zu098 選 挙 顛 末 記
市会議員等公職の選挙にほとんど係わることなくこの歳まで来たのに、昨年から大きく係わることになってしまった。私にとっても大きな出来事であり、貴重な体験となったので、そのいきさつから終えるまでを記録の意味もあって少し記しておきたい。
1昨年の平成25年度当初に、私の地域から出ている市会議員が引退を表明した。私の地域は市域のはずれで、大きな声を出さないと市に要望は届かない。そんなことで長いこと地域推薦の市会議員を送っている。こうした進め方が良いか悪いかの議論はあろうが、後継者探しが始まった。その年、私は町会長であったので、後継者探しに係わった。本人が少しその気になってもほとんど家族の反対にあい、あきらめることになる。立候補は家族も大きく巻き込まれるのであるから、本人だけの問題では済まされない。特に配偶者は大変である。「どうぞお好きに、離婚します」と言われて終わりである。昨年9月に入って、私の親しい中学・高校の同級生(以下、H君と記す)が立候補してもいい、と言っていると伝わってきた。これ幸いと同級生3人で早速本人に確認したところ、「誰も出ないなら地域のために出てもいいよ」という返事である。私はこの年は町内会の顧問であったので、私から町内会の幹部に伝えることにした。この年の町内会幹部も選出に苦労していたので、早速に各地区の幹部に連絡が行った。各地区とは南部4町内、北部5町内である。私は南部に属し、H君は北部に属す。10月3日、南部4町内の幹部に呼ばれて、私はH君と出かけた。テストみたいなものである。いろいろ質問を受けた後、4町内はほぼ押す雰囲気と感じた。その後、北部にも連絡が行き、多少の紆余曲折はあるが、9町内全部が押すことに決まった。推薦状も寄せられた。
11月14日、H君自宅に後援会事務局を依頼された4人が集まった。南部北部の支部長とH君地元のS氏と私である。後継とは言うものの、前任者の組織はほとんど残っていず、また時代も変わってきていて、一から作り上げねばならない。私の親しい同級生の後援会であり、行きがかり上も私は何かせねばならないだろうとは思っていたが、事務局入りとなった。H君からは事務局長をと言われていたが、自信もなくこれは辞退し、南部支部長が事務局長(以下、M氏と記す)となった。後援会長も内諾を得ていたので、12月1日に後援会設立の申請をした。またこの日、印刷会社とも打ち合わせを行い、後援会入会案内や名刺等を依頼した。この印刷会社は妻の知り合いで、妻からも頼んでもらっておいた。この後はM氏を中心、先導で進むことになる。M氏から組織表が示された。選挙期と非選挙期に別れている。今回の場合、平成27年4月中が選挙期で、他は非選挙期である。選挙期の各町内会支部長は原則副町会長が当たることになる。今回の選挙のために本を読んだり、インターネットで調べたりした。現議員を訪問し指導も仰いだ。買収供応など明らかに違反の場合を除き、多くはグレーゾーンにあることを知る。そして、今まで常識として問題がないと思っていたことが、そうでないことも知った。しかしながら、12月に入って早々に選挙管理委員会から注意が入った。ある通知文に選挙のことが触れられていたようだ。誰かが通報したのである。それを知るのは狭い範囲の人であるはずだ。選挙の恐ろしさを知った。候補者はすべて一人一人であり、自分以外はすべてライバルであり敵である。一人でも多くを蹴落とさねばならない。新聞等でよく見るような中傷合戦にもなる訳である。それは身近な選挙ほど激しくなる。選挙を終えた今「選挙とは常識が通らぬ世界である」というのが実感である。
非選挙期は後援会活動だけである。各町内の支部長は毎年替わっていく。そこでM氏の案によると地元のS氏と私だけはズッと残ることになっている。すべて替わって知らない人ばかりでは大変である。誰かが残り、過去を知り、経験を引き継いでいけば対応はスムーズである。その役割が私と知った。所詮、私は今回で終わりではなく、彼の後援会がある限り、何らか携わらねばならないだろうと思っていた。特にその旨を伝えた訳ではないが、うまく考えたと思った。
12月半ばには後援会入会案内もでき、募集が始まった。ここまでは内々であったものが一挙に公になる。そしてM氏から次々と案が提案される。こういうことが好きと言うだけに、素早く感心する。年内には後援会長の他副会長3名、顧問等も決まり、年明けた1月10日に後援会の初会合を持った。私は同級生代表と紹介された。事務局案は大きな異論もなく承諾された。原則毎月10日に会合を持つことになった。11日には頼んであった後援会の立て看板もできてきた。早速に店先等に頼んで置いてもらう。私も孫とのウォークから帰って取り付け作業を手伝った。いよいよの気持ちが湧いてくる。
