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 青 春 放 浪 記 (その1)


 私の属していた小さな作文の会「朗人」が、主宰者の病気で昨年4月解散となりました。そして、6月には亡くなりました。12月に忍ぶ会を催し、その席で再開する話が出ました。そして、今年3月に「アールグレイ」として再出発することとなり、4月に第1号を発刊しました。
 私が書いてきたのは、ほとんどが自分に起きたことばかりです。体験談しか書けないのです。まして、フィクションや小説など書く能力は持ち合わせていません。しかし、今回そんな類いのものに挑戦しようと思いました。自伝的なフィクション短編小説のつもりです。どこまでが事実であり、どこからがフィクションであるか、推測しながらご笑読ください。 


 
 今となっては老いた身になった貴之(私)にも青春時代はあった。女性に焦がれたこともあった。貴之は小学5年の時のことをはっきり覚えている。その頃、おひな様や子供の日、クリスマスには貴之の家に同級生数人が集まり、茶話会を催した。当時の農村地帯は貧しかった。飾り付けは全く手作りだったし、茶菓子などしれていた。それでも楽しい催しだった。小学5年の時のクリスマスは、その夜、皆が貴之の家で雑魚寝をして過ごした。そこで好きな異性の名を言うことになった。貴之もはっきり言った。それだからよく覚えているのである。でも、ただその時の流れで名をあげただけの気がする。中学の頃にはもっと憧れる人が現れた。その人のそばにいるだけで、貴之は緊張で汗が流れた。中学は3クラスあったが、一度も一緒のクラスになることはなかった。ただ思っていただけで、言葉を交わすこともなく、全く遠い存在だった。これが貴之の淡い初恋だったといえよう。高校の時は行動に出たことがある。でも数回デートをしたのみで、話が合わない、と断られた。

 昭和39年4月、貴之は夕陽大学に入学した。2年の頃だったと思うが、バス車内で日光高校に通学する女子学生が気になるようになった。一つ前のバス停から乗るようだ。中学の後輩に当たるだろう。だんだん惹かれていく。手紙を渡したのか、何か声をかけたのか、その他だったのか、きっかけは覚えていない。ともかくつき合うようになった。彼女は八重子と言った。学校帰りによく落ち合った。親が知るようになる。親はすぐ結婚に結びつける。そしてすぐ家庭状況を調べる。貴之は、妹はいるが農家の一人息子である。当時としては当然跡継ぎである。八重子は二人姉妹の長女であり、八重子も家を継ぐように育てられていた。当時は誰かが家を継ぐのが当然という考えであった。本人や家柄については問題ではないが、お互い跡継ぎということで、この交際は両家とも喜べないものだった。そんな状況を抱えながらも二人は交際は続けた。お互い結婚を意識するようになっていく。でも貴之は家を出る気はない。八重子には妹がいる。八重子自身や八重子の両親の翻意を願うばかりである。昭和44年4月、貴之は名古屋市役所に入り、本庁勤めとなった。八重子も名古屋の短大に入った。もう決断しなければならないときに来た。結局、八重子の気持ちを変えさせることはできなかった。4年近く交際しながら、お互い家を取って別れた。


 貴之は就職して、公務員は技術職でも法律の知識が必要と感じるようになった。そして、貴之と机を並べていた3年先輩の同僚が、夜間大学を目指すと言い始めた。教員の資格を取りたいという。それならと、貴之は夜間大学の法科を目指すことにした。時折、二人で受験勉強をした。二人で濁河温泉に勉強をしに行ったことは忘れられない。そして、貴之は翌昭和44年4月から、名古屋市にある叡智大学法経学部第2部(夜間)に編入学する。学士ということで、3学年への入学が認められたのである。しかし、教養課程の単位がだいぶ足りない。そこで、その単位を取るために、1年生や2年生の教室へ出かけることになる。
 それは、多分44年5月頃のことだったと思う。授業料が免除になる特待生の名簿が掲示板に張り出された。数名である。その中に女性の名前もあった。この特待生は前年の成績によるらしく、特に成績優秀者に与えられたようである。夜間部である。1学年200人くらいだったと思うが、ほとんどが男性で女性は数人である。この女性がどの人か、すぐに分かってくる。ところがこの女性を役所の食堂で見かけるのである。同じ市職員なのか。驚くと共に話しかけてみたくなった。そしてある時、その食堂でだったと思うが、思い切って話しかけたのである。これが貴之の妻の京子である。

 話して驚くのである。住まいは同じ稲沢市である。名鉄本線を挟んで、京子は駅の西側、貴之は東側とかなり離れているが、しょせん同じ稲沢市内である。そして高校も同じで後輩である。と言っても貴之は昼間部、京子は夜間部であった。京子は中学校を卒業して、すぐに稲沢市内の病院に勤め始めた。しかし、どうしても高校に進学したくて、翌年日光高校夜間部に入学した。更に大学へ行きたくて、昭和43年4月叡智大学夜間部へ入学したという。だから中学卒業して大学入学まで5年かかっている。そして勤務も大学へ通えるように名古屋に変えていた。京子の努力と熱意には全く頭が下がる。敬意さえ覚える。貴之は今までこんな人を知らない。そして京子は、4年制大学卒業し、更に大学進学をした貴之に興味も差したのだろう。職場で、学校でと会う機会は多い。貴之は1年前に失恋したところであるが、すぐに親しくなった。

 ところがここですぐに貴之の父の調査が入るのである。京子の家は貧しい。話を聞いても確かに貧しかったようだ。京子は小学6年の時に、中日新聞のブールーバード賞を受けている。貧しい家庭の小学生が、家を助け頑張っている人に与えられる賞である。京子には3人の弟妹がいる。小さい時から面倒を見てきたという。その受賞の時の記念品が、今も貴之の家にある。京子は捨てていいというが、貴之はそのままにしている。そして両親の反対である。今度の理由は、本人に問題はないが、家が貧しすぎるというのである。父は以前から、妻は格下から貰えと言っていたのにである。貴之の家が豊かだったかというと、またこれも違う。以前は貧しかった。それを父には、頑張って人並みにした言う誇りがあったのである。父は尋常小学校卒であり、専業農業であった。それでも村では頭のいい人で通っていたし、農業の先生という人もいた。村の役員も回ってくるようになっていた。それを貧しい家庭から嫁を貰ったら、また元へ引き戻されるというのである。貴之としてはこんな理由は納得できないし、それで頑張っている京子との交際を絶つわけにはいかない。それこそ侮辱である。今度は貴之も猛反撃に出た。


 そして貴之は昭和44年12月のある夜中、職場の同僚に車で迎えに来て貰って、最小限の荷物を積んで家を出たのである。名古屋市内にある独身寮に入った。両親の反対は火に油を注ぐようなものであった。そして、45年10月に結婚式を挙げたのである。知り合って1年半である。反対がなければこんな短期間でことが進むことはなかったであろう。八重子とは家を出られないということで別れながら、この顛末に人生とは計り知れないものと感ぜざるを得ない。

                                  (令和元年8月) 

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