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2002年とは

   ”振り向くことが多くなる十二月”
 これは今年12月の「川柳連れ連れ草」に寄せていただいた句である。そして、この句に対して私は次のような鑑賞文をつけた。
      歳月は区切りも切れ間もなく流れ続ける。しかし、人間社会は
     その歳月に勝手に区切りをつける。その区切りのもっとも大きな
     ものが12月であろう。今年1年を振り返り、良かったことを再度
     喜び、悔やむことには区切りをつけ、新たな気分で次の年に向か
     う。区切りのない生活を想像するとぞっとする。

 
ということで、私にとって2002年とはどういう年であったのか、振り返ってみたい。と言っても、仕事のことや家庭のことを省くと、ホームページに掲載したことの総括という意味とほとんど同じことになると思う。それほどにホームページに自身を晒しているのである。
 まず川柳について振り返ると、23年間続いた川柳東浦の会が昨年(平成13年)11月に解散になった。そこで今年1月よりこのホームページ上で「川柳連れ連れ草」を立ち上げ、参加者を募り、川柳の継続をはかってきた。1月は妻と2人だけだったが、3月には一挙に9人となり、8月以降は10人以上を保っている。このページで初めて川柳なるものを書かれた人も多く、少し添削をしながら進めてきている。また、そんな人の参考になればと、私の稚拙な「川柳観」も3月に書いてみた。こうした添削をするのも川柳に関する考えを書くのも初めてである。 
 4月に妻が句の鑑賞文(感想文)を書いてくれたことから、その後も続けることにした。寄せていただける人はまだ少ないが、作ることに慣れられれば次第に鑑賞文も多くなることだろう。6月から作句の少しでも参考になればと「英人のわがまま批評」として、気ままに批評を書かせてもらっている。8月にはみいちゃんから随想を寄せていただいたことを機に、順次依頼して随想を載せている。
 このように順調に拡大発展をしてきている。私の川柳にとって全く新しい幕開けの年となった。昨年までの23年間はただ作って投句するだけであった。今、ホームページの管理者として、川柳連れ連れ草の主宰者として川柳に向き合っている。添削もし、助言もしている。有識者からすれば全く笑い種であるかもしれない。とは言っても川柳界はまだ皆一国一城の主張や作風で、大半の人が共鳴する部分はまだまだ少ない。上下左右幅が広く、同じジャンルとは思えないものも多い。それだけ自由である。作り続けながら自分たちの方向性や主張を確立していくのである。
 インターネットが盛んになった時代のことだから、句をメールで受け付けホームページで発表するという、この会の手法のページが沢山あってもいいと思うが、調べてみてもなかなか少ないのである。川柳をやっている人にインターネットはまだあまり縁がないのであろうか、それだけに皆さんの応援をいただいて、頑張ってやっていきたい。2002年は稚拙ながら私の川柳二期目の元年である。

 ウォークについても2002年は新たな幕開けであったといえる。それは愛知県ウォーキング協会と一宮歩こう会の役員になったことにある。役員として十分な働きをしたとはとても思えないが、参加回数等の結果を見ると、我ながらその自覚が生まれていたことに気づく。愛知県ウォーキング協会では例会に一定回数以上参加すると完歩賞がいただけることになっており、過去2回ほどあるが、今年は久々に完歩賞がいただけるのである。今年は全12回のうち10回以上の人に与えられるが、私は11回であった。ウォークも情報が多くなるに従って、いろいろなところに行きたくなり、自分の会への参加が少なくなる。一般にはやむを得ぬことではあるが、役員となるとそう自分勝手は言っておられない。事前には何の仕事分担がなくても、参加すればすることはいくらでもある。これが自覚というものであろう。一宮歩でも例会は2度ほど都合で休んだが、毎月の役員会を休んだのは1回のみである。個人的楽しみから少し脱皮し、ウォーク第二期の出発の年になった。


 この川柳とウォークを材料にホームページを立ち上げたのは、2000年(平成12年)3月のことだからもう3年弱になる。このホームページが大きな成果になって現れた最初は、平成13年6月の七街道ウォーク第3ステージである。この回以降、前回のウォークの状況が私のホームページをコピーして、約500名の参加者に配布紹介された。そして、今年の2月には私のホームページを見たNHK教育テレビの関係者から、ウォークについて問い合わせがあり、それにメールで答えたり写真を送ったりした。結果的には放映されなかったが、びっくりした出来事ある。ところがまた8月に入って、PHP研究所発行の「PHP ほんとうの時代」の執筆者から、ウォークの特集を組むので取材したい旨の申し入れがあった。この方とは実際に会い、2時間ばかり取材を受けた。そして、10月号に2ページに渡って、実像以上にすばらしい人物にして紹介していただいた。これもホームページを見ての取材であった。川柳でも新葉館出版から「川柳マガジン」という雑誌の中でホームページを紹介していただいた。
 私など川柳でもウォークでも特に目にとまるような活躍をしているわけでもないのに、ホームページを開設しているばかりに、このように面はゆいことになっている。ホームページの威力には本当に驚くばかりである。私にとってホームページの作成は、活動の整理手法の一つという付随したものであったが、今ではホームページ作成そのものが私の大きな楽しみになっている。作成の知識もたいしてないまま、構成や表現の仕方、使い勝手についていろいろ工夫する。ウォークのページは歴史や地理案内のようなものでもあるので、いろいろ調べて作らねばならない。プリントするともう何百ページにもなると思うが、本を作っているようなものである。川柳とウォーク、そしてホームページが相乗効果でどこまで発展できるか自分自身楽しみになっている。

 こうして振り返ってみると、2002年とは川柳とウォーク共に転換の年、新たな発展の元年だったといえる。この他グラウンドワークについて新たに参加を始めたところであるが、これについても後に、2002年が元年であったといえるようになったとしたら、これはもう痛快だ。こうして振り返ってみると、私にとって2002年とはこれからの人生に向けて新たな出発をした年であったいうのが結論になる。
                          (平成14年12月27日)

川柳&ウォーク