こうした選挙には地区も大きな役割を持つが、更に大きく期待するのは同級生である。近郊に住む中学同級生で臨時同窓会を開くことにした。2月15日開催の案内状を1月末に発送した。そして、2月15日には18名が集まった。いきさつを話し、支援をお願いした。
本によれば、またいろいろな人の話を聞いても、地方議員選挙はどぶ板選挙であるという。立派な公約や話だけでは当選できない。こまめに歩いてお願いする、それが一番効果があるという。私は自分が使っているものと同じ歩数計をH君にプレゼントした。ともかく頑張って欲しい。3月に入って私も彼と何回もお願いして歩いた。畑に人がいれば走ってあいさつに行く。汚れた手でも握手をする。H君を見ていると次第に身についてきたことを感じる。事前の選挙活動と思われることは厳禁である。言葉一つにも注意を要する。先に同窓会のことを書いたが、その案内に、後援会ができたことは書いたが、何のための後援会は書かなかった。これでは何のことか分からないという人がいた。主語がないから当然である。書いている本人も歯がゆいが書けないのである。何に立候補するからと書いたら事前選挙活動になるというのである。特に文書は残るから必要以上に気をつけねばならない。
3月7日に市選挙管理委員会の立候補予定者説明会が開かれた。H君とM氏と私で参加した。参加したのは53陣営であった。前回は40名の定員に対し50名の立候補補者であったが、今回から38名と2名減員となっていた。定員が減って立候補者が増えるのである。びっくりである。そして説明の内容にもびっくりである。自分の目からするとあまりに細かなことまで決めすぎである。選挙は往々に拡大、派手になる傾向がある。そこに歯止めをかけるのがこの規則であろうか。
選挙事務所はH君の兄さんが経営する料理教室の1階駐車場を活用することになった。駐車場は鉄骨の柱が立っているだけで壁はなく、全くの吹き抜けになっている。そこにパネルを張って事務所らしくするのである。その作業は同窓生が担うことになった。4月1日から作業に入った。幸いに同級生に本職の大工がいて、彼を中心に10人近くが作業をした。数日かかると思ったが2日間で終わってしまった。私は3日目に行くと伝えておいたが、もう終わったと連絡が入った。早々に同級生の力に感心した。同級生は特務班と位置づけられている。地区からの参加、協力がない部分や人手が足りないとき、緊急の時などに活動するのである。それの人員配置や指揮が私の主要な仕事である。事前に割り当てができる業務もあるが、多くは予定が立てられない。でもこれで全体の出来、不出来が左右されるのである。全くの裏方であるが、重要な役割である。
選挙期間は4月19日より25日までの1週間である。この1週間は仕上げのお祭りのようなものである。選挙運動はこの期間しかできないのに、実質はその前にあると言われる。4月に入るともう後半戦である。不可解なものである。後援会入会者数もつかめてくる。約4000人になっていた。この数字の期待できるのは一般に6掛けという。すると2400票になる。前回の最少当選者は2300票であった。前議員は2500票であった。前議員は6期も務めていて知名度もある。その後継と言っても知名度は全くない。目途はついたというものの、まだ十分ではない。選挙は水ものという、最後まで努力を怠ってはならない。
4月18日10時より地元の神社で祈願祭を行った。後援会幹部、選挙対策本部の幹部、事務局、そして同窓生などが参加した。同窓生は特務班として清掃などの準備に当たった。祈願祭を終えると事務所開きである。お茶で乾杯をし、健闘を誓い合った。
4月19日8時に、私ともう1人の事務局員で市役所に出かけた。立候補の受付である。もう沢山の人が来ている。8時半までに来た候補者は順番を籤で決められる。結果的に51人が8時半まで来ており、遅れてきた人は2人であった。そしてこの順番で書類の審査が始まり、七つ道具と言われる腕章等が渡される。書類は事前審査を受けており、ほとんど形式的である。この籤で決められた番号がポスター掲示板の位置になる。番号は23番となり中央部である。あまり目立たない位置である。それより最後の方が目につく。このことだけを思うと何も8時半に間に合うように出かける必要はない気がする。その後警察署にも寄る。街宣車の許可証をもらうためである。街宣車も事前に看板を取り付けた車を持ち込んで審査が済んでいる。そして急いで選挙事務所へ戻る。選挙事務所にはもう沢山の人が来ていた。朝方良かった天気も9時頃から雨が降り出した。多くの人が事務所の中に入っているのでごった返している。そして私たちの帰ってくるのを待って、10時から出陣式となった。テントを張り、傘をさしての出陣式である。始まる頃には230人くらいが集まった。後援会長の話から始まり、来賓が次々とあいさつをしていく。選挙を終え当選したばかりの新市長や県会議員も駆けつけ激励の言葉を放つ。新人候補にしては過分すぎるとも言えるものではなかろうか。私はダルマの持ち役として壇上に上がった。最後に候補者本人があいさつをし、街宣車に乗って出発となった。こうして1週間が始まった。
