私の職場では毎年4月に健康診断があり、(財)愛知健康増進財団で受診する。今年は4月27日に受診した。そして今年はオプションの腫瘍マーカー検査も受けた。
5月中旬に検査結果が届いた。ただ一つを除けば、ほぼ例年通りの結果であった。年相応に減るものは減り、増えるものは増えており、老化を感じざるを得ない。「日常生活に注意して経過を観察してください」という項目はいくつもあるが、「専門医の精密検査を受けてください」という項目は、先ほどの「ただ一つを除けば」のただ一つがあったのである。
それは、オプションで受けた腫瘍マーカー検査において、PSA値が正常範囲の4ng/ml以下を大きく越えて8ng/mlというものであった。この値は前立腺ガン又は前立腺肥大が疑われるのである。精密検査とその検査結果の報告が求められてきたので、早速に従うことにする。5月22日、近くの千秋病院へ行く。そして、再度PSA検査である。6月2日、その結果を聞きに行くとその値は更に高く、10ng/mlであった。医師は前立腺肥大ではこんな大きな値はないと言われる。となるとガンの疑いが大きいと言うことである。検査入院を勧められ、6月10日の入院予約をする。
実は5年前にこのPSA検査を受けているのである。その時は6を示し、千秋病院の再検査では4であった。この時にこの値についての注意事項とか、毎年検査を受けて観察をするようにといった指導があればそれに従っていたろうが、特になかったので無関心に過ぎてきてしまった。私にしては迂闊であった。もしガンと言うことにでもなれば、この迂闊さが悔やまれるだろう。ちなみにある資料に寄れば4〜10はグレーゾーンと言われ、ガンの確率は25〜30%とある。
6月10日、朝から入院する。前立腺の細胞を採ってきて検査(生検)をするのである。特に問題がなければ翌日午後には退院できる見込みである。検査前から点滴が始まり、尿は尿道に管を通して取る。生検は午後から始まり、6カ所の細胞を採る系統的生検と言われるもので30分ほどで終わった。特に問題が発症することもなく、翌日午後には退院できた。退院間際まで点滴は続き、きつい検査であった。こういう経験は初めてのことであり、もうこれだけで十分だという気持ちであった。
1週間後の6月17日、朝早々に結果を聞きに行った。この時聞く言葉によって、その後の生活は大きく変わる。待つ間は全く不安な時間であった。そして「すべて陰性です」という言葉にホッとする。今後の対応も聞き、すぐ自宅に電話を入れる。皆ホッとしたであろう。しかし、陰性と言ってもPSA値が高いのは事実であり、その原因が分かったわけではない。今後十分な注意が必要であろう。
今回の体験はこれだけである。しかし、この1ヶ月間、いろいろなことが頭をよぎった。人によってはそんな程度の体験かといわれるだろうが、私には最大の不安を引き起こす体験であった。過去入院したのは1度あり、それはもう20年以上も前のことである。椎間板ヘルニアの検査と休養で1週間入院した。その時も大変ではあったが、命に関わることではなかった。休養しているだけでかなり楽になった。ガンはいくら治療技術が進んだとは言え、もっとも恐い病気に変わりない。今回は幸いにも小さな体験で終わったが、これを大げさに捉え、今後に生かしていかなければもったいない。それにはまず文章にまとめることである。そのことによって、考えも記憶もはっきりする。
実は検査を受けるに当たって、PSA検査や前立腺ガンについてあまり調べなかった。何事も宿命と平静を装っていたが、本音は恐さであろう。文章にしようとすると改めて調べねばならない。後先が逆である。インターネットで調べていて検査にもいろいろあり、生検をする前の方法もあったようだ。私は何の疑いもなく医師の指示に従い、それで何の問題もなく終えられたからよかった。しかし、この態度では問題が生じた時に悔やむことになるだろう。今の時代、インターネットでかなりのことを知ることができる。知り、尋ね、納得して受けることが必要ではなかろうか。ガン治療となるとその方法からして更に複雑のようだ。労を惜しんではならない。
定期健康診断の結果から前立腺ガンの疑いを知り、生検によってその疑いがほとんどないことを知るまでの1ヶ月間、不安の中にあったのは事実である。相手はガンである。ガンと聞いた時から生活は一変する。死亡まで行かないにしても治療も費用も大変である。治療がうまくいったにしても体力はかなり落ち、元の生活に戻るのは難しい。深刻に悩んだつもりはないが、それでもいろいろな考えがよぎった。我が人生はどうだったのか・・・仕残したことはないのか・・・。
冷静に考えてみるに、私の人生は恵まれたものと言えても、不平不満不遇を言うものではない、これははっきり言えると思った。私の生まれ育ちからして一市井人、一凡人のレベル以上のものではない。そのレベル内ではもう社会的にも家庭的にも十分責任を果たした。人生の喜怒哀楽も享受した。もう60歳代半ばである。この先ある人生はそれをどこまで継続するかである。そして何かあった時、その時が終焉の始まりということであろう。これにも悔いはない。それだけに今死に向かうことにどれほどの問題があるだろうか、それほどに問題はないのであろうか。
考えていて一つだけ浮かんだ。それは妻に申し訳ないと言うことである。もう40年も連れ添った妻である。妻より長生きしていいとは思わないが、できれば妻の死の数年前までは生きていたい。今私が動けなくなったら、家事のこと、社会的なこと、妻に大変な苦労を強いるだろう。その上私の世話なども入ったらそれこそ大変だ。私の母は95歳でもういつ亡くなってもおかしくない老衰状態である。父はもう30年も前に亡くなった。母は30年1人で生きてきたのである。これがよかったのか、もう尋ねても何の返答は戻ってこないが、できれば妻にこうはさせたくない。できるだけ元気で妻の死の数年前まで生きる、これがこれからの最大の課題であろう。その他のことは付属、付録である。しかし、それがどこの時点か予想できないだけにかなり難しい課題である。人生そんなに楽に答えを与えてはくれない。
川柳連れ連れ草第102号(平成22年6月号)の中でもこの体験を題材にして句を書いた。ここにも記しておく。
・・・・・英人の20句抄「不安の中」・・・・・
今回の生体検査の結果が陽であったら、多分この文章は全く違ったものになっていただろう。我が人格からしてこれほど冷静に淡々と書けるとはとても思えない。そういうときのためにもこの文章を残しておく意味があるだろう。
(平成22年6月25日)
(追記)
6月28日の夕方、母の状態が急に不安定になったという連絡が、お世話になっている特別養護老人ホームから入った。妻らは亡くなる前に着いたが、私は間に合わなかった。ただ医師の死亡確認には立ち会えた。何か病名がつけられていたが、実質は老衰である。老衰というのは与えられた命を全うしたことである。母は内臓等特に悪いところはなかった。大半の人は事故や病気で亡くなり、生を全うして亡くなるのは意外に少ないであろう。自然に命つきるまで生き抜く老衰はある意味勲章ものではなかろうか。勲章など縁のなかった母が最後に大きな勲章を与えられた、私はそう思いたい。そう思って、私は葬儀の御礼挨拶でその旨を付け加えた。
(平成22年8月5日) |
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