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晩年の母を偲ぶ


 満95歳の誕生日を迎えてまもなくの平成22年6月28日に母が亡くなった。葬儀時の挨拶文を考えていて、母についてあまりに何も知らないことに驚いた。いつ結婚したのか、嫁ぐまでどんな生活をしていたのか、何も聞いていない。ただ聞いていたのは、祖母について若いときから法話(*仏教に関する話)を聞いて寺院等を回っていたくらいのことである。

 
私は戸籍上二男であるが、長男は私が生まれる前に亡くなっていたので実質長男であり、農家の跡継ぎである。私が生まれた後の母の生活は、見ていて大方分かっている。それは父に従ってただひたすら農作業に精を出す生活であった。それ以外に言いようがない。父は昭和55年頃、癌に侵されていたことが分かった。本人には知らされなかったが、私にはすぐに病院から連絡が来た。末期の癌と知らされて、私達夫婦はすぐに同居した。母は家事一切を妻に任せた。父は入退院を繰り返す。本業としての農業はあきらめ、母にも自由ができた。父の看病をしながら法話を聞きに行く日々になった。

 父は昭和57年1月に亡くなった。その後はひたすら法話を聞き、念仏一筋の生活になった。法話を聞く催しはほとんど毎日のようにどこかの寺院や在家で開催されている。曲がった腰で自転車に乗って出かけていく。時には自宅から10数キロの所まで出かけていたと聞いてびっくりしたものだ。午前と午後に法話を聞き、多くはその間に昼食もよばれてくる。集いに集まった人は皆友達、同朋(*仏道を修める仲間)である。自然親しくなり、菓子や飴のやりとりもある。いろいろな世間話もする。母は帰ってくると、嬉々として妻に1日の出来事を話す。妻は毎日その聞き役である。
 最近、行政やNPOが高齢者交流の場を作る努力をしているが、昔はこの法話を聞く場がその役割を果たしていたのである。それも人生のあり方、行く末への導き等の話を繰り返し繰り返し聞く高尚な場であり、日常生活の情報交換の場でもある。私は昨年末から檀家総代に選出され、こうした場に出かけることも度々となっている。そして、こういうことを実感しているのである。


 母は近郷では熱心な仏教信者、後生願い(*来世の極楽往生を願う人)として多くの人の知るところとなった。「南無阿弥陀仏」と「ありがとう」が口癖の日々になった。人生後半になって感謝の気持ちに満ち、生き生きとした母の生活に、妻と随分感心して話したものである。生活の仕方や考え方も全く違う世代が同居するのである。嫁と姑である。いろいろな軋轢があって当然である。それなりにはあったが、母のこの姿と妻の優し、賢さで波風は比較的少なかったと思う。


 そんな穏やかな生活が続きながらも次第に体力は衰え、自転車に乗るのが見ていても危なかしく、身近な人からいつまで乗せているのだ、という声が聞こえるほどになった。「自転車を取り上げられたら生き甲斐がなくなる」と言う母の言葉との狭間で悩む日々となった。そして平成9年11月、82歳の時にお説教の帰りにバイクとぶつかってけがをした。軽いけがにホッとすると共に、この程度のけがで済んだのは仏様のお導きとこの機会に自転車をあきらめてもらった。

 
数ヶ月たって母の様子がどうもおかしいことに気づく。平成10年4月、早速妻に病院へ連れていってもらった。あっさり老人性痴呆症と診断された。以前からかなり進んでいたが、元気さに隠れて現れなかったのである。自転車を取り上げたことによって生活に張りがなくなり、症状が発現したようである。
 現在とは比較にならないが、それでも有吉佐和子の小説「恍惚の人」以来、老人性痴呆症、つまりボケ老人についてかなり認識が深まっていた。私もそれなりの知識を得ていた。母は特に病もなく体は元気である。介護はどこまで続くか分からない。私は家庭だけで負える問題ではない、利用できるものは利用しよう、とすでにそんな考えをもっていた。
 介護認定が始まって受診してみると介護3である。近くの病院でデイケアが始まったという情報を得た。平成10年5月からデイケアを利用し始めた。最初は週1日から次第に利用する日数も増えていった。平成11年1月からは必要に応じてショートスティも利用するようにした。こちらも数ヶ月に数日から1ヶ月に10日くらいと次第に増えていった。
 申し込んでおいた介護老人保健施設に平成19年1月に入所できた。3ヶ月後の4月には特別養護老人ホームに移ることができた。これで家庭での介護は大きく軽減された。
 この10年近い間に、老人性痴呆症と言われる症状を一渡り見てきたと思う。被害妄想なことを人に言いふらす、食事はまだかと夜中に起こされる、下の処理の方は比較的早くからだめになった。家の中で糞を踏んで歩くこともあった。助かったのは徘徊が少なかったことであろうか。この間の妻の苦労は少々な言葉では書けない。家庭での介護はそろそろ限界かな、と思い始めたとき入所でき本当にホッとした。
 妻が大変だったのは自分の母親の面倒も大半負っていたことである。それも同時期のときがあった。2人が同じ施設の2階と3階に入っていたときもあった。妻の母は昨年8月に亡くなった。86歳であった。


