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三河天平の里西明寺


平成21年9月20日、小学3年生の孫と名鉄ウォークに参加する。
 午前9時、名鉄本線国府駅に降り立つ。距離は約7.5kmの新コースである。
国府駅付近は今まで歩く機会がなかった。あれほど暑かった日も少しの間に
秋の日に変わっている。そしてこの日もさわやかなウォーク日和であった。


スタート・名鉄国府駅


歩き始めてまもなく三河国58の神社が祭られている三河総社である。


三河総社


そして、スタート地点から約1.5kmで八幡宮である。
本殿は国の重要文化財であり、また境内には立派な弓道場があった。


弓道場(的場)

弓道場(射場)


八幡社を過ぎるとすぐに三河国分寺塔跡の碑が立ち、礎石が残っている。
もう国分寺の寺域である。そして、三河国分寺の碑が見える。

三 河 国 分 寺
国府(こくふ)に近い八幡台地上に国分寺の七堂伽藍が築かれた。寺域は約180メートル四方。
国の保護のもとに栄えたが平安時代末には大方が荒廃。現在の国分寺は、1506年3月、
西明寺二世機外和尚がこれを再興して末寺とし、現在の曹洞宗国府山国分寺となっている。

鐘楼(鐘は国の重要文化財)


しばらく田園の中を歩く。すると、タニシなどを説明している自然観察員の方に会う。
蛍の餌などの話を聞く。これもウォークに出る魅力である。


水路にはタニシやカワニナがいる


しばらく行くと、突然立派な楼門が目に飛び込んでくる。三河国分尼寺である。
愛知県にこんなに立派に復元された施設があるとは全く知らなかった。


中門復元施設

礎  石  (金堂基壇から北を見る)

展望デッキより全容(南)を見渡す

地元ボランティアガイドの方の説明を受ける

地形縮小模型


 
       三河国分尼寺跡史跡公園について
                         (現地配付のパンフレットより転載)

  【よみがえる天平の遺産】
 豊川市では、歴史的文化遺産である三河国分尼寺跡を保存して永く後世に伝えていくとともに、郷土の歴史を体感できる場として活用するために平成11年度から17年度にかけて保存整備事業を実施しました。
 整備では、国分寺クラスの大伽藍を備えた三河国分尼寺の当時の姿を実感できるよう、中門及び回廊の一部を遺構の真上に実物大建物として復元しました。その設計については、発掘調査結果に基づき、法隆寺東大門や西院回廊などの現存建物を参考としながら復元設計を行い、工事については、柱材に国産のヒノキを用いたほか、屋根瓦は出土品にならい復元し、木部はヤリガンナ仕上げ、柱等の部材は朱塗りとするなど、奈良時代の建築様式を再現した形での施工となっています。また、金堂基壇の復元や講堂跡をはじめとする表示施設を整備し、発掘調査によって確認された伽藍の配置を復元した他、周辺遺跡を含めた地形縮小模型を設置しました。
 近隣には、三河国分寺跡や三河国府跡があり、まさしく三河の「天平の里」と呼ぶにふさわしいこの地に、三河国分尼寺が現代によみがえりました。

  【史跡の概要】
 奈良時代の天平13年(741)に仏教を厚く信仰していた聖武天皇は、国家の平和と繁栄を祈るために、全国六十余か国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を出しました。
 三河国分寺と国分尼寺は8世紀後半に完成し、国家仏教を広めるとともに、国際色豊かな天平文化の地方への普及に大きな役割を果たしました。しかし、律令制度が崩れてゆくなかで、その維持・管理が困難となり、平安時代の末には荒廃したと思われます。
 豊川市八幡町忍地に所在する三河国分尼寺跡は、その字名や残存する礎石などから古くより尼寺跡と推定され、大正11年に三河国分寺跡とともに国の史跡に指定されました。            


