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「川柳東浦の会」の回想
川柳東浦の会は平成13年11月に22年弱の活動を終えて解散した。会の創立から解散まで見てきた私としては感慨無量のものがあり、この機会に少し回想してみたい。 話は昭和54年12月のことにさかのぼる。妻が小学校で開かれた「短詩系文芸について」というPTAの教養教室に出かけた。その文芸とは川柳であった。読んでみて何となくできそうな気がした。 「渡辺さんのご主人が川柳をやってみえるようだよ」 という妻の言葉に、近くにそんな人がみえるなら少し書いて、添削してもらおうということになる。このいたずら心が、会ができ川柳を始めるきっかけになるのである。 渡辺さんは同じ団地に住む、妻と保育園の「母の会」の役員仲間である。後に知ったことであるが、渡辺さんのご主人の和尾先生は10代から川柳の創作活動を始め、当時は名古屋の「川柳みどり会」を中心に全国的な活動をされていた。しかし”自分の住む地域に活動の場を持つべきではないか”と考え始めておられる矢先に、我が夫婦が迷い込んだのである。飛んで火に入る夏の虫(このときは冬)とはこのことである。 早速会づくりが始められ、昭和55年3月に母の会の役員を中心に9名で「川柳東浦の会」は発足したのである。男性は和尾先生の他には私一人である。私ども夫婦が会のできるきっかけになったこともあって私が会長に押され、ひとまず引き受ける。川柳の会というのは一般には中高年(いや、高年といったほうがいいかもしれない)が多いと思うのだが、ほとんどが30歳代半ばというとんでもない若い人の会ができたのである。 月1回の例会を団地の集会場で持ち、先生が会員の句の添削をされるとともに、他誌の佳句や川柳についての論評を紹介される。数年たち、会員が慣れてきたところで雑詠の選を会員が順番にしたり、また、会員全員で選をし順位をつける共選も取り入れられたりした。 私は会が発足したその年の11月に父の入院をきっかけに、9年間住んだ愛知県知多郡東浦町の地を離れ、生まれ故郷の愛知県一宮市に帰った。だから、東浦の地に住みながら東浦の会に参加したのは1年に満たない。一宮にきて少しの間は例会に出席していたが、しょせん無理で、そのうち例会開催日が平日になったりして、もっぱら投句だけになってしまった。投句だけでは刺激も少なく、作句意欲もなかなか上がらず、上達もしなかったが、妻や皆の後押しで続けることだけはできた。ただ、毎年1月は日曜日を例会開催日とし、その後懇親会を持つという企画がなされた。いつもたくさんの手作り料理が並び、これは私のために催されていると思って必ず出席した。 会報「ちたの風」は55年4月号を第1号に毎月発行し、最終号は260号となった。前月例会の句を載せると共に、当番を決めて随想や「一人20句抄」などを書き掲載してきた。会発足1周年記念として翌年3月に合同句集第1集を発刊した。その後4回発刊し、平成12年3月の20周年を記念して出した合同句集が最後となった。毎回20人ほどが1人40句を載せた。また、東浦町文化協会や団地内のクラブ発表会にも毎年作品を発表してきた。色紙に手書きしていたものから、最近は昌利さんらがパソコンを利用し、コンピューターグラフィックを活用した作品発表に変わっていった。 東浦の会発足後しばらくして、先生は名古屋を始め数地区で同じような会の指導に当たられるようになった。そして、それらの会との連携も始まった。大きな川柳大会も企画されるようになった。会の活動が盛んになると共に事務処理に当たる会員はますます忙しくなっていった。 この22年間に、正確には21年9ヶ月の間に何人の人が入会し、退会していったであろうか。私の会長は名ばかりで、ほとんど会の運営に係わっていないし、まとまった資料もないのでよく分からないが、50人ほどになるのではなかろうか。常時20人ほどが会員であり、最終会員は18名であった。10年以上在籍した人は10人ほどであろう。このように結構入退会があり、私が妻と共に創立から解散まで会員で通すことができたのは大きな幸運があったと思う。5周年を迎えた折り「会がある限り会員であることを誓います」と書き、とんでもないことを書いたとすぐに悔やんだが、その通りになってしまった。誓いを守れてホッとした面もあるが、それ以上に複雑な気持ちもある。また、こうした小さな会の宿命であろうが、年月を経ただけ会員の年齢も上がる。最終会員では2名が30歳代であったのみで、あとは50歳を超えていた。 この会の継続に先生の存在なくしては考えられないが、それに勝るとも劣らぬ貢献をされたのは八重子さんである。今回の解散の引き金が八重子さんの退会申し出にあることから見ても明らかである。そして、八重子さんを助けてこられた愛さんである。二人とも会創立後まもなく入会され、事務処理に当たってこられた。その他にも多くの人の協力があってこそ継続できたことである。最終号に休刊の挨拶を書かせていただいたが、その中でも書いたように、本当にご苦労さまと慰労すると共に感謝を申し上げたい。 私が会長であった理由は、私を止めさせないための配慮と、女性会員が多い中で男性を会長にしておいた方が何かと好都合ということがあったのだろう。何か面はゆいものがあり、何度も辞めさせてほしいと頼んだが「ただ座っていてくれればいい」ということで座り続けた。何らかの貢献はあったであろうか。 30歳代半ばからの22年は、人生の最高に意気盛んな時期である。このような重要な時代に「川柳東浦の会」は存在し、係わってきた。あまり熱意のある係わり方でなかったのは悔やまれないでもないが、それでも22年の歴史は残った。駄作であっても数千句という作品が残った。最後の例会に ちたの風 明日につなぐ風になる 英人 という句を作った。私の人生はまだ終わったわけではない。川柳人口から見ればまだ駆け出しの年令である。ここで培った知識や人間関係を明日につないでいかない方法はない。新たな道を模索したい。 (平成13年12月11日) |