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名古屋市南区の史跡巡り
2005年の初歩きは「昭和歩こう会」の1月例会となった。
1月9日、熱田神宮に9時に集合し、参拝後南区の白豪寺をめざす。
白 豪 寺 境内に愛知の語源となった年魚市潟 (あゆちがた)の碑が立つ。 |
鎌倉街道を通りながら、呼続公園を越えて、富部(とべ)神社に着く。
富 部 神 社 清洲城主で徳川家康の第4子松平忠吉が病気平癒による報恩の印として 1606年、社領100石を寄進し、本殿(国重文)、祭文殿、回廊を建てた。 |
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そして、名鉄本線を越えれば笠覆寺である。
笠 覆 寺 笠寺観音と呼ばれ、尾張四観音のひとつである。境内に寺を再興した 玉照姫、藤原兼平公夫妻を祀る真新しいお堂が建っている。 |
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(道草情報) 笠 覆 寺 (笠寺観音) 笠寺縁起によると、天平年間(729〜749)に禅光(善光)が呼続の浜に 漂着した霊木で十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置し、小松寺と 名づけたという。その後、寺は荒廃し観音像は野ざらしなった。これを哀れんだ 付近の娘が自らの笠をかぶせ像を雨露から守った。娘はやがて太政大臣藤原 基経の3男兼平の妻となり、兼平の援助で寺は再興され、笠覆寺と改めた。 その後300年余を経て再び荒廃したので、1238年、阿願によって 三度おこされた。当寺では禅光を開山とし、阿願を中興開山としている。 (出典:「愛知県の歴史散歩」(株)山川出版社) |
笠寺観音境内には武蔵の100回忌に際し、孫弟子の左右田邦俊の子孫門弟等が、 武蔵を顕彰して1744年に建てた武蔵の碑「新免武蔵守玄信之碑」がある。 また、巌流島の決闘後、江戸の将軍家への仕官が叶わず、東海道沿いに 鳴海から笠寺に来たところ、何者かの闇討ちに遭い、東光院に身を寄せ、 1年余り滞在したと言われている。東光院は笠寺観音の南約100mにある。 |
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宮本武蔵供養碑(笠覆寺境内) |
東 光 院 |
笠寺観音の南約700mの所に柏畑貝塚跡がある。
貝塚跡から500mばかり北に歩くと笠寺一里塚である。
笠 寺 一 里 塚 名古屋市内に残存する唯一の一里塚であり、土を盛った上にエノキが大樹と なって東海道をしのぶにふさわしい。かっては一対の塚であった。 |
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更に北へ500mばかり歩くと見晴台遺跡である。ここで昼食である。
見晴台遺跡 |
住居跡観察舎 |
観察舎内部の竪穴住居 |
名古屋の航空機生産の軍需工場を 防空するために、六門の高射砲を 設置した陣地跡。現在、見晴台遺跡に ニ基を残すのみで市で保護している。 左写真は高射砲を据え付ける砲床。 |
更に北へ300m歩くと八幡神社である。
その境内に桜田貝塚や、桜田勝景跡の碑が立っている。
今度はビックリするような巨大なクスノキの立つ村上社である。
この樹木は、根回り約13.2m、地上1.5mの幹回り約10.8m、樹高約20mである。 枝張りは、東西、南北ともに約22m、樹齢約千年といわれ、樹勢なお旺盛である。 昭和62年6月、名古屋市天然記念物に指定された。 |
鳥栖八剣社古墳を見て、南区の史跡巡りの最後は東宝寺である。
東 宝 寺 桜中村城の家老屋敷跡とも伝えられる。境内に立つ桜村固本碑には、桜村の 土地が荒廃し、村民は生活に苦しんでいたので、村役人の村瀬藤九郎がこの状況を 訴えて十年間の年貢の軽減が許され、村民が喜んだという意味の文が刻まれている。 |
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名鉄本線本笠寺駅に2時前に到着、早い帰宅となる。
今日は愛知県ウォーキング協会の支部の例会であり、私に何の役割もなく、
のんびりと気ままに写真を撮りながら、歩く楽しみを味わうことができた。
こんな歩き方久しぶりの気がする。
川柳&ウォーク