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「第二の人生」の心得

 2008年1月3日の中日新聞に次のような投稿文が掲載されていた。そして、1月15日のホームページ「川柳&ウォーク」に「(話・話 第879話)老いの心がけ」として紹介した。
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 【今年の4月で66歳になる。気力と体力、共に衰えを感じずにはいられない年代である。65歳を過ぎるころから急速に衰えだすということをよく耳にする。私も老化防止のためにいろいろと試みているが、少しやり過ぎると疲れが出てしまう。だから老化防止という意地など張らず、今年は老いを素直に受け止めることにした。サラリーマンという狭い世界から広大な第二の人生に踏み出しているが、知らないことばかりである。子供のような好奇心で次のことを心掛け、老いの喜び探しをしたいと思う。
 @健康第一、笑顔一番の毎日 Aおしゃれをして外出する B一期一会の縁を大切にする C若者は時代の師と仰ぐ D万物に感謝、生命に合掌して生きる
 第二の人生という堅苦しいことでなく、気楽に楽しく、年寄りは年寄りらしく生きることだと思う。】(1月3日付け中日新聞)

 亀山市の岩谷さん(男・65)の投稿文です。似たようなテーマをもう何度も扱ってきた。文として読むといずれももっともである。しかし、全く逆の意見もあり・・・・見方ひとつでどちらが良いとも取れる・・・難しい。
 例えば、老いを意識して慎重にしたり、心静かにした方がいいのか、いや、老いなど意識せず、意欲を持って活動した方がいいのか・・・、気楽に楽しくか、好奇心を持って頑張るのか・・・。どちらを取っても良い方にも転がるし、悪い方にも転がる。結果を見て人は言う、しかし本人は両方はできない。
 さてどうするか・・・今まで掲載したこの種の文をもう一度読み返し、今こそ自分にあった選択をしなければならない。
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 第二の人生とは、社会や家庭の責任をおおむね果たし、義務や束縛の少ない人生と定義できようか。人間にとって束縛がない、自由というのは実に痛快、楽しいはずであるが、実際はなかなかそういかない。特に束縛されながら働くことに終始してきた人間には、自由というのに慣れていなし、時には苦痛とさえなる。これが「(zu048)退職した男性」の話になる。その上、体の方は加齢によりいろいろ不自由が生じてくる。望むと望まないとに関わらず、長寿命になって多くの人々に老後の生き方が重要になる。いろいろな意見が交わされ、私自身がその身であることもあって「話・話」で取り上げることが多くなっている。先に紹介した第879話の他に「話・話」で取り上げた数話を紹介する。
  (注)【 】内は引用文、 (2004,11,11)(例)はHP「話・話」掲載年月日

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(第111話) 自立した老人 (2004,11,11)
 今や、元気な老人の代表として著名な聖路加国際病院・日野原重明理事長のインタービュー記事が、11月2に付け読売新聞に出ていた。
 【「自立した老人」を増やすことが必要だと考え、「新老人の会」を提唱し、設立に取り組みました。老人の定義が決まったときの平均寿命は68歳、現在は82歳。だから、10年底上げして75歳以上を新老人とした。
 健康維持には、20歳から33歳の時の体重が年を取ったときのベスト体重なので、その体重を保つこと。老人は低カロリーの摂取を心がけること。そして、老人に強調したいことは、「愛する」ことが大切であり、困難に「耐える」ことであり、取り組んだことのない新しいことに挑戦して「創る」の三つです。それと、運動をしていない人は運動をする、社会活動に参加するといった自分の環境を変えることが大切です。】(要約)

 このページを読んでいただいている多くの人は、多分私に近い年齢と思ってこのような話を多く紹介している。「愛する」「耐える」「創る」は若い人こそ大切なことであり、それを老人にも要求するとは、さすが日野原理事長といわざるを得ない。
 それなのに私の住む村では60歳から老人会に入らねばならない。私にとってはもう近々である。私が老人会とは・・・・・本当に腹立たしく思っている。この新老人の会のように75歳とはいわないが、せめて年金が出る65歳にはして欲しいものだ。

