zu113  ある同人誌の廃刊

 冒頭に、先日(4月19日)ある同人誌の主宰者に送った手紙を紹介します。

    ***************************
 前略 全く唐突な話にびっくりしました。先日電話をした時、全く大儀そうに聞こえる声にもびっくりしました。余程体調が悪いのだと感じ取りました。そしてこの連絡に、さもありなんか、と推察する次第です。今は朗人となっていますが、学生時代から始めたというこの一連の活動は貴君の歴史そのものだったでしょう。その最終号となれば万感の思いではないでしょうか。その最終号に投稿しなかったのは悔やまれます。
 調べて見ましたら、私は昭和63年3月に最初の投稿をしています。それからでも30年です。本当に長い間、皆さんを引っ張ってこられたと思うと、全く敬服します。本当にご苦労さまでした。私はこうして書く機会を与えてもらったことは非常にありがたく、感謝致します。ただ一会員としての参加で、何の貢献もして来なかったことを申し訳なく思いますが、自分が参加するほとんどの会で何か役員をしてきた私には、これもありがたかったことです。
 そして体調の程度が分かりませんが、ともかく自愛に努められ、またできることはされることを望みます。例えば書くことも、誰に見せなくても可能なら続けられることを期待します。朗人の復活を願いながら、進められるのもありだと思います。(後略)
    ***************************


 私がこの同人誌を知ったのは昭和63年2月のことである。職場の同僚がB5版の15ページほどの冊子をめくっていたのを見かけた。手書きで湿式コピーのものである。ちゃちと言っても言い過ぎではない。「FLORE」とあり「文集第198号」ともある。こんなちゃちなもので198号ということが興味を引いた。どんないきさつのものか、説明をしてもらった。そして、すぐに入会を希望した。快く了承してもらい、第199号から私の投稿が始まった。湿式コピーができる薄手の紙に数枚手書きで文章を書き、手渡し又は郵送で主宰者のところに送る。書く内容に何の制限もない。送った文章がコピーされ、綴じられて送られてくる。毎回5、6名の投稿がある。勝手に読み、勝手な感想を持つ。それだけで、投稿文について何の評論も意見交換もない。
 時代の流れと共に、いつからか湿式コピーはゼロックスコピーとなり、B5版もA4版となった。多くは手書きからワープロ、パソコンとなっていった。毎月がいつからか隔月になった。インチキな文でも毎回投稿した。そしてこの「FLORE」は 平成13年7月号、第290号を持って廃刊となるのである。第290号にはこのホームページの付録に掲載している「電車の中の風景」を投稿している。更に「最終号にあたって」という文を投稿している。内容がここまでに書いた文と少しダブルが、この文を掲載します。

    ***************************
 今回が最終号と聞いて、少し感想と御礼を述べておきたいと思います。
 私がこの「フローラ」の会に入らせていただいたのは198号の冊子を見せてもらったことにあります。見せていただいてすぐに入会させていただき、昭和63年3月の199号から投稿させていただきました。その199号で「数字198に魅せられて」と題して、16年半という長期に渡って継続されていることに感動したことを書きました。それ以来13年半、本当に日記代わりのような内容のつたない文でしたが、ともかく休まないことを目標に92回にわたって書いてきました。
 私がこのフローラに書く以前は、文章としてまとめて書くことはほとんどありませんでした。このフローラに入れていただいて初めてその機会を持つことができました。いろいろな発展もあって本当に良かったと思っています。こうした機会を作ってくださった会員の皆さんに感謝申し上げます。特にこの会を作り、支え、毎回書いてこられたタメゴローさん、Rさんには感謝と共に敬意を表したいと思います。当初からだとちょうど30年になると思いますが、本当に素晴らしいことだと思います。ありがとうございました。
                               (平成13年6月23日)
    ***************************


 そして平成16年4月、「朗人」として復活するのです。A4版、隔月はもう同じです。その他も同じです。そして平成30年4月第85号を以て最終号となった。この間、メンバーは少し入れ替わりますが、6〜8名は概ね固定していた。
 最後まで主宰者のR氏は大学時代から始めたと言われる。大雑把に数えてもそのようになるので間違いなかろう。R氏は退職前から少し体調を崩され、一時期事務局をB氏に譲られたが、そのB氏も体調を崩され、再び事務局をされるようになった。ほぼ45年間、主宰者であり事務局を努められたのである。事務局は本人の文はもとより表紙絵、目次、そして少々のコメントを書かれる。大変な労である。私もいろいろしてきたのだが、こうして書いてみるとR氏に比べれば大したことがないことを知る。私に学生時代から続いているものはない。ただ敬服するだけである。

 ボクはこの会に入って書く機会を得た。そして、平成12年10月から「川柳&ウォーク」と題したホームページを開設した。川柳とウォーキングだけでなく、他の題材を掲載するために「付録」と言うページを設けた。そして、この会で書いたものをホームページでも掲載しようと、付録欄に掲載するようにした。その後「朗人」に書くことはこのホームページのためになってしまった。主客転倒した感じである。でも、張り合いはより増えた。今回で「朗人」が廃刊になると、ホームページの随想をどうするかという課題が生じてしまった。廃刊はこんなところにも影響している。今後も書いていくと思うが、2ヶ月に1度という義務があった。これから義務はない。定期的に書けるであろうか。人と繋がっていると、制約もあるがいろいろなメリットがあるのである。

 一般に家庭で文章を書く機会と言えば、日記くらいであろう。その他となるとかなり意識しなければその機会はない。私は文章を書くことは苦手であった。川柳を始めて少しずつ文章を書く機会ができ、苦手意識が少なくなっていった。更に日記を書くようになってからそれはかなり解消された。当初日記はいろいろな形式のものを使用していたが、昭和60年から3年連用日記にした。それからキチンと日課となった。そして数年後にFLOREに出合うのである。文章を書く生活を持つか、持たないかは大きな違いがある。証拠を以て示すことはできないが、文字を知ることはもとより、思考能力に影響し、考えを整理し、要領のよいまとめ方にも及ぶだろう。苦手であったものが、後には自信にさえなった。投稿文を頼まれた時にも、気安く引き受けられるようになった。ある業界紙に頼まれた時「これほど手を入れなくてもいい文は少ない」と言ってもらったこともある。随分得をした人生となった。これもFLOREに負うこと大である。

 さてこの会の会員はどんな人達であったろうか。会員は常時7、8人であり、私が入会して30年、この間に入退会した人は数人である。驚くほど少ない、と言えよう。それだけ安定固定していた。文の内容は小説、日々の出来事、また社会評論等様々であった。文章の優劣はあったろうが、誰も何も触れない。一人読み、一人感想を持つ。それだけである。それが居心地がよかったのであろう。ここで意見交換などしていたらこんな長命は保てなかったろう。長年やっていれば欲張りしたくなるところだが、それをしなかった、主宰者の賢明なる発想であったと思う。私は川柳連れ連れ草を主宰している。当初は添削し意見も伝えたが、まずいことに気がついた。しょせん素人の趣味、楽しく続けることがまず第一である。これで川柳連れ連れ草も先月で196号になった。さてここでできた友情はこの後どうなるのであろうか。私にはよく分からないが、廃刊、即、縁切りにはならないと思う。機会を作って集まることであろう。その時は私の出番かもしれない。先にも書いたが、私が係わった会ではほとんど何かの役員をしてきた。単なる会員だけど終えたものはこの朗人の他にあったろうか、と言うほどである。それだけにその時は働かねばと、密かに思うのである。
 主宰者の回復を祈りながらこの文をしたためた。
                                 (平成30年5月4日)


川柳&ウォーク