選挙運動時間は午前8時から午後8時までである。この間の受付、接待、街宣車の運転、マイクを持つ人などは毎日地区を変えて人が配されている。この時間外にすることがあればそれは特務班の仕事である。朝立ちと称して喫茶店や幼稚園など早くから人が来るところには、本人と付き添いが出かけてあいさつをすることにしていた。この付き添いは毎日同級生を割り振った。7時前に集合である。8時から8時の時間内でも、結構予定していた人が来なくて急拠同級生を振り当てた。これがかなりな頻度であった。選挙の全期間、ほぼ終日詰められる男性が10名程度確保できていた。女性も3名ばかり確保できていた。女性はもっぱら接待に当たった。人が一度に来て接待も時折人手不足に陥った。また接待の女性は早めに帰った。その時が活躍の場である。私は妻を同級生支援という名目で、全期間毎日夜8時まで詰めさせた。
今回の選挙で大きな特徴は、移動事務所を持ったことである。他地区の人の便宜を図って、本来の事務所を閉じて別の場所に開くのである。その場所にはその地区の公民館を利用した。紅白の幕、机、椅子、為書きという応援者の寄せ書き、花や茶菓子などかなりのものを移動するのである。それを3箇所に移動し、元に戻すので都合4晩、夜8時を過ぎてからの作業である。これも特務班の仕事であり、これにはかなりの苦労を覚悟をしていた。しかし、最初は2時間以上かかったが、要領が分かった後は1時間弱で終えられた。大工がいたことや2トン車を持っている人があって要領よく出来たことである。こうしたことに長けた人も揃っていた。同級生は本当によくやったし、これで一層輪が強くなったと思う。
選挙事務所は多くの人に来てもらって賑やかでなけねばならない。それで気勢も上がるし、支持も上がっていく。結果的に1日平均350人くらいの人が来た。移動事務所を持った効果も大きかったと思う。全期間、寂しいと思うことはほとんどなかった。選挙は祭と言うが本当にそうである。最終日の25日には決起集会を開いた。今度は好天であった。そして今度も新市長や県会議員が駆けつけてくれた。その他の来賓もあった。出陣式以上に盛大だった。日を経るに従って活気つくのはいい兆しである。
翌26日は投票日である。妻と早めに投票を済ませた。そして妻は午後から2時間くらい「投票にお出かけ下さい」という電話当番に当った。選管がやるような仕事であるが、どの陣営でもやっていることである。もう選挙期間ではないから「H君をよろしく」とは言えない。言えば選挙違反である。後援会名簿は最終には4500人くらいになっていた。投票に出かけてもらえば当選は確かである。投票率が問題だと思っていた。それだけにこの作戦も重要である。
そして、開票は午後9時からである。その頃選挙事務所に出かける。続々と人が集まってくる。開票所へは同級生2人が出かけていて、状況を連絡してくれることになっている。そして、11時頃連絡が来た。2800票当選確実である。自宅に待機していた本人に連絡し、事務所へ来てもらう。すぐに万歳三唱である。ダルマに目も入れられる。いろいろな人があいさつをする。最後に同級生全員が前に並び、私が代表してあいさつをする。昨年9月からのいきさつを少し話す。そして万歳三唱である。苦労が実った。帰宅したのは午前2時であった。
経緯を簡単に書いてきたが、実はこれほど簡単なことではないし、またきれい事でもない。途中にも少し書いたが、選挙は人を蹴落とし合うのである。選管からの注意は5回ほどあった。気がつかないことや中傷と思われることもあった。またにわかに集まった人と人が織りなすのである。陣営内での対立や不満、意思疎通に欠けたことなども大きなものがあった。思うことはまだまだ沢山ある。次回に向けてここらを整理し、改善案を作っておくのが自分の役目かと思う。H君が生き甲斐を与えてくれたと思って、二人三脚の気持ちでやっていこうと思う。
(平成27年6月24日) |
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