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なぜ長生きがよいのか

       

 “7月28日付朝刊に2010年の日本女性の平均寿命86.39歳で26年間連続世界一とあった。(中略)男性は79.64歳で09年の5位から4位に上がったとのこと。
 わたしがこの記事を読んでいると小学四年生の孫娘が「どうして女子は男子より寿命が長いの?」と聞いてきた。「女の人はこどもを産むため神様が丈夫で長持ちするようつくったんだよ」と答えたが、あまり納得した顔つきではなかった。
 つらつら思うに日本女性が世界一長寿なのは、こまめにはたらき、子育ての楽しみをもち、よく笑って朗らかに暮らしてきたからではないだろうか。市町村の事業や講演会に集まるのは大半が女性で、大いに笑って場を盛り上げる優しさと感性がある。女性はご近所付きあいをはじめ社会的なかかわりが豊かなことも長寿につながっているようだ。わたしの通うスポーツクラブでは初対面の女性が旧知のごとく打ちとけあって話し込む姿を目にする。トレーニングが終われば仲間といっしょにもりもり食べて免疫力を高める風景もある。お互いに不満や不安を吐きだし、慰めあい、励ましあってストレスを解消し、支えあうのが日本女性の平均寿命をのばす秘訣なのであろう。(中略)
 ただ、なぜ長生きがよいのか、という疑問も、時にわたしの頭にうかぶのだが。”(8月21日付け中日新聞)

 「中日新聞を読んで」という欄から作家で医師の篠田達明さんの文からです。ボクに言わせると、日本はまさに女性天国、女尊男卑の国です。その第一の証明がこの平均寿命です。人間の最も欲しいのは命です。この命の前に社会的地位や権力、お金は問題になりません。そして篠田さんが言われるように女性は人生を謳歌しています。仕事場以外、どこへ行っても女性ばかりです。これ以上何が欲しいのかと言いたい。男性はもっと考え直す必要があります。平均的に見て女性は10年位の未亡人時代があることになります。10年は長すぎるのではないでしょうか。いや、未亡人時代が最も愉しいと言われるのでしょうか、そうとするとこれも問題です。女性はつれあいをいかに元気で長生きさせるか、このことを重要視して欲しいものです。
 なぜ長生きがよいのか、ボクも考えてみようと書き始めてみましたが、短い文ではとても書けない問題ということが分かりました。でも考えてみたい問題です。日本人は少し長生きしすぎるようになったとボクは思っています。


      

 この文は私がホームページの日記「伝えたい話・残したい話」の平成23年9月5日「(第1495話)長寿の理由」として掲載したものです。少し皮肉った部分もあるが、かなり本音です。この文の続きとして「なぜ長生きがよいのか」を少し考がえてみたいと思います。一笑に付される考察になることは目に見えているが、一応試みてみます。
 私の知る限り、人間いくつになっても死にたくないし、少々不都合な体になっても生きていたいようだ。生き甲斐などを問題にするときは、まだ死に面していないときのことである。また、いつ死んでもいい、いやもう死にたい、と言っている人でも、では殺してあげようかと言えば、拒否されることがほとんどだと私は思っている。人間それほどに死にたくないのである。死にたくないとは生きていたいと言うことである。長生きすることはすべての人間の希望に沿うことだからいいことなのである。簡単な結論である。


 ところで、長生きがいいと言って、いつまで長生きすればいいのだろうか。80歳でいいと言っていた人も、80歳になれば90歳をめざし100歳をめざすのである。多分際限はなく答えは出ないのである。今の時代、このくらい生きて、病や老衰で命が果てることを知れば、仕方なく納得するのがせいぜいである。それでも死にたくないと言って泣き叫ぶ人もあろう。
 では、本人の希望では際限がないので、生物的に、社会的に何歳くらいまで生きるといいのだろうか。
 人類は何百万年と命を引き継いで今日がある。これだけ引き継いできた人類の生命を引き継がなくてもいい、という傲慢さは私にはない。人類を引きつないでいくのは命を与えられたものの大きな義務である。もちろん種々の理由で引き継げない人もあろうが、今はそのことに言及するところではない。この義務を果たすには、子供を産んで、その子供が自立するまで養うことである。我々の時代の多くの人は50歳までにこの義務を果たしている。
 社会的には、多くの日本の会社では60歳が定年であるので、その年齢まで働くのが一つの目途であろう。
 こう見ていくと、勤労という社会的義務を果たした60歳が現役の最終年である。生命の引き継ぎもそれ以前に終えていないと相当な困難を強いられる。その後は扶養される身である。扶養される身はありがたいが、子孫には負担である。金銭的には年金等社会的仕組みで、すぐに扶養ということにはならないだろうが、いずれやってくる。体も思うように動かなくなる。子孫に何年くらい負うのがいいのか、これが適当な寿命であろう。


 人間一生を子育てと勤労の義務だけで終えるのはいかにもはかない、趣味や娯楽を楽しむ期間が欲しい、というのももっともである。ではその期間は何年与えられるといいのだろう。ここでまた多いほどいいという欲望もあろうが、人に負担を与えることに多いほどいいということはない。これを私は10年と踏みたい。それ以上はバランスが欠けると思う。その後、数年の完全扶養期間があって、75歳前後の寿命がいいところではなかろうか。
 人間は60歳も過ぎると、体力知力、健康等人によって大きな差が出てくる。今は親が長生きしすぎて、子供の方が早く弱ってしまうケースも多い。孫が祖父母の面倒を看るというのは自然な流れではない。老いた子供が老いた親を介護するのも好ましいこととは思えない。退役して非生産的な30年は長すぎる。これはもう長生きし過ぎだ。これはもう円滑な継続ではない。これが「日本人は少し長生きしすぎるようになったとボクは思っています」と書いたゆえんである。

 何年が適当と思っても生命は自由になるものではない。健康に気をつけて、人の世話になる期間を短くし、命の果てるまで生きるのである。ピンピンコロリ、KKPというやつである。しかし、現代医療が生命を無理やり引き延ばしている気がする。先にも書いたように長生きしたいのは人間の欲望であり、その欲望に沿う医療は善であり、義務であると思われている。本当にそうだろうか。人間の知恵が行き過ぎてしまったということはなかろうか。最近の情報を見ていると、魂を持った人間が単なる細胞の集まりとして扱われていく気がしてしまう。
 世相もいろいろ変化していく。今の日本社会は晩婚化、少子化、高齢化社会である。子供も老人も社会で面倒を看るという方向に動いている。人の目を家庭内より外に向けさせてきたのだから、家庭で面倒を看るのは難しくなるのは当然だ。でも本当に皆それで幸せなのだろうか。家族の絆は強い、それがはるか昔から続いてきた。子供のためなら、親のためならどんな犠牲もいとわないのが人であった。それが無理のない自然ではなかろうか。今向かおうとしている社会は理性では分かっても自然に反し、それが不安定な心情となり、問題を起こしていると思う。ますますありたい社会から遠のいていく気がする。
 こんな大それた課題に私などが答えの出せるはずがない。思いつくままに記してきたが、反論があればあっさりとひっくり返る気もする。一つの考えるきっかけになればこの駄文も意味があろう。
                                 (平成23年10月22日)

川柳&ウォーク