(第122話) 年輪力 (2004,11,23)
 【過去の経験を糧にして、ふっとわき出てくる発想とかひらめきなどは、高齢者になるほど誇れる能力であろう。私はこの能力を「年輪力」と名付けて、ここ20余年、あちこちの講演や書き物で発表している。年輪力と名付けるきっかけを作ってくださったのは、ロケット博士と呼ばれた糸川英夫先生であった。
 「人間は年ごとに老化していく動物だが、何かを企画するときは、過去に戻って反省したり、記憶を反芻したりする。そのことによってイメージが膨らみ、老いても創造的な仕事ができるもんだ。『逆もまた真なり』も、そんな時にひらめいてくるもんだ・・・・」】(11月14日付け読売新聞)

 これは新宿高野社長室長・天野秀二氏の文である。天野氏は数え年90歳の現役であり、「ゆびあみ」を提案しブームを沸き起こしている。
 
(第176話) 「団塊」60歳代 (2005,1,21)
 【「団塊の世代退職で日本の経済と企業経営に深刻な影響を与える」という官僚的予測は、すべての仕組みを不変と断定し、中身の数字をいじくって将来をはじき出す手法で、大抵はずれる。とくに団塊の世代に関する官僚や「識者」の予測はみごとなほどにはずれてきた。
 2007年問題も官僚的予測ははずれるだろう。団塊の世代は、60歳代になって働き続け、新しい産業と文化を興すに違いない。経験と体力とやる気のある優良な勤労者だ。多くは住宅ローンや子女教育の負担をすませ、退職金や年金に恵まれる。老親の介護が終わり相続財産を得る人も珍しくあるまい。つまり、人生でもっとも恵まれた時期を迎える。たとえ給与は低くとも好みの仕事と勤労形態を選ぶ、これをどれだけ上手に活用するかで企業の盛衰も決まるだろう。】(1月6日付け読売新聞)

 「官僚や識者の予測ははずれる」と言う堺屋氏の予測は是非当たってほしいところだ。氏の言われるように、私も「給与は低くとも好みの仕事と勤労形態」を選びたい。

(第509話) ボケ防止十訓 (2006,1,7)
 人間終焉に近づいて心配事がいろいろあろうが、その中でも大きいのはボケであろう。そのため全国のボケ封じ観音はおおはやり、これは山口県の「ボケ封じ観音」の話である。
 【老僧の「ボケ封じ十訓」のお話を思い出しながらご紹介します。
 @適度に運動してストレスをためぬ A家庭でなくてはならない人になる B手足を動かし老化を防ぐ C草取りや編み物など手を使う D赤、ピンクなどの服を着て気を若く E心にゆとりを持つ F頭を使う G暴飲暴食をしない H質素を心がける I規則正しい生活をする】(12月28日付け毎日新聞)

 太宰府市の武富さん(77)の投稿文。この手の話はこの「話・話」の中でもいろいろ触れてきているが、まあ、何度でもいいだろう。常に意識していることが大切であるのだから。それにこの内容は何もボケ防止ばかりではない、老いも若きも一生の必要事項だ。

(第512話) 今を受け入れる (2006,1,10)
 最近は年賀状の代わりにeメールの挨拶状も多くなった。いろいろあっていいからこれを批判するつもりはない。現に、ボクはこの「話・話」を書く中で知った年末状にeメールを利用している。ところで、今年頂いたeメールの挨拶状で、今年定年のボクに応援歌のつもりだといって、「閑のある生き方」(中野孝次著夫)の中から一部抜粋して送ってくれた人がいる。そのまた一部を抜粋して紹介する。
 【過ぎたことは過ぎたこと、いまさら若くて元気だった時をなつかしんだり、壮年の時の失われたのを歎いても意味はないのだ。今を受け入れねばならない。今を受け入れる心さえあれば、老年はそれ自体なんと心ゆたかなたのしい時であるのか。何をしてもよく、何をしないでも誰かに非難されることはない。自分の好きなことに一日中熱中していられるくらい幸福なことがあろうか。既に社会に対する務めと義務は果たした。今は自分という者一個のために生きるべき時だ。生きることを許されている時だ。この大きな恩恵にくらべたら、身体が衰えたこととか、収入が減ったことなど何であろう。”
 定年とは、社会に対する努めと義務を果たしたことの勲章なのだ。これからの過ごし方は努めでも義務でもない、心の赴くままに行動すればいいのだ。そのことを忘れないようにしよう。逆に言えば、やっていることはすべて自分の好きでやっているのだ。不満や愚痴はよそう。今を受け入れるのだ。
 そして定年を過ぎた人ばかりではなく、誰もが知っておかねばならない言葉も引用しておこう。
 “われわれは生れてきた順に死へと呼びだされるのではない、死の来るのは若者でも壮年でも老年でも変りはない。】

