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「 元 気 く ん 」
・・・・川柳で綴る昭和30年前後・・・・
*********************** 本紙サンデー版に連載されていた人気漫画「元気くん」が昨年末で終了しました。開始から25年7ヵ月の長期でしたが、毎回欠かさず読んでおりました。 「元気くん」の設定は昭和30年代ですが、私も当時は中学生でした。戦後の混乱を克服し、高度成長へと向かった時代で、家庭ではテレビ、洗濯機、扇風機などの家電製品が普及し、誰もが「日本は豊かになるんだ」という希望に燃えていました。 当時の子どもの遊びは原っぱでの野球、路上でのベーゴマ、メンコ、ビー玉、森でのセミとり、ターザンごっこなど野外が中心で「元気くん」でもその様子が描かれていました。 そんな懐かしい自分の子ども時代と重なったサンデー版の「元気くん」を、毎週読むのが楽しみでした。今回の終了は残念ですが、作者の北見けんいちさんには心からご苦労さまと申し上げたい。 いつの世でも、子どもには、元気くんのような素直な気持ちと、年長者を敬う心を持ってもらいたいものです。 *********************** 上記の文は平成21年1月13日の中日新聞朝刊に掲載された愛知県春日井市の浜野さん(男・66)の投稿文です。この「元気くん」という漫画は、ほとんど漫画を読まない私も、いつからかは定かでないが、毎週楽しみに読んでいた。それが昨年12月28日版を見て驚いた。パート4・347回最終回とある。ついに最終回であるのか、もう読めないと思うと本当に寂しい気分になった。そして、寂しい気分になったのにはもう一つ理由がある。 私の家から150mほど離れたところに長女家族が住んでおり、小学2年生の男の子がいる。私にとっては孫である(以下、「T」とする)。Tは近いところなので、週に何回となくわが家にやってくる。昨年の春頃から妻が中日新聞サンデー版に掲載されている数独に凝り始めた。サンデー版が何週分もテーブルの上に積み重ねられる。そして、片づける時にこの「元気くん」を切り取りTに渡した。妻も楽しみに読んでおり、Tにも良かろうと思ったのであろう。ちなみに長女の家は中日新聞ではなく、他紙を購読している。 もらったTは私が感心するほど上手にそれらを綴じた。以後、Tからわが家に取りに来るようになった。理解できるだろうかと思いながら、ときおり私が読んで説明した。最近ではよほど楽しみになったらしく、日曜日の朝9時位にはやってきて、自分で切り取っていた。私が妻に「早く読まないと切り取って持っていかれるぞ」と言わねばならぬほどになっていた。小学2年の子供にも何か感じる漫画であったのだ。それが突然に終わってしまった。Tとの交流が数ヶ月で終わってしまったのは実に残念である。 この文は、Tが綴じておいた昨年8月の第328回から最終回の第347回を見ながら書いている。投稿された浜野さんは66歳、私よりほんの少し年上だけである。昭和30年代は私も中学生である。元気くんは小学校高学年である。私は農家育ちだが、元気くんは父親が工場勤務である。この違いはあるが、懐かしく思い出せるし、よく理解できる。作者の北見けんいち氏とそのスタッフは、実によく調べ描かれている。物語はよき時代を彷彿させ、現代の失われたものを実感させてくれる。最初の頃はどのような展開の仕方か覚えていないが、最近は元気くんが小学生の子供を持つ親になり、現在がまず語られる。そして、元気くんの小学生時代にタイムスリップして当時が展開される。こうして現代と昭和30年代の相違が、読者にはよく理解できるようになっている。 それでは、北見けんいち氏の「元気くん」を見ながら、私の元気くん(昭和30年前後)を川柳で綴ってみる。 ◎その昔子どもは外で遊んでた 元気くんのほぼ全編はこれである。外で元気に遊びほうけるのが当時のほとんどの子どもである。家の中ではテレビもないし、ゲーム機もない当時、精々ラジオを聞くか本を読む位であった。今の子どもを見ると、こんな句ができてしまうのである。 ◎昆虫が災難にあう夏休み 昆虫にとって夏休みは最大の危機である。夏休みの子どもにとって虫取りは、川での水泳と共に、最大の楽しみである。追っかけられ、捕らえられ、果ては夏休みの宿題の昆虫標本にされてしまう。 ◎賞品をめざして走った徒競走 走るのが得意な子どもにとって運動会は最大の行事であった。1等、2等、3等と順位がつき、賞品も違う。力の入れた方が違ってくる。更に村別対抗リレーに選ばれる子どもにもなると、親も鼻高々である。