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小笠原登を知る
 ・・・・それは新聞記事から始まった・・・


 一宮友歩会の例会計画は、新しい年の例会が始まるとすぐに次の年の計画が私の頭をよぎるようになる。平成22年3月に愛知県海部郡の甚目寺町、美和町、七宝町の3町が合併して、新しい市になることを報道等によって知っていた。それならその時期に合わせて、この3町を歩く例会をしようと早い時期から頭に描いていた。
 そんな中、平成21年6月14日の中日新聞に、甚目寺町の円周寺という寺が生家の小笠原登医師を紹介した記事が目にとまった。参考になるかもしれないと軽い気持ちで切り取っておいた。
 そして、頭に描いた通り、あま市となる3町を巡るウォークを平成22年4月例会に計画し、21年10月例会から公表した。
 平成21年11月14日に、この4月例会のコースリーダーをお願いしたM氏と第1回目の下見をすることにして、甚目寺観音で落ち合った。おおよそのコースは地図上ながら想定してあり、円周寺についてもだいたいの場所は目途をつけてきた。
 私には甚目寺町に古くからの親しい友人がいる。甚目寺観音に来て、なぜか急に彼に電話をしてみる気になった。ちょうど自宅にいて、観音寺まで出てきてくれた。円周寺を知らないかと尋ねたら、彼はその寺の檀家だという。そして、6月14日の新聞を見せたらよく知っていた。幼い頃登医師と遊んだ記憶もあるという。驚いた、何という偶然であろう。
 ここで、小笠原登医師を知ってもらうために、6月14日の新聞の一部を紹介しておきます。

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ハンセン病については本紙もこれまで多くの記事を伝えてきたが、中でも忘れられないのは愛知県海部郡甚目寺町出身の故小笠原登医師の逸事である。小笠原は京大医学部を卒業後、同大皮膚科の助教授を務めたが、らい菌は弱毒で、ハンセン病はきわめて感染しにくい病と気がついた。だが国はハンセン病の伝染性を過剰に危険視して1907年に「らい予防法」を制定、患者を強制的に隔離収容した。患者と家族は長らく差別と排除をうけ断種までさせられて苦しんだ。
 戦前、小笠原は「ハンセン病は治る」と、ただ1人隔離に反対したため、常識に反する異端者と指弾されて孤立する。それでもカルテの病名欄を空白や別病名にして患者の人権を守り、戦後も患者と共に隔離政策反対運動を重ねた。 70年に83歳で亡くなったが意志をついだ人たちの粘り強い隔離反対運動によって96年に「らい予防法」は廃止された。患者の賠償訴訟で国側敗訴が確定したのは2001年だった。
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 円周寺は甚目寺観音のすぐ近くである。状況によってはコースに取り入れたい旨を話し、彼の案内ですぐに円周寺を訪ねた。訪ねた時、住職さんは留守で、家人の方と話をしていると帰ってみえた。そして登医師について話でもしていただけるなら立ち寄りたい旨を話した。考えてみると言われたので、気持ちよく辞した。
 そして後日、友人を通して了解した旨の回答を頂き、資料を用意したいので何部用意すればよいのかという話もあった。ウォークに参加してハンセン病の話を聞くことになるとは、何か楽しくなってくる。
 平成22年1月7日の中日新聞の記事がまた目にとまった。登医師の話が出ているのである。今度の記事は、登医師の偉業を伝えるために劇が企画され、今本番を前に熱を帯びた練習が行われている、というものであった。その記事の一部も紹介します。

