zu117  義 弟 の 死  

  平成31年2月16日、この日私は千秋町老人クラブ連合会の日帰りバス旅行に参加していた。午後2時頃、大阪府池田市にいた時何気なくスマホを開いた。メールが届いている。娘からで「叔父さん(以下Yと書く)が交通事故で亡くなったよう」とある。急いで電話を入れる。妻らは病院にいるようだ。帰ったらYの自宅へ行くから、そちらがつける時間が解ったら教えて欲しいと、妻の妹にメールを送る。もう落ち着かない。と言ってもどうにもならない。

 
自宅へは7時過ぎに着いた。遺体はまだ戻れていない。検視に時間がかかっているようだ。まもなく病院を出るというメールが届いた。そして、自分も車で家を出て、Yの家に向かう。幸いに自分もYの家も同じ市内である。Yの家とは妻の実家である。Yは妻の弟で、実家で一人暮らしである。生涯独り身であった。義弟は姉に私の妻、そして2人の妹がいる。4人兄弟姉妹である。
 Y宅に着いたら、もう葬儀屋さんが来ていた。話し合いの結果、私が喪主を務めることになった。そして、打ち合わせできることはした。住職にも来て貰い、枕経を上げてもらう。通夜式は2月18日午後6時、葬儀式は家族葬とし、19日午後1時と決まった。
 葬儀屋さんが帰られて後、状況を聞く。Yは午前11時半頃、車を運転していて、信号待ちの車に追突した。追突された人が降りて弟の車を覗いたら、弟が倒れていたという。すぐ119番をしてくれて病院に運ばれた。いろいろ手当てをしたが、意識が戻らぬまま死亡となった。死亡時刻は午後2時になっていた。妻らは病院に午後1時半頃着き、死亡宣告を聞かされている。死亡原因は心室細動となっている。心臓が細かく動き、血液を送り出せない病気のようだ。突然死である。信号が赤でブレーキを踏み、その後倒れたようである。軽い追突事故で、バンパーがへこんだくらいで終わった。人身事故にはならなかった。大事故になってもおかしくなく、と言うより大事故になるのが普通である。よく報道されている。本当にこの程度で終わってくれたのか、というのが正直な思いである。義妹ら集まっていた親族は、一段落ついた後帰って貰った。この夜は自分と妻が義弟を見守ることにした。ろうそくと線香の火を絶やさぬようにしなければならない。着の身着のまま横になる。


 翌17日はしなければならないこと、できることを順次していく。18日に遺体を葬儀場へ運び出せば、もうこの家には誰も住まなくなる。新聞や電話、テレビを解約する。この日の午後には、甥や姪など20人近い親族が集まり、供養をした。そしてこの日も妻と私が泊まった。
 18日昼頃、葬儀屋さんが来る。まだ決めていないことをテキパキ決めていく。1時頃、遺体を伴って葬儀場へ移る。一段落ついた頃、妻と一度わが家に帰る。身支度を調え、2時間ほどでまた葬儀場へ戻る。午後5時頃から人が集まり始める。家族葬であるので、ほとんど見知った人ばかりである。総勢30人ほどであろうか。6時から30分ほどで通夜式は終わる。私の喪主の挨拶もほぼ型どおりのものにした。今夜は妹2人が泊まってくれる。自分らは帰ることができた。
 19日は9時頃家を出た。生憎今日は雨である。どこにいても落ち着かない。どこにいても同じである。11時頃人が集まり始める。集まるメンバーは、昨夜と数人入れ替わるのみでほとんど同じである。11時半頃、お伽を頂く。午後1時、葬儀式の開始である。喪主として焼香をし、挨拶をする。今日は少し言葉を加えた。Yはよく甥や姪をかわいがった。よく遊んだ叔父さんを忘れないで欲しい、と言った。そしてこの死について、残念ではあるが、残された人に迷惑の少ない上手な人生の仕舞い方であった、と述べた。不謹慎かも知れないが、誰もが持った正直な気持ちであろう。大事故となってもおかしくない死に方だけに、考えるほどに本人にも残された人にも幸運であった。そして斎場へ。導かれるままに儀式を終える。葬儀場へ4時過ぎに戻り、初七日の法要を済ます。そしてお礼の食事である。皆を送り出した後、Y宅へお骨を戻し、帰ったのは8時過ぎていた。疲れたが、こうして一応の儀式は済ませた。


 さて、自分の住んでいない家1軒の後始末をしなければならない。最終的には売却して、財産分けまでしなけれならない。突然の死である。何も聞かされていないし、その準備もされていない。預金通帳は見つかったようだが、その印鑑もキャッシュカードの暗証番号も解らない。しかし、印鑑は何とか見つけ出し、当面必要なお金は引き出すことができた。自分が何か解約して一時立て替えねばと覚悟したが、これは助かった。葬儀場の費用は払えた。
 まずは役所の手続きである。21日、妻と市役所へ出かけた。まず市民課へ。そこでいろいろ聞き、各課を回る。今後必要になりそうな戸籍謄本なども取ってくる。檀那寺へ赴き謝礼を渡し、お墓参りをして帰宅する。自分も疲れたが、妻はもうクタクタである。
 普通のように予定は入れてある。こなせるものは順次こなして行かねばならない。また延ばしたものも処理しなければならない。羽根る会や一宮友歩会下見は予定通りこなした。久しぶり、グラウンドゴルフにも出かけた。そして25日、年金事務所へ出かけた。予約を入れておいたので、1時間ばかりで手続きは終わった。2月分の年金が貰えることになった。年金停止の手続きも大切である。死亡後も貰えば返さねばならないし、貰い続けて事件になることも報道されている。この日の午後には、損保会社が事故状況の聞き取りに来た。事故被害者への対応はどうなっているのだろう。こちらはこの車の乗り手はいない。売却である。車はもうディーラの手元に行っている。いつ手続きは終わり、下取り金はいつ払われるのだろう。家屋敷については相続手続きをし、名義を書き換えねばならない。そして売却である。高校の同級生がそんな仕事をしているので、先日頼んだ。


 相続申請をしなければならない程の財産はないし、相続人は3姉妹とはっきりしている。3人で話し合い、必要経費を差し引いた後、ある割合で分割することにした。私が分割協議書を作成した。これが一番難しいことが多いだろうが、今回の場合これは簡単であった。
 3月17日、忌明け法要を行った。亡くなってちょうど1ヶ月といういささか早い忌明け法要であったが、住職とこちらの都合でこのようになった。その日も午前9時半開始と早い時間であった。集まったのは6人、少人数にした。今後のことについても少し尋ねておいた。そして、1時間ほどで終了した。その後墓参りをし、会食をして別れた。
 ここまではある程度の流れである。流されるままにこなしていく部分も多かった。これからが本当の苦労の気がしてくる。もう春である。畑仕事も待っている。広げすぎた社会活動の予定も入っている。その合間を縫うように、後処理をしていかねばならない。最終処理までにはまだかなりの時間を要しよう。これ以降の話は別の機会としたい。
                               (平成31年4月12日)


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