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木曽川橋往来
(愛知県一宮市・岐阜県笠松町)
平成15年の夏は雨が多く、まさしく冷夏である。8月23日は
処暑であったが、名古屋では何とこの日がこの夏の最高気温であった。
そしてこの暑い日に一宮歩こう会の8月例会があった。
名鉄尾西線玉の井駅近くの釈迦寺に9時集合する。
この暑い日に参加者は80名以上ある。
釈迦寺やその近くの秋葉社に珍しい留蓋を見つけ、写真に撮る。
そして、9時15分出発となる。
木曽川橋付近地図
木曽川堤防にでた後、堤防に沿って北上する。この堤防は
「お囲い堤」といい、1610年、尾張藩主徳川義直によって
犬山から弥富まで47kmにわたって築かれた。
そして、最初に見所「雀のお宿」に着く。
雀 の お 宿 病弱のため早稲田大学を中退した野田素峰が、 大正10年に北原白秋、野口雨情らの支援に よって、虚弱児の救済のために造った施設。 命名は北原白秋。最初は一宮市内であったが、 昭和2年にこの木曽川河畔に移転した。 現在は竹藪となっており、奧に右の碑が 立っている。昭和11年に恵那市に移転した。 |
雪の日は 松わたる風 床に聞く |
旧国道22号をくぐりまもなく、5差路の道路脇に馬頭観音を見つける。
馬 頭 観 音 馬頭観音は頭上に馬頭をいただいて憤怒の形相をした観世音菩薩。 馬の保護者として、特に江戸時代に深く信仰された。 この辺りは水運と陸運の接点で、多くの荷馬車による運送業が盛んで、 馬の健康と亡くなった馬の冥福を祈って建てられたのであろう。 |
沿道の木材会社に皆が入っていく。何があるかと自分もつられて入っていく。
電車道(尾西鉄道) 歩いてきた市道は、地元では「電車道」と 呼ばれる道であった。大正3年8月、尾西 鉄道により新一宮〜木曽川橋間の営業が 開始された。その後一部延伸、廃線され たりがあったが、玉の井〜木曽川橋間は 昭和19年3月に廃線され道路となる。 |
尾西鉄道の引き込み線が 残されたままの木材工場 |
宝江渡船場跡を見た後、木曽川橋を渡る。
木 曽 川 橋
木曽川橋の上流100mばかりの所に数基の橋脚の跡がみえる。
木 橋 橋 脚 跡
明治43年に造られたヒノキ造りの木橋橋脚の跡。
河床低下によって出現したと思われる。
上流にみえる橋は、名古屋鉄道本線。
木曽川橋を渡ると笠松町である。すぐ右折すると
「笠松港渡船所跡」である。笠松港公園も整備されている。
笠松港渡船場跡 |
渡船場へ降りる石畳 |
笠松港公園 川灯台や京みち道標が設置されている。 |
芭蕉句碑 芭蕉句碑も設置されている。 「はせを」は芭蕉の別名 |
旧家が点在する町中を見ながら、産霊神社で再び休憩する。
そして、今度は笠松問屋跡に「鮎酢街道」碑が立っている。
笠松県庁跡を見て、昼食場所であり、ショートコースの
ゴールである笠松競馬場に11時半到着である。
笠 松 競 馬 場 昭和5年に設立される。馬場中央のコース外では稲や野菜が栽培されていた。 |
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オグリキャップの像 笠松競馬場西入り口近くに立つ。 |
数々の重賞レースを制し、平成2年の 有馬記念の優勝を最後に引退した この名馬は笠松競馬場育ちである。 |
昼食後はこの夏最高気温の炎天の中、国道22号の新木曽川大橋を渡って
再び愛知県に戻り、JR木曽川駅をめざす。途中、神社で2回ばかりの
休憩をとったのみで13km、5時間ばかりのウォークを無事終える。
暑い中、歩いて疲れきって、また気分爽快である。
今日もまた知らない名所・旧跡に沢山であった。
これだけ近くて、これだけまだ知らないとは・・・。
残り人生を歩き続けても、興味は尽きないだろう、
そんなウォークに乾杯。