国分尼寺で見学し、説明を受けている間に孫が見あたらなくなってしまった。
よく先に行ってしまうことがあるので、またそれだろうか。不安ながら、国分尼寺を後にする。


        【見失ってから再会するまでの経過】

・先を急ぐが全く見あたらない。こんなに勝手に来ることがあるだろうか、不安になってくる。
・どうしようかと迷いながら歩いていくと、ラッキーカードを配布しているスタッフに会う。
・尋ねてみるが、そんな少年は記憶にないと言われる。
・話していて、ショートカットすればゴールは近いことを知る。
・そんな少年がきたらそこに止めて置いてもらうように頼んで、ゴールに向かう。
・ゴールにはまだ来ていない。ここでも止めておいてもらうように頼んで、ゴールから逆に歩く。
・まもなく娘(母親)から携帯に電話が入る。孫が人に頼んで自宅に電話をしてもらったらしい。そして、私の携帯電話の番号を伝えたという。
・自分の携帯電話をよく見たら、知らない人から着信履歴があった。
・早速返信してみる。女性の人が出られて、今孫と一緒に歩いていると言われる。
・そのまま歩いてもらって、結局、西明寺の階段で会うことができた。
・付き添ってきて頂いた女性は国分尼寺のボランティアガイドの方であった。
・私が国分尼寺を出た時、孫はまだ国分尼寺にいたのである。
・見失ってから再会するまで約1時間20分がたっていた。

      


西明寺を付き添ってきて頂いた女性と一緒に見学し、その後
彼女は国分尼寺に戻られた。西明寺の庭園は素晴らしいものである。

西  明  寺
平安朝時代の寛和2年(986年)三河守大江定基が愛妾力寿姫を失い、世の無常を感じて仏門に入り、
後、大宝山の山麓に草庵を結び六光寺とし、力寿の冥福を祈ったのが西明寺のはじまりといわれる。
その後、鎌倉の北條時頼が最明寺入道となって諸国行脚の際、当寺に足を留めたときに最明寺と改め、
さらに、戦国時代の永禄7年(1564年)徳川家康が八幡砦における今川氏との戦いの際本寺に立寄り、
空腹をしのいだその恩顧を深く感じ、最の一字を西と改め西明寺となしたと伝えられている。

参道入り口

山  門

寺紋の三葉葵と参道に並ぶ愛染明王の幟旗

本  堂

ベルツ博士の墓碑(左)と句碑(右)
ベルツ博士はドイツ人医師で、明治9年に政府の
招きで来日。 東京医学校で長年にわたり
教鞭をとり、日本医学に多大な貢献をした。
句碑は水原秋桜子が詠んだ
「菊にほふ国に大医の名をとどむ」

菩 提 樹
昭和45年、西明寺を訪れたベルツ博士の孫娘
ゲルヒルト・トーマ夫人とビーティヒハイム市の
市長がベルツ博士の生誕地から持参したもの。

回遊式庭園


私は再び同じ道を引き返すことになる。かけした公園を通り抜け、
スーパーで弁当を買って、音羽川堤防に出る。この堤防上の木陰で弁当を取る。


音羽川は芙蓉に彼岸花にコスモスと、今が盛りと花が素晴らしい。
こんな風景を見ながら秋の好天に歩けるとは本当に幸いである。


国府駅に戻ったのは1時近く、歩き始めて4時間近くたっていた。
良いコースであった。いろいろあって忘れられないウォークになった。



寺さんのウォーク・トーク

◎孫と離ればなれになったことに、反省点は多い。その後の対応にも
問題がある。聞いてみれば、沢山の人の世話になっている。
初めての出来事ではあるがあってはならないこと、心したい。
◎孫にも注意を促すが、いろいろ状況を聞いてみると、こちらが思う
以上にしっかりしている。子供の成長は早いと実感した。
◎孫とのウォークは自分にも行き甲斐があるが、周囲の人にも
何か温かさを与える。それだけに大切にした。


◎この新コースは史跡等の見所も音羽川の風景も実にいい。
距離はやや短めながら、それだけにゆっくり見学できる。
施設入場も無料だし、かなり上々のコースだと思う。
◎三河国分尼寺では沢山のボランティアガイドの方が活躍して
みえた。最近はこういう方の活躍がよく見られる。
私も一宮友歩会を運営しながら、こういう方に世話を
受けることが多くなった。ありがたいことである。



   
   (参考と注意点)


   このページを作っていて次の疑問点が見つかりました。

  ◎三河国分寺の鐘楼前の説明板に「天平九年」とあるのは
  「天平十三年」ではないか。
(史跡の概要では13年になっている)

   このことについて、9月28日に豊川市生涯学習課に問い
  合わせしたところ、翌翌日次の回答を頂きました。

  ◎ご指摘のありました看板につきましては、地元関係者の
  みなさんで建てられた物のようです。現在、説明板の見直し
  作業を始めておりますが、気付いておりませんでしたので、
  今後、直していただくようにお願します。

                     (記・平成21年10月1日)



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