 こうした長文の挨拶状はeメールなればこそである。応援歌とは嬉しい気遣いではないか。

(第533話) いまが一番若い (2006,2,7)
 【「若い」っていいなあと心から思います。成人のころ、毎日が日曜日のようで嫌でした。だらだらと時間を過ごしていたようで・・・・。でも、後悔はありません。そんな記憶があるからこそ「いま」を大切にしたい気持ちが強いのだし、人生に無駄はないと考えるからです。”
 私には、今でも夢があります。かなうかどうか分かりませんが「いまが一番若い」と思っていますから頑張れます。今日の私は明日の私よりも確実に若いのですから。】(1月28日付け毎日新聞)

 津島市の公務員・友松さん(男・53)の投稿文。この短い文の中から「若いっていい」「人生に無駄はない」「いまが一番若い」と言うキーワードが取り出せる。ボクには、若いっていいかは一概に言えないと思うが、後の2つは、実に教えられる。人生に紆余曲折、良いときも悪いときもあるが、どんなことも後の活用に仕方で生かされる。友松さんは、無駄と思った時間があって、いまを大切にしたい気持ちが生まれた、と言われる。
 過去のことをいくら思っても仕方がない、問題はこれからである。そう思えばいまが一番若いのである。人間なんて、感じ方、捉え方で気持ちはころころ変わる。何ごともポジティブに・・・積極的、肯定的に捉えたいものだ。

(第716話) 三しない (2007,1,23)
 本年100歳を迎えられる「南無の会」会長の松原泰道さんの文が、1月7日付けの中日新聞に掲載されていた。その中からほんの一部を紹介します。
 【私は、師父の教えに従って、「無理をしない・無駄をしない・無精をしない」の″三しない″を守るように努めています。
 無理をしない、はいわゆる年寄りの冷や水をいうのではありません。老いるととかく自我が強くなり、道理を無視しがちなのを自戒するのです。無駄をしない、は老人には労働力も生産力もないから浪費や物をそまつにしないようにすることです。無精をしない、は年寄りは身体を動かすのがおっくうになるから、つとめて自分で出来ることは自分ですることです。
 私の健康法とて別にありません。ただ出来るだけ規則正しい生活をするようにしていますが、それも規律一辺倒ではなく、多分にゆとりを持たせます。】(1月7日付け中日新聞)

 100歳の方の話がどこまで我々壮年や青年に役立つか・・・少なくともこの無理、無駄、無精の「三しない」はすべて役立つと思う。
 1月16日の中日新聞に、宗教評論家のひろさちやさんが「忙しいのは不幸」と言うタイトルで「義務的なこと(仕事)に忙しいのは不幸であって、自分のために使える自由な時間をたっぷり持っているのが幸福」と言う意味のことを書かれていた。この「三しない」と併せて考える必要がある。

(第875話) 今が本番 (2008,1,5)
 【『今が本番、今日が本番、今年こそが本番。明日がある、明後日があると思っているうちは何もありはしない。肝心な今さえないんだから。東井義雄』
 師走を迎える度に、声も姿もない時の流れに、月日という、師走とか正月という名前と区切りをつけ、人の認識にのぼらせようとした古人の智恵を思う。
 相田みつをさんに「そのうち」と題する詩がある。「そのうちお金がたまったら、そのうち家でも建てたら、そのうち子どもから手が離れたら、そのうち仕事が落ち着いたら、そのうち時間のゆとりができたら。そのうち・・・そのうち・・・そのうち・・・と、できない理由をくりかえしているうちに、結局は何もやらなかった空しい人生の幕がおりて、頭の上に淋しい墓標が立つ。そのうち、そのうち、日が暮れる。いまきたこの道、かえれない」
 願わくはこんな年の暮れや人生の暮れにならないよう、「今が本番、今日が本番」と立ち向かってゆきたいものである。】(12月23日付け中日新聞)

