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一宮友歩会・第7回例会 【史跡巡りシリーズ・西尾張編part3】
一宮市内(北部)の史跡を訪ねて
(全コース17km、ショートコース10km)
(*例会当日、下見時の写真が混在しています)
一宮友歩会第7回例会は「史跡巡るシリーズ・西尾張編part3」として、平成19年4月14日(土)、一宮市北部の木曽川町及び北方町を中心とした史跡巡りのウォークを企画しました。 例会日前々日までの天気予報では、これまで好天に恵まれた一宮友歩会例会もついに雨天のウォークになるのかと覚悟しました。ところがその雨も朝方にはあがり、出発時には好天です。 (左写真) 集合場所の木曽川資料館 時間前に開館してもらう。 |
出発してすぐに黒田小学校の一画にある黒田城址である。
黒田城主澤井雄重公記念碑 |
山内一豊公碑 |
黒田城址の前を走るJR東海道線を渡れば法蓮寺である。
法蓮寺(説明を聞く参加者) |
法蓮寺裏にある山内盛豊・十郎父子の墓 |
次は籠守勝手神社である。次々と史跡である。
籠守勝手神社 伝説に、二王子(億計王=24代仁賢天皇と弘計王=23代顕宗天皇)が難を逃れて、都から下るとき この宮で駕籠をとめ一夜を明かしたことからこの神社名があると言われる。今でも「お駕籠まつり」が 行なわれている。 平成11年(1999)に1555年祭が行なわれ、その折り境内に写真左の碑が建てられた。 |
そして、白山神社、伊冨利部神社と神社が続く。
史跡・馬取り池(白山神社) 自発的に史跡の説明する参加者 |
伊冨利部神社 澤井雄重公が再建。境内に澤井家頌徳碑が立つ。 |
東海北陸自動車道の一宮木曽川インターチェンジを周遊し、東海北陸自動車の側道を歩く。
田 所 遺 跡 東海北陸自動車道の工事時に発掘。 |
東海北陸自動車道(左側高架) |
織姫之碑、光明寺城址とまだまだ史跡は続く。
織姫之碑(光明寺霊園) 明治33年、光明寺の織物工場で火災、31名の 女工さんが亡くなった。昭和48年に供養塔が建てられた。 |
光明寺城址 織田信長の臣神戸伯耆守の居城。 岐阜攻略の拠点とした。 |
木曽川の堤防に出て、光明寺公園で昼食である。
お囲い堤 |
光明寺公園(前方はラクビー場) |
昼食後、木曽川堤防を下流に向けて歩く。強い風である。
後方は東海北陸自動車道、およびツインアーチ138
JR東海道線をくぐれば、木曽川堤防下に建つ北方代官所跡である。
北方代官所 天明元年(1781)に北方堤防上に北方代官所(陣屋)が設置され、 その管轄は尾張・美濃の両国に及び、併せて川並奉行所がおかれていた。 川並奉行所は木曽川の水運と治水の管理を職務とした。 |
街中を歩けばいろいろな史跡が目につくものである。
聖蹟・ヤマトタケルヤマトヒメ碑 |
馬頭観音 |
宇夫須奈神社 |
釈迦寺 |
尾西線玉ノ井駅近くの賀茂神社に到着する。
古神門(市指定文化財) |
賀茂神社 祭神は賀茂御祖神、別名雷神。鎌倉街道の 要地にある。所蔵の南北朝期のものと言われ る鬼神面は県指定文化財、古神門は市指定 文化財。玉ノ井の清水が出ており、 地名となった。茅の輪くぐりが行われる。 玉ノ井清水 光明皇后の目の病気を平癒させ、天皇や 武将などが訪れたと伝えられる「玉ノ井の霊泉」 |
連理の榊 |
そして、日本画家の大家・川合玉堂の生誕地に建つ「一宮市玉堂記念館・木曽川図書館」である。
木曽川図書館 |
左写真の植木の中に立つ 「川合玉堂生誕地碑」 |
川 合 玉 堂 明治6年一宮市木曽川町に生まれ、13歳から京都の日本画家・望月玉泉に絵を学んだ後、 17歳で円山四条派の幸野楳嶺の画塾に入門し、23歳で東京に出て狩野派の橋本雅邦に 師事した。以来、山村や田園風景など日本の自然とともに生きる人々の生活を主題に 描き続け、詩情豊かな独自の風景画の世界を築きあげた。 明治40年の文展開設時には34歳の若さで審査員となり、東京美術学校教授、 帝国芸術院会員などを歴任し、昭和15年には文化勲章を受章した。 |
川合玉堂筆の額を掲げた八剱神社や源頼朝公が宝剣を奉納したと
伝えられる剣光寺にも寄る。ここまで来ればゴールは近い。
八剱神社 |
剣光寺 |
ゴールは出発式と同じ木曽川資料館である。整理体操後、一宮友歩会が始めて
実施する、ウォーキング後の懇親会会場のJR木曽川駅南側の公園に来る。
この公園には見染塚が建つ。最後の最後まで学習である。
見染塚裏面の碑文 |
所々桜がまだ残る中、暑からず寒からず、6時間弱、17kmの快いウォーキングができた。
そして、史跡巡りというタイトル通り、いろいろな史跡を巡り、沢山の学習ができた。
更に1000円会費による初の懇親会も実施できた。
多くの人に協力、支援をしていただき良い例会となったことに感謝いっぱいである。