 老人介護は介護をする人の人生を狂わすほどの事例も多々ある。介護のために仕事を辞める、ノイローゼになる、時には刑事事件になるような罪を犯すなど悲惨な事例もある。日々介護をしている人と時々見に来る親族間で意見の相違が生じ、険悪な関係になる話も多い。私も相談に乗るくらいでほとんど妻に任せていたので偉そうなことは言えないが、もっともっと老人介護の理解を深め、制度や施設が充実されないと、今後ますます悲惨な例が増えてくると思う。
 亡くなる1ヶ月ほど前に、もう今夜にもだめかも知れないと言われた時があった。すでに意識はかなり薄れた状態であったが、それでも死は突然来るものなのだという印象を持った。この1ヶ月の間に満95歳の誕生日を迎え、私達もいろいろ心構えや予定が立てられた。
 穏やかな死であった。病名はつけられたが、実質は老衰死である。人間は病気や事故で亡くなるのがほとんどである。老衰とは与えられた生体が衰弱し命が自然につきるのである。人間の死に方としてこれ以上はないのではなかろうか。勲章物である。私は告別式の挨拶で「勲章には縁がなかった母ですが、最後に最高の勲章を与えてもらった」という意味のことを言った。本当にそんな思いである。


 川柳連れ連れ草第103号(平成22年7月号)の中でもこの思いを題材にして句を書いた。ここにも記しておく。

             
 ・・・・・英人の20句抄 「老母死す」・・・・・
                  父死すまで働き者であった母
                  働いて働いて腰の角度など
       一筋に念仏世事は人任せ
        念仏の背に痴呆症見えてくる
         痴呆症進んで僕が分からない
                   今夜にも命つきると軽く言う
                  人の死を無造作に告げる聴診器
                 母逝きて命について考える
                    父母送り子の責任を終えた夏
                    人の死を追いかけている葬儀屋さん
                      九十五歳の顔を粧う納棺師
            老衰という死を讃え瞑想し
            合掌して浄土の道へ送り出す
                         葬儀終えゆっくり饅頭食べてみる
                          張りつめた気力が失せる葬儀後
                       長年の介護に疲れた妻の肩
                         介護から解放されて猛暑来る
                  梅雨明ける忌明けも近い蝉の声
                 束縛を解かれ新たな出発点
                蓄積した疲労を癒す旅に行こう

 人間は自分の思いで生まれてくるわけではないが、死ぬときも同じように思い通りになることは難しい。自殺は思い通りにできるかもしれないが、やむにやまれず自殺するのであり、自殺を思い通りにできる死とは言い難い。平均寿命が90歳近くなった。それはありがたいことであるが、しかしそれまで身体も精神も異常なく生きることは難しい。多くの人はピンピンコロリ(*元気に長生きし、病まずにコロリと死のうという意味。略してPPKとも言う。)が望みだろうが、そうはいかず、身は蝕まれ、精神は異常を来たしてまだ生きるのである。自尊心が保てなくなってもまだ死ねないのである。「死を迎える」何という難しい問題になったものであろうか。
 結婚し、子供2人にも恵まれ、その子供もひとかどの家庭を築き、労働という社会的義務も定年まで一応勤め上げ、親4人も無事看取った。これで人生の責任はほとんど終えた。後に残っている責任と言えば、妻が亡くなる数年前まで心身ともできるだけ健康に生き、少しでも迷惑が少なく死ぬことであろう。しかし、残された責任が最大に難しい気がする。
 この文は、晩年の母を偲びながら、長い間誠意を尽くした妻に感謝の意を込めてしたためた。

                              (平成22年10月12日)



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