例 会 案 内
第9回ウォーク例会・開催要項 |
2.集合場所 中央公園(名鉄犬山線江南駅より東へ700m) 3.コース等 中央公園→宮後城址→前野屋敷→堀尾跡公園→布袋駅 (13.5km) 5.その他 *雨天でも開催します。 *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。 *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、
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主な見所の紹介
宮後城跡 |
五丁堀砦跡 |
前野屋敷跡 |
若宮八幡宮 |
尾北自然歩道と五条川 |
堀尾跡公園・裁断橋 |
富士塚 |
生駒屋敷跡 |
久昌寺 |
吉乃の墓(右端・久昌寺境内) |
広間家の門 |
布袋大仏 |
見 所 説 明 *宮後城跡 河岸段丘を利用した戦国時代の砦跡。蜂須賀小六正勝・家政親子が住んだ安井氏の屋敷跡と言い伝えられている。規模は南北150m、東西120mにも及び、周囲に土居や濠をめぐらしたもので、中世城館の跡としては、貴重なものである。小牧・長久手の戦いの後、取り壊されたという。 *宮後八幡社 寛永元年(1624)に徳島城主となった蜂須賀家政が再建・寄進したものである。本殿は一間社・流造り・桧皮葺で、正面の向拝・かえる股の菊花彫刻・側面の梁の切口に見られる懸魚(げぎょ、飾板の彫刻のこと)は桃山時代の建築様式を伝え、愛知県の文化財に指定されている。当地方における八幡造の代表的な古建築である。 *五丁場砦 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時、西軍に備えて五丁有余の掘割を構え、前野喜右衛門義康は三百余騎をもって砦を守ったという。 五町堀萩の歌 立ちいでて 五町の堀を 見渡せば 錦おりなす はぎさかりなり *前野家屋敷跡 前野氏一族は、信長、秀吉、家康に仕え、生駒氏・蜂須賀氏とも関係が深い。現在の吉田龍雲氏の屋敷の一帯である。江戸時代以降は、庄屋として生き延び、その家系は現在に至るまで連綿として続いていて、「武功夜話」をはじめとする古文書のほか、武具類、書画、服飾品等貴重な資料が残されている。 *富士塚の碑 富士塚は、前方後円墳と考えられる高さ約6.5m、長さ約30mの小山である。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時、東軍の家康は小折村の生駒屋敷を訪れ、織田信雄と共にこの塚に登って、敵である西軍(秀吉軍)の陣形を視察したといわれている。塚の上にある碑は、当時富豪としてこの一帯で勢力を持っていた生駒氏の第6代利勝が、天和4年(1684)生駒氏の由緒と武勲を後世に伝えるために、生駒氏の家紋(亀甲に五三の桐)にちなんで六角柱の石に碑文を刻み、亀形の台石上に建てたものである。お亀塚・お亀山とも呼ばれていて、市の文化財に指定されている。「尾張名所図会」には、碑銘塚として挿絵が載っている。(脇の道は柳街道) *生駒屋敷跡(小折城跡、御在所屋敷跡) 初代生駒家広が、大和国生駒郡からこの地に移住してからの屋敷であり居城でもあった。生駒氏は、馬借(運送業)を業として灰や油を商って栄えた土豪で、第3代家宗の娘(吉乃)が信長の室となり、以後生駒・織田は親密な関係となり、尾張一円を支配するようになった。信長の死後、尾張の領主となった織田信雄は小折城を大規模に改修、久昌寺も取り込んで東西370m、南北540mという広大な構えであったという。生駒氏第6代利勝が尾張藩士となってからは、名古屋城下にも屋敷を持ったので、ここは生駒氏の別邸となった。明治維新の廃藩置県・版籍奉還により、生駒屋敷は田畑や宅地になった。 *久昌寺 南北朝時代に創建され、はじめは禅喜寺、ついで龍徳寺といっていた。生駒氏の移住後、生駒氏の菩提寺となった。第3代家宗の娘・吉乃(信長の室、信忠・信雄・徳姫の母)が永禄9年(1566)に没した時に、その法名「久庵桂昌大禅定尼」にちなんで、久昌寺と寺号が改められた。信長からは香華の場として、660石を賜った由緒ある寺といえる。本堂西側の墓地には、生駒氏一族ならびに吉乃(久庵桂昌)の墓碑が立ち並んでいる。 *広間家の門 広間家は、先代(5代目)からずっと生駒家のご用医として明治初期まで仕えてきた。この門は、明治維新の廃藩置県の時、生駒家にあった中門をもらいうけ移築したもので、現存する生駒屋敷の遺構としては唯一のものであり、市の文化財に指定されている。欅造りで門の正面には、生駒氏の家紋である亀甲形の平瓦になまこ壁が施されている。また、門の南側には駕寵が入っていたといい、駕寵の棒を挿す穴がついている。 *布袋の大仏(コンクリート薬師尊) 正式には、木曽御嶽本数福寿元教会の本尊・御嶽薬師尊という。布袋在住の故前田秀信が個人の浄財で建立したものである。奈良東大寺の大仏よりも約2m高くて、全長18mある。昭和29年3月24日に開眼した。 |