味、でもここまで来たからには大学進学はしたい。浪人は許されない。そして、第2希望を第2期校の夕陽大学へ勝手に変更したのである。そして、進学相談の日に親は来ない。先生は激怒した。「親が来ないのは貴之の家だけだ!」。親は学校と本人任せである。小学校の時から父兄会にもあまり来なかった親だから、親にしてみれば普通のことであったろう。そして、結局中部中央大学は不合格となり、夕陽大学に進学することになる。負け惜しみかもしれないが、貴之はこれでよかったと思っている。あのまま中部中央大学に合格していたら、怖いもの知らずのかなり傲慢な人間になっていたのではないか。落ちることを経験して、人間的にはよかった。また、クラスとして東西工学院大学の方が上かもしれないが、単科大学である。夕陽大学の方は十分とは言えないまでもいろいろな学部があり、楽しめた気がする。これは後になってからのことであるが、名古屋市役所に就職する。中部中央大学や東西工学院大学の同期生も何人かいる。歩んだ道として遜色はあったろうか。ほとんどなかったというのが、結論である。学歴が全く無縁とは言わないが、それより人間性だと、貴之は今でも確信している。

                               (令和元年7月)
 

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