例 会 案 内

第88回ウォーク例会・開催要項


 
     
【河川探訪シリーズ・二之枝川編part4
                   11km

1.開催日時   令和3年12月4日(土) 9時~(15時)

2.集合場所   名鉄津島線 勝幡駅(北口)

3.コース等   勝幡駅→勝幡神社→兼平堤→津島の大椋碑→清正公社→津島神社

              →天王川公園→佐屋代官所跡→佐屋駅

4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

            但し初参加の人及び誘って頂いた人は半額(150円)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

          
傷害保険の内容    死亡・後遺障害保険  166万円

                          入院保険金(日額)   4000円

                          通院保険金        2000円


                               
主な見所の紹介


勝幡神社 

釜地蔵 

上街道 

兼平堤碑 

津島の大椋碑 

清正公社 

津島神社 

天王川公園 

佐屋用水 

佐屋代官所跡 


主な見所の説明

 ◎勝幡神社
 大正7年(1918)に集落内にあった「白山神社」「市杵嶋姫社(弁才天社)」「富士社(太刀堂権現社)」を合祀して、現在の「勝幡神社」になったという。
3月の第2日曜日に行われる春の大祭「勝幡オコワ祭」が有名。オコワ祭りは、宿元で準備された檜の樽に詰められたオコワを縄で編みこんで縛ったものを勝幡神社まで行列を組んで練り歩き、神社での神事を終えると、その樽に詰められて縄で縛られたオコワを大きな石にたたきつけ、樽が割れて中から餅になってしまったオコワが飛び出すと、周りにいた人たちがその餅に突進し餅と割れた檜の木を取り合うというもの。境内を出たところに石が置いてあって「オコワ石」と称されているが磐座の跡とも思われる。

◎釜地蔵寺
 真言宗智山派の寺院。本尊の鋳鉄地蔵菩薩立像は江戸時代の作で、釜の上に立っている事から「釜地蔵」と呼ばれ、尾張六地蔵のひとつ。県指定文化財。釜地蔵はまま子いじめでいじめられた子どもの身代わりになったという伝説がある。

◎清正公社
 加藤清正(通称虎之助)は、永禄5(1562)年に、今の名古屋市中村区で生まれたが、数え三つの年に父・清忠が亡くなり永禄9年に母・伊都と共に叔父が住んでいた津島市(上河原町)に寄寓した。清正の徳を偲んで明治18年に現在地に社と碑が建てられた。

◎佐屋代官所
 佐屋はその昔、慶長20(1615)年家康が大坂夏の陣にここから船出し、大勝した徳川方吉祥の地。藩祖義直もこの事を嘉し寛永11(1634)年佐屋街道佐屋宿、佐屋湊、佐屋御殿を設け、更に船番所を置くに及んで、佐屋は天下に知られるに至った。そのため元禄8(1695)年奉行所が、ついで天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄、寛永文久と、二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。

◎津島上街道
 津島、勝幡、木田・甚目寺、新川、名古屋を結ぶ街道(3里15町、約13.5km)をいう。もともと上街道は鎌倉街道の甚目寺の萱津宿と津島に行く道として発達した。江戸時代は美濃街道から分かれ、津島に向かう道として津島神社に参る人たち、巡見使(米の出来ぐあいや生活を見るために派遣された人)、商人たちで街道はにぎわった。街道の始まりは津島の橋詰三叉路で、現在は石道標が残っている。江戸時代には神社と三叉路の間に流れていた天王川に、長さ100m以上の天王橋という大きな橋がかかっていた。
 街道の津島と勝幡の間はかつての天王川堤防に沿って通っている。勝幡から甚目寺にかけては、名鉄津島線がすぐ脇を通っている。