このリレーでいい成績を取ると村からも賞品が出た。こういう差別はよくないと、いつからか無くなったようだ。無くなると共に、いろいろ元気がなくなった気がする。 ◎新聞を配る友が持つこづかい 当時は小学生で新聞配達をする人も珍しくなかった。私の同級生にもあり、豊かなこづかいを使っていた。こづかいなど全く縁のない私には羨ましく、親に内緒で新聞配達を申し込んだ。翌日から始めるという時になって、父親が知るところとなり断ってきてしまった。私の義弟も小学生時代から新聞配達をしていたという。 ◎少年の腹を満たしたサツマイモ 農家の子どもに買ってきたおやつなど無い。家で採れるもので腹を満たすのである。その代表がサツマイモである。ふかし芋にする。時には竈(くど)にサツマイモを放り込んで焼きいもにする。美味しいが、表面が炭になってしまう。せんべい芋も作っていた。サツマイモをふかし、薄く切って天日に干す。保存食である。 ◎サトウキビ噛んで鍛えた歯が並ぶ おやつでサツマイモの次に思い出すのがサトウキビである。まずサトウキビの皮を口で剥がす。日本サトウキビは皮が鋭く、剥がす時によく手を切ったものである。台湾サトウキビは太いが節間が短く苦労した。剥がしたものを噛んで甘い汁を吸う。味が無くなると吐き捨てる。これでは歯や歯茎が丈夫にならないわけがない。おかげで私の歯は未だ健在だ。軟らかい食べ物ばかりになった今では考えられない。 ◎蚊帳の中入って夢見る別世界 蚊が飛ぶ頃になれば、蚊帳なしでは寝られない。四隅を吊った蚊帳の中に、素早く入り込む。入り込むと何か別世界に行った感じである。気持ちも新たになる。ここで夢見る世界はどんなものだったろう。まもなく蚊帳など知らない世代ばかりになる。 ◎寒くなってベーゴマメンコ出番待つ 元気くんはベーゴマやメンコの名人である。メンコは私たちはショーヤといっていた。かなりの年まで、メンコといわれても何のことか分からなかった。そして、これらは冬になると盛んになった。なぜこれらが冬の遊びだったのだろうか。良い気候の頃は別の遊びがたくさんあったからだろうか。 ◎紙芝居木立に隠れ耳すます 紙芝居屋さんが来るのはテレビのない時代、子どもには大きな楽しみであった。しかし、堂々と間近で見るには水飴などを買う小遣いがいる。小遣いのない子らは遠巻きにするしかない。私も遠巻き組であった。 ◎ハイカラな家に出かけて見るテレビ 私にテレビが見られるようになったのは小学5年の頃だったと思う。村に町から人が越してきた。その家に小学低学年の子どもがあり、テレビがあった。招かれてテレビを見た。その後ときおり伺ってテレビを見た。「名犬ラッシー」や「アニーよ銃を取れ」などを見た記憶である。テレビが大きく普及したのは、昭和34年の皇太子(現天皇)結婚式を見るためであった。わが家にテレビが入ったのは更に遅れて、東京オリンピックの時だった。 北見けんいち氏の思いを「元気くん」の最終回から紹介したい。 “25年前、「元気くん」を描かせていただくことになったとき、私の子どもたちは10歳前後でありました。そこで私は自分の少年時代、戦後日本の・・・、庶民の、特に子どもの生活を描き残したいと思いました。 日本は昭和20年に終戦、多くの都市が一面焼け野原になりました。そして今は後期高齢者と呼ばれている人々の頑張りで、現代のような近代都市になりました。日本には昔、年上を敬う文化があった・・・あったという過去形で言うことは悲しい思いがします。”と書きながら、 ・子どもは大人の人に席を譲る。 ・お米を作ってくれる人に感謝しながらご飯をいただく。 ・家族のために働く親に感謝する。 といった漫画を最後に描いている。そして、現代社会を憂いながら「大企業も政治家ももっと国民のことを第一に考えてください」と結んでいる。 北見氏がどこかに過去を懐かしみ、よき時代であったと思っている節を感じる。人間過ぎた過去を賞賛しがちであるが、特に昨今の殺伐とした不安定な日本を見ると、そう思っても当然の気がする。 私の家には「図説・団塊の世代史」(木村章一・著)という本がある。昭和22年から昭和40年頃までの社会事情を、絵を中心に紹介したものである。元気くんとダブルものがある。「元気くん」の1305回は、図説の絵ひとつずつをテーマに漫画にした感じである。そして私にも全く懐かしく思い出す時代である。しかし、多くの人にとって現代の方が比較にならない豊かさ、便利さである。良い時代である。でも、これからの人に、時代に何か危うさを感じる。それが私の杞憂で終わればいいのだが・・・・。 (平成21年2月16日) |