 青山俊董さんの「今週の言葉」からです。いつも感心しながら読んでいるが、まさに人生訓たる欄であるので取り上げるのを控えてきた。でも「明日が本番」などと言っておられなくなったわが身から紹介せざるを得ない。
 東井さんの「肝心の今さえない」という言葉にハッとさせられた。一番肝心なのは、過ぎ去った過去でも、来ないかもしれない未来でもない、一番確かな今が何と言っても一番肝心である。その今をおろそかにして、明日でもあるまい、それが東井さんが言われたいことであろう。頷かざるを得ない。未来が少なくなった者にはなおさらである。
 相田さんの言われる「そのうち」は怠け者や嫌なことを忌避する本当にうまい言い訳である。本人が言い訳と思っているうちはまだ救われるかもしれないが、そう思っていないときは更にやっかいだ。人間こういうことには本当に利口で、言い訳はいつでも思いつくのだから。
 ボクの使っている日記帳には「年頭の所感」を書くページがあり、毎年書いている。今年は「今が本番、今日が本番、そのうちはもうない」と書いた。これをこれからのモットーとしよう。

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 拾い出してみるとまだまだ他にいろいろあったが、この程度を選び出し何度も読んでみた。定年退職して2年、そして再就職して今に至るが、これで良いのかと時折疑念も起こるので、この機会にもう一度考えてみたい。このテーマの「話・話」をまとめておくことも必要である。

 「第二の人生」などとは、主婦や定年のない職業の人はあまり意識されないだろうが、定年のある職業に就いた人には大きな問題である。この区切りを変えることができなければ、考える機会を与えられ、新たな出発点と肯定的にとらえたい。
 思いつきではあるが、人生を次の4期に区切ってみる。(第1期)生まれてから就職するまでの期間。(第2期)仕事や家庭など義務や責任が大きい期間。(第3期)一定の義務や責任を果たし、まだ自立できる期間。(第4期)自立が難しく、人に頼らなければならない期間。第1期は被扶養期、第2期は義務的自立期、第3期は自主的自立期、第4期は自立困難期ともいえるだろう。第二の人生は、この第3期に該当するが、意識は第2期を引きずりながらも、近づく第4期をいかに食い止めるかも気になる時期である。
 そんな意識を持ちながら上記の「話・話」を整理し、できるだけ簡潔に「第二の人生の心得」をまとめてみる。しかし、これはあくまで私に欠けていることを考慮してのまとめである。
(心得1)一定の責任や義務を終えたことを自覚する。
      →心を軽く、無理しない、気負わない。
(心得2)年輪力を備えていると自信を持つ。
      ←自覚はなくても長い人生で得たものが必ずある。
(心得3)今が一番、今が本番と心得、誠意を尽くす。
      ←明日はもう無い。
(心得4)結果にとらわれない。
      →有頂天にならず、落ち込まず、静かな心。
(心得5)上記4つの心得を持続するために、次のことを心がける。
   @体を動かす・・・手・足・頭、使わなければ衰えは早い。
   Aおしゃれをする・・・気分は身だしなみが大きく左右する。
   B規律正しい生活をする・・・不規律は諸悪の根源。
   C万物に感謝する・・・心を広く、豊かにする。 
 「生ある限り生き生きと生きる」、すべてはこの願いのためである。人のすべての行動は、人それぞれの環境において、この願いを達成するためである。そんな難しいことを考えていないといわれても、自然にそうなっているのである。この願いを放棄すればもう人間放棄、生きる屍である。人間に生まれたが粗相、死ぬまで追い求めるのである。 

 
                                (平成20年3月20日)


川柳&ウォーク