zu115  丹羽郡十八日講  

 平成27年4月、私は我が村の組織のひとつである「西切り」と言う団体の代表に就いた。私の意思ではなく、輪番制の中の巡り合わせである。この西切りという組織の成り立ちも意義もよく分からないが、することは連綿と受け継がれている。任期は1年である。そしてこの代表に就くと、「丹羽郡十八日講」という組織にも所属することになる。
 よく分からないまま4月10日、十八日講の集まりに初参加した。隣村の寺院で、名古屋東別院の御華束作りである。周りを見ながら、手助けできることをした。この十八日講の代表者は帳元と言うが、以前からの知り合いである。その日の終わり頃になって帳元から話しかけられた。「貴君の村が1年任期ということは知っているが、貴君には個人的にその後も残って欲しい」と言うのである。いきなりそのようなことを言われても答えようがない。1年じっくり見ながら考えようと思う。そしてその後もできるだけ行事に参加した。またいろいろ話を聞いた。
 そして年度末、残るか去るか、返事をしなければならない。私が誘われる訳は分かった。皆さん高齢で、役員の引き受け手に苦労しているからである。残るということはいずれ役員を引き受ける覚悟が必要である。でも残ることにした。仏法に奉仕する団体である、悪いことではない。私の亡母は無類の仏法帰依者であった。これも縁であろう。母親の導き、母親への供養にもなろう。そして2年目に入っていき、今年もう4年目に入っている。昨年度から末端の役員も引き受けた。


 先日ふと十八日講について、ホームページの随想等に何も書いていないことに気がついた。ここらで一度まとめておいた方がいいと思って書き始めた次第である。4年目に入っても実はほとんど分かっていないのである。間違いだらけの文になろうが、そこは分かった時に修正していけばいい。インターネットで十八日講について調べても、全然と言っていいほどに見当たらない。ここにも書いてネットに掲載する意味はあるだろう。


 丹羽郡十八日講について、帳元から貰った資料を抜粋引用する。
・1768(明和5)年8月5日
 寺請制度を時代背景に、当時の丹羽郡(一宮市・岩倉市・江南市)の真宗寺院に対し、本山・名古屋別院・山科別院の維持運営の協力目的に、第十九世乗如上人より尾州丹羽郡・中島郡・葉栗郡10ヶ寺の二十五日講に御消息が下付される。(*消息=書簡、手紙)
・1823(文政6)年3月8日
 第二十世達如上人より丹羽郡26ヶ寺の二十日講に御消息が下付された。
・1920(大正9)年12月3日
 第二十三世彰如上人より尾張国丹羽郡光禅寺他34ヶ寺の丹羽郡十八日講に御消息が下付された。
・1960(昭和35)年 1月28日
 第二十四世現門主より名古屋教区四組丹羽郡十八日講に対し、伊勢湾台風後の災害復興及び念仏相続を促す御消息が下付された。
 これで少しその流れと目的が分かる。十八日講の元を探れば、分かっているだけでももう250年の歴史があるのである。そして目的とするところは、寺院維持への協力である。
 もう少しその資料から付け加えれば
・6月と8月を除いた毎月18日に郡示談を各地域で行う。
・別院へは1月の修正会の鏡餅、4月の総永代経の御華束、12月の報恩講の御華束を寄進。
 とあり、具体的に協力の仕方が分かる。

 十八日講の会員は、現在62名である。しかし、私より若い人は数名である。役員はここ数年で大きく変わった。どちらかというと長老で運営されていたものが、今は私のような新参者も参加するようになった。更に大きく変わろうとしているのは、法人化されることである。長年任意団体であったが、今年度末には一般社団法人として出発するのである。当分いろいろ混乱するだろうが、時代の流れであろう。曖昧のままが許されなくなったのである。


