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一宮友歩会・第22回例会  
【史跡巡りシリーズ・岐阜編part2】

笠松町(東部)の史跡

一宮友歩会の第22回例会は平成21年10月3日(土)、名鉄本線笠松駅から
笠松町内の史跡を見ながら木曽川右岸を上流に遡っていき、笠田広場から木曽川を渡り、
一宮市の浅井古墳群を見て江南市の曼荼羅寺までの約17kmのコースで行いました。
(写真には平成21年3月28日、9月5日の下見時のものが含まれています)

 事前の天気予報から、また前日の雨の様子から22回にして初めての雨の例会と覚悟していましたが、当日朝には雨も上がり、出発時には素晴らしい秋晴れとなっていました。

 笠松商工会館に62名が集合、いつものように会長挨拶、コース説明、準備運動などをして出発です。まず鮎鮓街道を通り、鮎鮓街道碑まで行きました。

鮎鮓街道
 江戸時代、長良川で捕れた新鮮な鮎を鮎鮨に加工し、江戸の将軍へ献上しており、
その鮎鮨を運んだ街道のこと。「御鮨街道」とも呼んだ。岐阜から江戸へ。清洲までは
岐阜街道、清洲からは美濃路、そして東海道の熱田宿を経て昼夜兼行で運ばれ、
4〜5日(記録によると96時間)という短時間で江戸に着いたという。

鮎鮓街道碑


近くの八幡神社や美濃郡代笠松陣屋・笠松県庁跡なども見学しました。


八幡神社

美濃郡代笠松陣屋・笠松県庁跡


そして、笠松町歴史民俗資料館です。62名が一度に見学するのは無理があり、
途中から半数ほどを杉山邸の方に回ってもった。両施設とも丁寧な説明を頂きました。


笠松町歴史民俗資料館
杉  山  邸 
明治24年の「濃尾大震災」直後に建築され、築110年余を数える質実剛健な町屋風造り。
笠松を開いた「八人衆」の一人、杉山市右衛門から数えて15代目ほどに当たる
杉山銓二郎さん(愛称・「すぎせん」)の邸宅。2006年に「国の登録文化財」の指定を受けた。

杉  山  邸


両施設で40分ほど過ごした後、笠松港公園へ出ました。
ここからは木曽川右岸をどんどん上流に向けて歩きます。
笠松港公園の辺りは来るたびに整備されていることにびっくりします。


笠松渡船場跡・石畳

笠松港公園(後方は木曽川橋)

馬に乗った一人キャラバン隊?


堤防上を気ままに歩いて長い列になりました。


国道22号をくぐり、築堤記念碑を見た後、町中に入っていきます。
土岐塚を見て、11時半に昼食場所の光得寺に着きました。


蘇岸築堤記念碑

土  岐  塚
光  得  寺
 織田信秀と斎藤道三との戦いで砦が設けられた寺。梵鐘は室町時代の銘が彫りつけられており、
岐阜県の重要文化財。織田信長が美濃攻めの時、陣鐘として使ったという言い伝えがある。

光得寺(昼食場所)

光得寺・鐘楼


昼食後は堤防切れ跡を見て、米野の戦い跡です。


慶応元年の堤切れ跡

米野の戦い跡(後方は東海北陸自動車道)


東海北陸自動車道をくぐると、近くの墓地に米野の戦い戦没者の碑が立っていた。
ここでいつもの城愛好家の方から米野の戦いなどの話を聞く。

米野の戦い
 慶長5年(1600年)8月22日(今の暦でいうと9月29日)木曽川を渡った東軍の池田輝政ら1万8千と、
これを迎え打つ西軍の百々綱家ら岐阜の城兵3千2百はこの付近ではげしく戦った。
これが関ケ原合戦の前哨戦となった米野の戦いである。東軍が取った227の首は円城寺に葬った。
岐阜城の半分近くが戦死したとも伝える。東軍にも多くの戦死者が出た。翌日東軍は岐阜城を
攻め落とし、東西20万の軍勢が関ケ原へと向かうことになる。(現地案内板より)


この後は木曽川北派川を渡り笠田広場へトイレ休憩に寄る。
そして、木曽川本川、木曽川南派川を渡って愛知県側・一宮市へ出る。


笠田広場

木曽川本川・川島大橋


すぐに一宮市の浅井古墳群の見学である。現在見学できる5基の内4基を見学する。


愛宕塚古墳

桃塚古墳

毛無塚古墳

岩塚古墳


後はゴールの飛保の曼陀羅寺をめざすのみである。そしてちょうど3時に着く。
初参加の若い女性の方も無事完歩された。讃えて拍手を送ってもらった。
整理体操をし、次回の案内をして無事終了する。


ここから約2キロある江南駅まで、多くの方が歩かれた。
20km近い距離になり、健脚ぶりと意欲に感心するばかりである。


川柳&ウォーク