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 劇は甚目寺町職員らでつくる町人権教育調査研究委員会が主催。町内の中学生2人が、国立ハンセン病資料館の名誉館長大谷藤郎さん(85)を訪ねて、小笠原医師の生き方を教わるストーリーとなっている。
 ハンセン病とされた娘が母親から強引に引き離されて療養所に入所させられる場面や、小笠原医師が患者に「大丈夫。治療すれば治ります」と優しく語りかける様子などを描いている。
 公募で集まった出演者16人のうち、大谷さんを訪ねる生徒役は甚目寺中2年の大角晃代さんと脇島春香さんが務める。
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 私は早速この演劇開催の案内を、インターネットのメールで一宮友歩会参加者に知らせた。そして、1月17日、私は妻と共に甚目寺中央公民館に出かけた。私のメールで知った人が数人は来ていた。会場は9割方埋まる盛況であった。翌18日の新聞によれば600人となっていた。題目は「空白のカルテ」である。それは登医師が患者さんがハンセン病と知れるのを防ぐためにカルテの病名欄を空白にしたことに寄る。この劇の中で、ハンセン病とその歴史、患者に対する政府の強制隔離、それに抗する登医師の生涯が語られていった。この劇でかなりのことが理解できた。
 そうして迎えた4月例会である。平成22年4月10日(土)に「一宮友歩会第25回例会ー史跡巡りシリーズ・西尾張編part7」として開催した。名鉄甚目寺駅より歩いて数分の甚目寺観音に9時集合である。好天である。しかし、この月の例会は毎年いろいろな催し物が重なり、参加者が少ないのである。地図等配布するものをいつもより少ない70部を用意していった。集まり具合を見ていると結構好調である。新しい人や久しぶりの人の顔もある。最終的には65名の参加であった。もう少しでコピーをとりにコンビニに走らねばならないところであった。
 まず観音寺境内でいつものように出発式である。私のあいさつ、コースリーダーによるコース説明、準備運動などをして9時20分出発である。そして、出発して5分も歩けば円周寺である。お二人の方に出迎えられ、資料を頂きながら本堂に全員が上がる。本堂がほぼいっぱいである。そして住職さんからの話である。話を聞いていて、この寺がハンセン病に係わったのは登医師に始まったことではなく、その何代も前から係わりがあったことを知る。そういう経緯があって登医師がハンセン病の感染力の弱さを実感されていた。そして、研究を進められ、知られるような成果につながっていったのである。環境と能力、人柄がつながったのである。話は20分程度でお願いしたが、熱が入り30分近くになった。皆静かに熱心に聞いた。登医師に関する本を買い求める人もいた。ゆっくりしたいところだが、先に行かねばならない。お礼を言って寺を出るときには10時になっていた。

 ここまで記してきたように、いろいろな出来事がつながってこういう結果になったのである。まず、あま市内のウォーク例会が私の頭に描かれ、その後に新聞記事の甚目寺という文字に目が留まった、これが第一因だ。この逆に、新聞記事が先であったら、まず今の私の頭に円周寺は残っていなかったろう。円周寺は地元の方やハンセン病関係者以外には、それほど知られた寺ではないと思う。甚目寺の案内などにも特に記されていない。では1月7日の記事ではどうだったろうか。しかし、この時点ではコースがほぼ決まっていた。もう私の意思だけの段階を過ぎているので、この記事だけでコースを変えるほどに私の気持ちが動くことはまずなかったろう。次の因子は、知人がよく円周寺を知っていたことである。知っていたどころか、檀家であった。おかげで話はとんとん拍子に進んだ。それにしてもよく私があそこで電話をかける気になったものである。本当はもっと早く電話をすべきところだったが、こういうのを虫の知らせというのだろうか。間一髪であった。これが計り知れない人生の妙味である。
 今日の参加者は、ウォーキングの会に出かけてハンセン病の話を聞くことにびっくりされたろう。この日はその後も菊泉院で福島政則公の話を、美和歴史民俗資料館ではこの地方の歴史や地勢の話を、七宝焼アートビレッジでは制作現場を説明付きで見学した。ただ歩くだけではなく、こうした説明の機会をできるだけ設けるように心がけているが、何のバックアップもない小さな小さな一市民団体である。一例会でこれほど多くの協力を仰ぐことはまず少ない。幸運な例会であった。私には一大事業を成し遂げたような大きな満足感が漂う。
                                (平成22年4月24日)


川柳&ウォーク