 主な年間行事を平成29年度事業報告から書き出してみながら、述べてみる。
 4月は永代経の御華束作りである。御華束(おけそく)とは、仏前に供える重ね餅のことである。餅を重ねて花のように飾る。担当役員でお米を買ってきて水に浸し、作る日の準備をする。そして、参加できる会員で御華束を作る。いつも参加者は35人程度で5時間くらいかかっている。翌日に別院へ献納し、永代経の行事が終われば引き下げに行く。これが12月にもある。また12月末にはお鏡餅作りもある。これも御華束と同じような工程を経て、引き下げは1月10日頃の新年会である。
 そして大きい行事は年8回の郡示談(ぐんじだん)である。さて郡示談なるものはいくら調べても見つからない。そして見つけたのが御示談である。「浄土真宗では説教が終わってから聴聞者が説法に対する理解を語り合い、自らの信仰を披瀝して質疑する機会が設けられるようになった。これを説法者の法談に対して聴衆者の示談といい、信者が自分の信心を確かめるために大切であったから、敬称を付けて御示談(ごじだん)と呼ばれた」と言う文を見つけた。そして、私流に解釈して丹羽郡で行う示談だから郡示談である。今年9月の郡示談で私が初めて担当責任者を務めたので、少し記してみる。昔は個人宅で行っていたようであるが、今は寺院を借りて行っている。行事の内容は、まず正信偈同朋奉賛の唱和、御消息の拝読、そして僧侶による法話である。担当者の主な仕事は参拝者への接待である。2回お茶とお菓子を出し、帰りにはお供え物を配布する。私は責任者として事前に必要なものを購入し、当日は協力をお願いした地元の人に指示をした。それ程のことではないが、無事やり終えてほっとした。このようなことを年8回、地域別に責任者を決めて行っている。
 ここまで書いて私が疑問に思ったことは、御示談とは「聴聞者が説法に対する理解を語り合い、自らの信仰を披瀝して質疑する」とある。実はこれがほとんど行われていないのである。説法者の法談で終わっているのである。あまり意味を問うこともなく、長い間に形式が変わってきたのであろうが、もう一度原点を振り返ることも必要ではなかろうか。
 その他、物故者追弔会、研修旅行、総会などがある。29年度事業報告には40回近い行事が挙げられており、帳元などの幹部はこの交渉準備などでどの位の時間を使っているのだろうか。想像するにゾッとする。
 東別院には見真会という会がある。東別院を支える地域別または目的別に組織された講や会を統括した会である。現在10団体が所属している。十八日講のように御華束やお鏡餅を作ったり、お花を立てたり、清掃をしたり、バザーや受付など、いろいろ役割を担っている。総会や初示談があり、交流も深めている。しかし、数年前には16団体あったという。この減りようが現状を語っていると思う。

 仏教、宗教とは何であるか。今や町内会でさえ、任意と言って入らない人が増えている時代である。宗教はこれこそ任意、個人の問題である。強制されるものは何もない。宗教とは心惹かれ、信じ、帰依するものであろう。仏教界はそのようになる働きかけをしているのであろうか。それだけの価値を示しているのだろうか。そのように努力をしていると言われる人もあろう。しかし、自信を持って言える人はどのくらいあるのだろう。檀家制度にあぐらをかいていることはないだろうか。葬式仏教と言われるようにお経だけあげ、それでお布施を貰っていることはないだろうか。あのお経にどれだけの人がありがたく思っているだろうか。私には苦痛であっても、とてもありがたいとは思えない。正信偈は意味を書いた教本もあるが、その他に至っては普通の人が理解を深められるものは何もない。疑問点を数え上げればきりがないほどある。


 私は今、檀那寺の檀家総代を務めている。1回3年任期の3回目、都合8年目である。この間の流れを見てきた。参拝者も奉仕者も減少の一途である。一番身近な檀那寺でさえそうである。そんな中減ったと言えども、見真会に10団体もあることが不思議であり、敬意さえ感じる。奇特な人達である。そう言う私が丹羽郡十八日講に所属しているのである。2年目から残らねばならない義務はどこにもなかった。西切り代表から残った人は誰もない。それでも残った。なぜだろう。今後のためにもここは冷静に見つめておいた方がいいだろう。まずは残って欲しいと乞われたことである。この要請がなかったら残らなかったのは確かだ。これが知り合いから頼まれた義理か、それとも乞われる心地よさであったろうか。いくつかの理由のひとつには入るかも知れないが、これが大きいとは思えない。1年所属して、魅力を感じたからか。まもなく会社も退職するので、新たな活動の場を求めたい。十八日講の活動に個人的利益は少ない。体よく言えば社会への奉仕である。その社会的有益性に魅力はある。また活動的な先輩方が多く、刺激にもなり、新たな活動の場として悪くない、と思ったのは事実だろう。親不孝をした母親への償い、また母親の導きだ、と思いたいという気持ちもあった。
 こうしていろいろ考えてきても、仏教に奉仕する、帰依するという言葉は出て来ない。私はこれまでも、また今でも、どちらかというと仏教界には批判的である。批判的ということは、何とかして欲しい、何とかならないかという気持ちの裏返しでもある。仏教界の人には、今までの習わしや既得権、保身に走らず、素直に、謙虚に振り返り、将来を見据えて欲しい。仏教界の人は人を導く人である。身を粉にして骨を砕きて、世の中のこと人のことを考えて欲しい。今のままでは人は離れ、世の中はますますさ迷うであろう。
                              (初稿 平成30年9月24日)



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