例 会 案 内

第92回ウォーク例会
開 催 要 項


 
     
【史跡巡りシリーズ・岐阜編part14
                   13km

1.開催日時   令和4年10月1日(土) 9時~(15時)

2.集合場所   JR東海道本線 垂井駅

3.コース等   垂井駅→垂井の一里塚→エコドーム→伊富岐神社→菁莪記念館→

        竹中氏陣屋跡→禅幢寺→南宮御旅神社→美濃国府跡→垂井駅

        
4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

            但し初参加の人及び誘って頂いた人は半額(150円)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

            
傷害保険の内容 
                         死亡・後遺障害保険  166万円
                        入院保険金(日額)   4000円
                        通院保険金        2000円


                               
主な見所の紹介


垂井の泉 

高札場 

西の見附 

垂井の一里塚 

エコドーム 

五明稲荷神社 

伊富岐神社 

禅幢寺 

竹中氏陣屋跡 

菁莪記念館 

南宮御旅神社 

美濃国府跡 


主な見所の説明

◎垂井の泉
 垂井町の中央部にある玉泉寺の門前南側、県天然記念物「垂井の大ケヤキ」の根本から湧き出ている。地名垂井の起源ともされる。井口は約2m四方で、周囲に石玉垣をめぐらしている。傍らに「垂井之泉」の四文字が刻まれた碑が建っている。東山道・中山道を旅した人々の休憩の場所であった。また、『続日本紀』天平12年(740)の条に見える「曳常泉」がこの泉であるとの考えもあり、その後も歌枕に詠まれた名高い泉である。

◎五明稲荷
 天正6(1578)年岩手城主竹中半兵衛公が三木城攻略中、摂津有岡城主荒木村重は織田信長に反旗を翻した。半兵衛公の親友である黒田官兵衛が説得に当たったが、かえって石牢に幽閉されてしまった。主君である織田信長は官兵衛も寝返ったと思い込み、人質にしていた官兵衛の嫡男松寿丸を殺すように命じた。半兵衛公は官兵衛に二心はないと信じて松寿丸を五明にかくまった。その後、有岡城から官兵衛が助け出されると松寿丸も許され、岩手を去るときに境内の銀杏の木を植えたと伝えられている。(解説板より)

◎伊富岐神社
 古代伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏の祖神をまつっている。付近には石器時代の遺跡や山頂古墳も多い。古来より美濃の二の宮として崇敬されており、岐阜県指定の天然記念物の大杉がある。この大杉は根元の周囲約9.6m、目通り約6.6m、高さ約30mで、地上5mあたりから四本の幹に分かれている。枝張りは東西約10.5m 南北約16m。いい伝えによると関ケ原の戦いの時、社殿は兵火にかかったが、御神体は幹の分れたところに安置してあったので安泰であったという。古来より御神木として仰がれている。

◎禅幢寺
 永禄元(1558年)竹中重元が岩手禅正某と戦い、その城を攻略し、この地の菩提山に城を新築し領主となる。その子竹中半兵衛重治は、父と共にこの城に住み、その後、秀吉の与力として秀吉に重用された。天正15年(1587年)重治の子の重門が、父の菩提を弔うため墓を当山に移築し、父を当山の開基と定め、以後現在に至るまで竹中家及びその家臣の菩提所となっている。
 現在の本堂は、重門の子重常が寛文3(1663)年3月に建立したもので、享保12年(1727)7年3月、明治9年(1876)年6月に修覆され、昭和54年4月には開基400年際を厳修するにあたり、100年ぶりに修繕したものである。

◎ 菁莪記念館
 旗本の竹中氏が天保13(1842)年に文武両道を指導する為に菁莪堂を開校。明治になり菁莪義校となったが、当時の建築様式を再現し資料が展示されている。記念館庭にある顕彰碑等は以下のものである。
・神田孝平顕彰碑=幕末に商工立国論を唱え、維新後は明治政府に出仕し明治4年兵庫県令、元老院議官、貴族院議員等を歴任し男爵を授けられた。
・国井化月坊句碑=天保13(1842)年菁莪堂が開校した際に和漢、武道を教授し安政4年(1857年)に美濃派15世の道統を継承した。句「月のあと 残した藪の 梅白し」が刻まれている。
・赤報隊顕彰碑=不破郡から16名が赤報隊に参加したが偽官軍の罪で安中藩と戦闘となり2名が戦死、1名が牢死、3名が負傷した。主君の為に犠牲となった兵士を弔い顕彰碑が建立された。

◎南宮御旅神社(美濃国府跡)
 南宮大社の神輿のお旅所として知られる神社。古代に美濃国国府があった地に建つ古社。境内から美濃国国府の政庁跡が発掘され、政庁正面にのびる南北道路の朱雀路跡なども見つかっている。平成3年から平成15年にかけての発掘調査の結果、境内から美濃国国府の正殿跡の一部が、さらにその南側から東西の脇殿跡が発掘されている。それまで安立寺が美濃国国府跡と推測されており、安立寺境内に「美濃国府廰趾」碑が立っているが、南宮御旅神社の社殿南側に国府の政庁が築かれていたことが判明した。美濃国府政庁(国府の中心となる建物)の範囲は、南北73m、東西66mという巨大なものだったことがわかり、安立寺あたりが北限と推測されている。