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 尾 張 野  
        ・・・合唱とウォークの奇遇

 歌うことを苦手としている私が、なぜかベートーベェンの第九を歌って以来、何かと合唱に参加する機会ができている。練習に通っている間は重荷になり、なぜ参加する気を起こしたのかと少し後悔しながらも、演奏会まで漕ぎつけるとその達成感に酔ったりする。もう二度と参加するものかと思いながらも、今年(平成13年)も知人から「岩倉市制30周年記念演奏会 いわくら新世紀をうたう」という演奏会への参加を誘われ、ふと参加する気を起こしてしまった。7月から毎週1回の練習に参加した。途中ずる休みをすることもあったが、12月9日の演奏会を無事感激をもって終えることができた。この演奏会の参加は「私の平成13年重大ニュース」のひとつとなった。
 演奏会は2部で構成され、第1部はカンタータ「世紀の革まるこの時に」という英語で歌うオリジナル曲であり、第2部は語り手と混声合唱・管弦楽のための交響的戦国絵巻「夢まぼろしのごとくなり〜織田一族の興亡」という岩倉市在住の作曲家による曲であった。そして第2部第1章「夕映えに燃ゆ」は戦国時代の尾張平野を舞台にした曲で、知っている地名がいろいろ出てきて自然親しみを持ってしまった。


 一方、今年の9月に一宮市を出発地に尾張野一円を歩く、2日間のウォーキング大会の企画が持ち上がった。日本ウォーキング協会が全都道府県に展開している2日間のウォーキング大会を、愛知県はこの尾張野でやろうということになってきたのである。一宮を出発地にするということで、実質「一宮歩こう会」の会員が企画設営に走り回らねばならない。そして、尾張野といえば信長・秀吉の出身地、活躍の舞台である。この2人を持ち出さない方法はない。「信長・秀吉 青春の舞台・尾張野の史跡を訪ねる“信長・秀吉 尾張野ツーデーウォーク”」と称して、来年(平成14年)1月19・20日の2日間の開催が決まった。19日は「40km犬山城コース」「30km小牧城コース」「12km浮野古戦場コース」の3コースが、20日は「30km清洲城コース」「20km稲葉宿コース」「8km妙興寺コース」の3コースが設定された。私も歩こう会の会員としてコース設定などわずかであるが携わってきた。

 そして驚くことに、岩倉の合唱と尾張野のウォークという全く異質のものが別々のところから始まって、それが私の中で重なってしまったのである。私以外に両方の行事に係わっている人を知らないから、これは私だけに起こりえたことであろう。この奇遇を面白く思うと共に内心嬉しくなってくるのである。
 浮野古戦場コースの設定に歩いたその前日、合唱で
       ・・・・・・岩倉織田家の信賢様は
      信安様の意にそむき、永禄元年ふみつきに
      義龍様と相むすび、尾州丹羽郡浮野原へ
      信長様との一戦に千八百余の軍勢を
      さしむかわせて挑み候・・・・・
 という歌詞を初めて練習したばかりであった。この偶然にも驚いた。
 浮野というのは私の家から3kmほどの所である。浮野合戦というものがあったということは知っていたが、恥ずかしながら内容についてはほとんど知らなかった。そして、この浮野合戦場址へ来たのも初めてのことである。浮野合戦場址碑文を次に記してみる。
      永禄元年5月28日 2千余騎をひきいた
      織田信長は 岩倉城主織田伊勢守信安を
      攻撃のため浮野へ陣を進めた
      この日は小競り合いの瀬踏み程度に終わったが、
      つづいて7月12日犬山城主織田十郎左衛門が
      千騎ばかりを従えて馳せ加わったので
      総勢3千余騎が浮野を中心に争い、死闘二刻に及び
      首級9百余を討ち取った。これを浮野合戦と呼び、
      この首級を埋めた地に建碑した。
                     昭和39年春  一宮市長

とある。歴史上大きく記されるほどの合戦でもないので、資料も乏しく少しの食い違いも見せている。

     浮野合戦場址
            (右・碑文)


岩倉市のホームページを見ると
   岩倉城は、戦国時代に織田敏信、
   信安、信賢の3城主によって、約80
   年間尾張の北半分を治めていた拠
   点です。信安の子信賢は家老稲葉
   某と謀り、信安を追い出して城主と
   なりましたが、清洲城主の織田信長
   に攻められて岩倉城は落城し、80年
   にわたっての上四郡の統治は終わ
   りました。(一部略)

 とある。これらの文章をつなぎ合わせると「浮野合戦が始まったときの城主はまだ信安であり、信長との戦を忌避したが、息子の信賢は好戦的で、信賢に引きずられて信長との戦を起こした。そして、信賢は信安を追い出したが、結局信長によって攻め落とされた」と理解できる。岩倉城址は「30km小牧城コース」の中で見学することになっている。  

 

 先日(12月22日)、「40km犬山城コース」のコースリーダーに指名されたこともあって、このコースを実際に歩いてみた。その時、丹羽郡大口町で平成11年に城址公園として小口城が立派に再建されているのを見てきた。この近くまでは何度も来ているが、この公園に寄るのは初めてである。ここのパンフレットによると「小口城は北東に犬山城、南西に岩倉城、南東に青塚、小牧山の砦という位置関係にあり、軍事的に重要な役割を果たし、織田氏の尾張経営の中心的役割を担ってきた」とある。合唱では
      ・・・・早駆けの武者が 日に数度 小口の里を
      駆け抜ける 静かな里を駆け抜ける・・・・・
      ここはかつて上四郡の岩倉織田家の所領の地
      その後 この地は下四郡の清洲織田家へ譲られて
      静かな 静かな里の暮らしは続いた
      それが今や崩されるのか 静かな静かな里
      小口の里の平穏な暮らしは無にされるのか・・・・
 という歌詞がある。先ほどのパンフレットでは、小口城は永禄年間に信長の軍勢によって攻略され廃城となったとあるので、浮野合戦の時は岩倉織田家についていたことになる。そう見ると小口城は岩倉織田家と清洲織田家の中で翻弄されたことが分かってくる。
このように今年は、私の家の近くながらあまり知ることもなかった、小口城、岩倉城、浮野合戦場などといったものが合唱とウォーキングという全く別のものから、ほぼ同時に私の中に入り込んできたのである。こんな面白さもいろいろ参加していればこそである。そして、少し知ってみれば地元のことだけにますます興味が湧いてくる。もう間近に迫った1月の尾張野ウォークはますます興味を持って、楽しく歩けそうである。
 
(参考) 尾張国について
・尾張国の守護は、室町時代初期、越前国守護斯波氏が兼任していた。
・応仁の乱では、尾張も東西に別れて争乱が起こった。
・後、尾張の国八郡は、上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)と下四郡(愛知郡、海東郡、海西郡、知多郡)に分けて守護代を置いた。
                          (平成13年12月29日)


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