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一宮友歩会・第21回例会  
【河川探訪シリーズ・五条川編part2】


岩倉から羽黒まで


平成21年7月4日、一宮友歩会第21回例会は五条川part1のゴールであった
岩倉の神明生田神社を集合場所とした。ここから上流へ羽黒駅まで歩くのである。
この神社には山内一豊生誕地碑があり、一豊を主人公としたNHK大河ドラマ
「功名が辻」放映を記念して碑が建てられていた。ここで出発式をする。


「功名が辻」放映記念碑

準備体操をして出発


この時期にしては幸い過ごしやすい日であるが、緑陰を利用しながら
時折休憩をとる。そして、出発して30分ほどで井上城跡に着く。


桜の木の下で休憩

井上城跡
井  上  城
 15世紀の初め頃、井上村には有馬主殿正が城を構えて、井上庄17ケ村を領有していたが、
嘉吉元年(1441)尾張の守護代・織田郷広に攻められ、井上城は落城したという。
 その後の井上城については、16世紀中頃に、信長の生母土田御前の一族である土田弥兵次が
居城していたという説がある。弥兵次の妻は隣村・小折村の生駒家宗の娘・類女(後の吉乃)である。

小高い盛土の上に立つ井上城跡碑

説明する城愛好家


曽本小公園で休憩後、八大龍王社を見学する。




五条川から少し離れて、宝頂山墓地に寄る。

宝 頂 山 墓 地
 生駒家の墓所。右端から信長の室「吉乃の方」の兄にあたる生駒家四代家長夫妻の五輪塔と五代
利豊夫妻の石廟、そして十代周房の墓碑。石廟形式の墓は大名など格の高い人に見られるが、この
近辺ではこの墓地だけ。この一角は利豊の隠居所であったといわれ、言い伝えによれば、晩年は
生きながらにして成仏することを願った利豊の心情を思い、六代利勝が住居にふさわしい墓を造った。
 利豊は幼い時より秀次に近侍し、16歳で小田原合戦に従軍、秀次の自刃後は秀吉に仕え、
関ケ原の戦いでは徳川方として功績をあげている。その後、尾張藩主徳川義直に仕えて、
大坂夏の陣に従軍、寛文10年(1670)96歳の長寿でこの世を去っている。


宝頂山墓地に続いて、富士塚にも寄る。

富  士  塚
 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折り、徳川家康が織田信雄とともに小折の城を
訪ねた帰途、この富士塚に立って敵情を視察した。このゆかりの塚に6代目の利勝(5代利豊の
養子)が、初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、天和2年(1682)2月、林羅山の
孫の信篤に碑詞を依頼し、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てた。「お亀塚」とも呼ばれる。

富士塚から五条川桜並木を見る


富士塚から堀尾跡公園までは15分ほどである。11時10分に到着、早い昼食となる。


木陰で昼食

裁断橋をバックに記念写真


緑陰で涼しいが、水際に降りると更に涼しい。


堀尾跡公園から1時間ほどで小口城址公園である。立派な資料館も設置されている。

小  口  城
1459年(長禄3)、岩倉城の織田敏広の舎弟織田広近によって築城されたといわれており,別名
「箭筈(やはず)城」ともいわれる。織田広近は1469年には犬山に木之下城を築いて美濃に備えた。
そして小口城には岩倉譜代衆の中島左兵衛尉が「井上城」から小口城に移った。このように
織田氏の尾張経営の要所として、また、美濃の勢力に対抗するため尾張北部の政治拠点としての
役割をになってきた。その後、永禄年間(1558〜1570)に信長の軍勢に攻略され廃城になった。

櫓から五条川(後方の並木)を見る

資料館内部


城址公園から5分ほどで横断歩道橋に来る。歩道橋の下に水神様と暴水流亡各霊墓が
立っている。これらの碑について、日本河川協会会員の方から説明を受ける。

暴水流亡各霊墓
 寛永10年(1634年)2月かんがい用溜池として築造され,この地方の新田開発を促した入鹿池が明治元年
(1868年)4月から5月にかけて降り続いた長雨により水量が激増、5月14日夜あけとともに堅固を誇った
大堤防が決潰した。流れ出した池水は、尾張富士、本宮山の山峡を駈け下り、両方の62カ村を流亡し、
なお余流は数百カ村に流入したといわれる。丹羽、春日井、中島、海東の4郡133カ村で流失家屋807戸、
浸水家屋は床上、床下あわせて11,709戸、死者941名、負傷者1,471名、流没した耕地8,480町歩余の
大きな被害を出した。この墓は、このときの大水で亡くなった人々の冥福を祈るものである。


五条川堤は尾北自然歩道に指定され、桜並木が続く。


荒井の堰へ来る。ここで五条川と木津用水が合流し、堰でまたそれぞれの方向に流れていく。
ここでも、日本河川協会会員の方から古い地図を使って説明を受ける。


五条川は右から左へ、
木津用水は中央を上から下へ流れる


後はゴールの小弓の庄まで淡々と歩き、2時40分の到着である。
解散式を七夕祭りの夕べの準備がされている小弓の庄の庭園で行う。

小 弓 の 庄
明治40年代、旧加茂郡銀行羽黒支店として建築され、昭和5年の銀行廃止後、地元の福富氏が購入した。
その後愛北病院羽黒診療所として利用される等の経緯を経て、平成11年に羽黒のまちづくり拠点として復元、
現在、展示ホール、集会場等として活用。名称はこの地区が藤原時代にこの名称で呼ばれていたことによる。

小弓の庄の庭園内で整理運動

短冊に願い事を書いて飾る参加者


約14kmのコースを5時間20分で終える。河川探訪と言いながら、井上城跡、宝頂山墓地、
富士塚、裁断橋、小口城跡など史跡も多かった。天候にも恵まれ、良い例会ができたと思う。

             寺さんのウォーク・トーク

◎基本的に偶数月を例会月としているが、今年初めて盛夏の8月例会を避け、1ヶ月繰り上げて7月に開催した。7月上旬は梅雨さなかであり、雨にあう危険もあったが、今年に限れば全くの正解であった。前日の朝までの予報では雨であったが、当日は時折日がさす程度の曇天、風もあり、この時期にして最高のウォーク日和になった。
そんなことある訳がないのに「この会は神のご加護が付いている」とまた言われてしまった。

◎全線がほとんど桜並木の緑陰。もちろん桜が咲いている時期に越したことはないが、この時期も直射日光に当たることもなく、良い設定であったと思う。この時期、こんな涼しいコースはもうできないと思う。

◎いつも説明を頂く日本河川協会会員の方が、急に朝方予定ができ、終えて駆けつけると連絡を頂いた。小口城址公園付近で落ち合うことができ、その後2カ所で説明を頂いた。この旨を説明したら、要請する前に一斉に拍手がおきた。誰もがその親切に感激されたのであろう。皆さん楽しみにしておられることがよく分かった。ありがたいことである。

◎小学3年の孫が前回に続いて参加した。今回は妻が参加しなかったので、知人の女性に世話を頼んだ。子供の参加はいろいろよい影響を及ぼす。子供や孫連れの参加が増えることを期待したい。

◎少し残念だったのは、参加者が過去2番目に少なかったことである。暑い時期や行事が重なった(実は私も重なっていた)ことが原因であろうが、それでも50名を超えたので、まずは喜ばねばいけないだろう。


川柳&ウォーク