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「関ヶ原の戦い」前哨戦
(「河田渡河戦」と「米野の戦い」

平成21年3月28日、一宮友歩会10月例会の下下見を行う。木曽川右岸の笠松町米野の
「米野の戦い跡碑」を見、その後、ほぼ対岸の各務原市川島松倉町で「河田渡戦説明板」を見る。

1600年8月22日明け方に「河田渡戦」が行われ、8月22日午後に
「米野の戦い」が行われたので、まず河田渡戦を紹介します。


木曽川本流(岐阜県各務原市川島松倉町付近)

川島大橋付近にある説明板

川島大橋
河 田 渡 河 戦     
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦というべき岐阜城攻撃の諸戦が木曽川を挟んで開始され、
川島町がその古戦場となった。東軍【徳川家康】の池田輝政を先鋒とする浅野幸長・山内一豊・一柳
直盛等1万8千の一隊は、木曽川の河田を渡り越え新加納を経て岐阜に向かう策戦をたてた。一方、
西軍【豊臣方】に属する岐阜城主織田秀信は、木造具政・百々綱家・川瀬左馬助等3千3百を新加納と
米野の間に配置し、敵を待ち伏せた。8月22日、東軍の池田輝政は前進命令を下し、中州小屋場島に
陣をはった。敵兵の小勢を知った東軍は、まだ夜の明けない内に一柳直盛を先頭に渡河戦を激戦展開
【河田渡河戦という】、付近一帯は阿修羅場と化した。西軍岐阜城兵は、鉄砲隊の奇襲作戦によく奮闘
したが遂に敗退、勢いに乗った東軍は明くる23日、岐阜城を落城させた。   (現地説明板より)

説明板近くの碑

説明板近くの碑


木曽川を渡った徳川軍と岐阜県側で待ちかまえていた豊臣軍は
22日に午後に入って笠松町米野で本格的な戦いに入った。


米野の戦い跡標柱(後方は東海北陸自動車道)
慶長5年(西暦1600年)8月22日、
関ヶ原合戦の前哨戦がこの付近一帯で
はげしくおこなわれた。これを米野の戦いという。


木曽川堤防の米野の戦い標柱を見た後、近くの米野墓地へ行きました。


町営米野墓地(笠松町米野)

米野の戦い跡碑
 史跡 米野の戦い跡

 慶長5年(1600年)8月22日(今の暦でいうと9月29日)
木曽川を渡った東軍の池田輝政ら1万8千と、
これを迎え打つ西軍の百々綱家ら岐阜の城兵3千
2百はこの付近ではげしく戦った。これが関ケ原合戦の
前哨戦となった米野の戦いである。
東軍が取った227の首は円城寺に葬った。岐阜城の
半分近くが戦死したとも伝える。東軍にも多くの戦死
者が出た。翌日東軍は岐阜城を攻め落とし、東西20万
の軍勢が関ケ原へと向かうことになる。
  今も、東軍の一番槍大塚権太夫の墓は無動寺に西軍の
   飯沼小勘平の墓はここから250メートル北にある。


一連の史跡を見ることによってよく理解できました。21年10月3日の例会が楽しみです。

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