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「話・話」のその後
昨年6月からホームページに「伝えたい話・残したい話」として、新聞等で読んだ良い話を日記風に掲載を始めた。このことは昨年8月22日に当ホームページの「(zu030) 話・話の船出」として紹介した。 当初は週に2回程度を目標にしていきたいと書いたが、慣れるに従い、興に乗るに従い多くなり、9月からはほぼ毎日となった。職場の新聞にさっと目を通し、掲載できそうな記事を切り抜いておく。そして、その文を紹介しながら自分のコメントを付ける。書けるときに書きためておき、順次1話ずつ掲載していく。遅く帰っても書き置きしてあるものをコピーし、貼り付けるだけであるので、数分もあればできる。よって毎日でも可能なのである。 何か新しい日課が始まった思いである。心に残る良い話ばかりを選んでいくのであるが、私自身の生活や信条からかけ離れたものは選べない。人生や社会の一面的な見方ではあるが、私自身反省させられることも多く、可能なことは行動にも移し、自分自身が浄化されていく気持ちにもなる。そして、今年9月30日で418話となった。この間「1行メッセージ」という欄に、感想を書いてくださる常連さんも4名ほどになった。 400話を越えたのだからいろいろな話を書いてきた。定年後や老後の話、地域の話や万博の話、スポーツや芸術の話、著名人の話も一市民の話もある。世の中こんなにも良い話が、こんなにも存在するのかという感じである。しかしながら、批判や注文にはひとりよがりや身勝手な意見が実に多いのにもびっくりする。 そんな折、著作権について調べる機会があった。読んでいて、「話・話」の多くの書き方は著作権に触れるのではないかとおののいた。著作権では引用は認められているが、それについては簡単に言って、3つの条件があることが分かった。 1)質的にも量的にも、引用する側の本文が「主」、引用部分が「従」であること。 2)引用部分がはっきり区分されていること。 3)出所の明示をすること。 2)3)については意識してそのようにしてきたから問題はない。いや、これで事足りると思ってきた。ところが1)があるのである。自分の意見の主張より他人の文の紹介が主なので、1)の部分が欠けていることが多いのである。どうすべきか悩むことになる。生活の一部、やり甲斐にもなっていることを諦めるべきか、抵触の心配までして続けることか、揺れる日々となった。 10月5日、夜中に起き出して自分のホームページからばっさり切り落とした。そして、その理由を掲示板に書いたら「こんないいことを止める必要があるのか」「いろいろ勉強になっている」「勇気づけられている」などの温かい言葉をいただくことになった。また、私の同級生に難聴の人がいて、ある行事の参加について迷っていると聞いたとき、「話・話」の「1リットルの涙」の項を読むように勧めた。そして、それを読んだら少し気分が楽になり、参加することにした、というメールをいただいた。こんな嬉しいことも生んでいる「話・話」である。 ホームページから削除したものの、こんな言葉をもらってより心残りである。何か良い方法はないか、問題は1)である。これを克服すればいいのだ。自分の文を主とし、引用部分を従とすればいいのだ、考えてみればこれだけのことである。それだけの覚悟をすればいいのだ。さっそくに書きためてある文の書き直しを始めてみた。意外にすらすら進む。これならやれそうだ。もちろん自分の負荷はかなり大きなものになるだろうが、毎日掲載をしようとしなければ何とかなるだろう。当初は週2回程度のつもりだった。そして、当初のころの文を読み返してみたら、おおむね自分の文を主に書いているではないか。途中から引用部分を主体にした方が分かりやすいと思ったこと、自分も楽だからそのようにしてしまっただけのことである。初心に帰ればそれでいいのだと気づいた。 そして、休載宣言から舌の乾かぬ間の10月8日から再開することにした。全くの一人相撲であったが、何人もの人が喜んでくれた。これからは今まで以上に自分を出していかねばならない。恥を晒さねばならない。でもそれは今から10年も前に覚悟したことである。人間50歳を越え人生後半に入ったら、自分をさらけ出し、人の参考になるところは参考にしてもらう。それが役割というものだと心に決めたのではなかったか。その延長線上のことなのだ。ホームページを持つということは、またそういうことなのだ。 1年少したって、振り返る機会になったことは幸いだったと思う。再度心を新たにして「話・話」の出発が始まった。 (平成17年10月30日) |