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青天の霹靂
平成15年2月3日は節分の日である。といっても、節分の日と関係する話ではない。 この日もいつものように出勤する。地下鉄から地下鉄へ乗り継ぐために、特に急ぐこともなくホームを歩いていた。列車が入ってきたので少し急ごうかと思ったとたんに「ピシッ」という音、何の音かと驚くほど私には大きく聞こえた。一瞬どこで何が起こったのだろうと思ったが、右足ふくらはぎが何かおかしいことに気づく。しかし、そのまま電車に乗り込む。降りてから歩こうとするが、普通には歩けない。びっこを引きながら職場に着き、少し様子をみる。だんだん痛くなる。 近くの外科病院に行くことにする。診断はふくらはぎの筋肉に、それを覆うように張りついている筋がついていけなくて断裂したのだろうということ。1週間ほどで軽くなるだろうと言われて少しほっとする。湿布薬と鎮痛剤をいただいてくる。これを青天の霹靂というのだろう。 それにしてもである、急に歩いたとか、段差につまずいたとか、不注意とか、特に何かをしたということではない、普通に平面を歩いていただけなのである。それにウォークで鍛えた足には自信があり、しかも足にしか取り柄のない自分にこんな出来事である。ショックである。骨折などしたことがなく、軽いねんざはあったが原因はわかっている。今までこんなに体をいじめて大丈夫なのかと思うときでも何も起こらなかった。それなのにこのようなことが起こる。寒さのせいや老化現象の説明ではうなずけない。これが生身の人間の体なのか。 専門家は原因があって結果があるといわれる。そういえば椎間板ヘルニアを発症したとき、ひきがねは久しぶりに踏んだ車のクラッチだといわれた。まさかと思ったが、素人目には予期もしないことが突然起こるのが人間の体であるといわざるをえない。体に悪いと言われることを散々やっても健康な人がいるし、気をつけすぎるくらいに気をつけて病気になる人もいる。統計的には後者の方が病気にかかる率は低いと思うが、一個人にしてみれば率の高い低いが問題ではない。なるかならないかである。それに病気疾病や健康を害するものは数限りなくある。これらひとつずつにかかる確率は低いとしても、ひとつにもかからないようにすることは不可能である。また、人間は毎日毎年、とんでもない回数の選択と決断をしている。行動のすべてに、選択と決断を繰り返していると言っても過言ではない。それだけの回数をこなしているのだから、当然悪い方の選択も確率の少ない方の決断もありうる。これは人生のすべてのことにいえることである。 人間、順調なときにはいつまでもそれが続くかのように思いがちである。それが慣れや慢心によって崩れるときもあるし、最善の努力をしているときに崩れるときもある。なぜ自分がこんな不幸な目に遭わねばならないかと、善男善女が泣き崩れる姿は毎日のようにニュースで流れている。しかし、ほとんどの場合、人はそれを他人のことや運の悪い人のこととし、自分のこととしては受け止めない。もちろんそのようなことを毎日自分のこととして受け止めていたら身が持たない。 今までの私にとって、今回の怪我ほど青天の霹靂の出来事は少ない。それだけにこの体験は生かさねばいけない。その方法はいつに私の心構えの中においてであろう。 「人生には、本人の意識行動と関わらないことが 突然に起こる」 という事実があることを自分のこととして受け止める、それであろう。その心構えでいれば、悪いときに特にあわてず、悲嘆せず、良いときにも有頂天、傲慢にならない。そして、悔いを少なくするために、最善の選択決断に心がけることであろう。 10日ほどたちかなり回復をみせる程度の負傷だから、こうして大げさに書くほどのできごとではないが、私はことさら大きく受け止めておこう。私の楽しみの多くはウォークに頼っている。史跡を訪ねることも、人との交流も、また、健康やホームページの作成はウォークの副産物として生まれている。ウォークは健康な足があってのことである。今回の怪我で改めて私の足の大切さ、いとおしさを思い知らされた。今日はバレンタインデー、チョコレートの届かない私には、これを天の女神からの大きなプレゼントとしておこう。 (平成15年2月14日) (その後の話) ある程度まではスッと軽くなったが、その後がなかなか治りきらない。それでもちょうど1ヶ月経った頃には、違和感も無く歩けるようになった。これなら3月中旬のウォークから再開だと思っていた。ところが、3月12日、帰宅してから少し違和感を覚えた。そして、翌日になったらもう正常に歩けない。足を押さえてみると、右足くるぶしの辺りが少し痛い。思い当たる原因を探してみれば、帰りの電車に乗るために、ほんの少し急いだことだろうか。本当にほんの少しである。肉離れをおこしたところをかばったためか、他のところが痛い。 これで再開は当分延期せざるを得なくなった。もう大丈夫と思ってもこうならば、疑心暗鬼にならざるを得ない、自信も持てない。でも腹をくくって、じっくり待つより仕方がない。 今回こうなって、知ったことが二つある。 その一つ目は、自覚症状はなくても、完治していなければ自然にそこをかばって歩くということである。いくら普通に歩こうと思っても歩けない。自分は歩き方を忘れてしまったのか、と不安に思ったくらいである。そして治ってくると、無意識に自然に歩けてしまう。ああ、覚えていたと安心した。こうして回復の度合いをはかりながら、次の段階に進むのである。人間の体というのは本当に良くできている、感心するばかりである。 二つ目は、ウォーキングの足の使い方はかなりきつい、ということである。かなり良くなって、畑仕事をしたり、車やトラクターに乗ったり、ゆっくりした動きならいろいろできるが、ある程度の速さで歩くには完治しないとできないと言うことである。ウォーキングはたかが歩くこと、歩くことは誰もがやっていること、それが少し長くなっても速くても大したことではない、といつも軽く言っていたが、それは正常な足だから言えること。ウォーキングを馬鹿にしてはいけない、歩けるというのは大きな能力であるのだ。 あまりに当たり前のことであるが、そんなことを今感じている。頭では分かっていたが、本当には理解していなかったのではないかと思う。早く完治して、ウォーキングのできる自分の足に感謝したい。また、こうしてウォーキングを休んでいると、自分の生活の中に、ウォーキングがいかに大きなウェイトを占めるようになっていたかも改めて知った。かかってくる電話もウォークの仲間ばかり、そして用を果たせない。ホームページもウォークができなくて更新もままならない。この程度の怪我で、これだけのこと教えてくれた。それだけ私の足は大切なものになっているのだ。くどいような追加文であるが、それだけ身にこたえているということでもある、書いておきたい。 (平成15年3月17日) (その後の話 2 ) それでも3月末には自分でももう大丈夫だろうと感じられ、近場で手頃なウォークがあったら試し歩きをしようと考えた。そして、ねらいにぴったりのウォークに誘われた。4月6日に、自宅からさほど遠くもない「城北線沿線桜散策ウォーク」という催しものであった。 当日は満開の桜に暖かく穏やかな日、更にさわやかな風も吹きこれ以上はないというウォーク日和であった。コース距離は13kmばかりであったが、1日で25000歩ほど歩いたので、20km近く歩いたことになろう。異常なし、回復だ、快哉を叫びたい。 それにしても悔しい思いをしながら悶々とした2ヶ月間であった。こうして野外にでてさわやかな気分を持つと、私にとってウォークのあることのありがたさ、そしてその必要性をつくづく思う。それを本当に自覚できればこの故障も無駄でなかったといえよう。こうして、私の青天の霹靂は終わろうとしている。 (平成15年4月12日) |