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水郷の街・弥富町を行く
平成17年5月1日、ゴールでウィークの 最中、特に遠出の予定もないので、昭和 歩こう会の例会に参加する。 午後から天気が崩れる予報の中、近鉄 弥富駅に65人が集まる。 弥富町には度々来ているが、今回のコー スの見学地にほとんど来ていないことに、 我ながらびっくりである。 |
近鉄弥富駅を出発して、まもなく弥富町役場である。
その敷地内に、伊勢湾台風時の水位の表示板があった。
そして、弥富町歴史民俗資料館である。入館し、20分ほど見学する。
弥富町道路元標が立っている |
弥富金魚22品種を常設展示 |
鍋田川に出て、少しさかのぼれば輪中公園である。
立田輪中人造堰樋門 木曽川改修工事に伴い、立田輪中普通水利組合が明治35年に完成した樋門。 排水や用水に利用されたが、別の幹線水路の完成により遊休樋門となった。 弥富町が譲り受け、水利史の遺跡として輪中公園の中に保存されている。 レンガ積み、上部は間知石積みで長さ21メートル、幅9.5メートル、高さ7メートルの土木構造物。 |
枇杷の木が多く目につく。袋掛けがされた風景がおもしろい。
続いて、弥富町指定の天然記念物・森津の藤である。
立派な門をくぐれば、今を盛りと咲いている。
森津の藤 1647年(正保4)の森津新田開拓当時に植えられたと伝えられている。尾張名所図会に 『棚の広さ縦横二十五間四面、およそ棚の高さ二間ばかりにして、 花の長さ四、五尺より一間程にも及べり』と紹介されされている。 1994年(平成6)に公園整備が行われ,花の時期には今でも大勢の人が訪れる。 |
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金魚の養魚場が続く。弥富町は「金魚」の生産量日本一を誇り、
また、流通拠点としても我が国有数の市場となっている。
筏川の海南橋を渡れば十四山村に入り、「海南子どもの国」である。ここで昼食である。
海南こどもの国は、自然の中で冒険やスポーツ、遊びを通じて体力の増進と豊かな情操を養うことを目的に、 愛知県が建設、昭和60年10月に開園した児童総合遊園。 中央・冒険・多目的・砦などの広場。 プール、ローラースケート、ゴーカートなどの有料施設もある。 |
昼食休憩中に雨が降り始める。天気予報通りである。森津神社に来る。
孝婦すゑの碑(森津神社南西角) |
(道草情報) 孝婦すゑの碑 (碑文の大意) 親に孝行することは人間としてすべての根本である。すゑはよく姑に仕え、近隣の 人々でその孝行ぶりをほめないものはなかったが、だんだん忘れられていくので、 石碑を立てて後世に伝えるものである。 すゑはおとなしくすなおな人で、舅・姑を大切にし、夫には真心をもって仕え、よく働 いた。夫は41歳で亡くなった。家は貧しく子供たちはまだ小さかった。その上、姑は 病気で自分の力では起きることも食事もままならぬ状態であった。すゑは昼間は農 耕に、夜は機織り、藁仕事と休みなく働き、くらしを立て、薬を買い、他人を頼ろうとし なかった。特に病気の姑に長い間、一生懸命尽くし、少しでも病状がよくなると説教を 聴かせに、また虫送りのような行事があると見せに連れて行き、夏は行水をさせ、 まったく実の母のように大事にした。人が見舞いに来ると、姑はすゑの孝心に感泣 して、すゑを拝んでくださいと言った。 このようなことが殿様の耳に入り、天明3年(1783)殿様はお金を与えてこの孝行 をほめた。(後略) (弥富町誌・資料編Tより) |
弥富中学校に来れば、校庭内に弥富町天然記念物・おみよしの松がある。
おみよし松 正保3年(1646年)の平島新田開拓当時の 植樹と伝えられ、樹齢は350年以上にもなる。 おみよし松の名の由来は、筏川の川岸に 津島神社の天王祭の御葦舟(葦で編んだ 小舟)が流れついているのを見て、 天王結縁の土地を記念して植樹し、 「御神葦松」と名付けたものと推察される。 昭和51年12月10日に、弥富町指定の 天然記念物となる。 |
さらに、昭和歩こう会の会員さんの好意で、親戚筋の自宅に建つ藍亭を案内される。
藍亭は漢詩人として全国的に知られた服部擔風(たんぷう)の書斎である。
服部擔風(たんぷう)は弥富町鯏浦に慶応3年に生まれる。少年の頃より漢学、漢詩を勉強。 38歳で佩蘭吟社を起こし、以来46の漢詩結社を指導。昭和39年98歳で逝去。 地方文化功労表彰、中日文化賞、日本芸術院賞等受賞。弥富町名誉町民。 |
そして、再び弥富駅に戻る。こうして少し雨に降られたが、
13km、5時間のウォークを無事終える。