例 会 案 内


下記の案内は11月7日(土)に延期しました。
その時の参考にしてください。(3月27日記

第85回ウォーク例会・開催要項


 
     
【史跡巡りシリーズ・西尾張編partR2
                   12km

1.開催日時   令和2年4月4日(土) 9時~(15時)

2.集合場所   名鉄本線 新木曽川駅駅(木曽川資料館)

3.コース等   新木曽川駅→木曽川資料館→黒田城址→法蓮寺→籠守勝手神社→

        光明寺霊園→北方代官所跡→木曽川堤駅→宝江の渡し跡→雀の宿公園

        →宇夫須奈神社→賀茂神社→玉ノ井駅

4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

            但し初参加の人及び誘って頂いた人は半額(150円)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

            
傷害保険の内容     死亡・後遺障害保険  166万円
                             入院保険金(日額)   4000円
                             通院保険金        2000円


                               
主な見所の紹介

 
黒田城址

法蓮寺 
 
籠守勝手神社
 
田所遺跡

光明寺霊園 

光明寺城址 
 
光明寺公園

北方代官所跡
 
森春濤詩碑

宝江の渡し跡 
 
木曽川橋駅跡
 
雀の宿公園
 
宇夫須奈神社

賀茂神社 


主な見所の説明

◎籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ)
延喜式の黒田神社の古くからの通称であり、正式に籠守勝手神社と改称したのは明治時代初期。億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が雄略天皇から逃れるさい、ここに宿泊したと伝えられ、これを後世に伝えるために行なわれているのが御駕籠祭(おこもりまつり)である。厄払い、豊年を祈願する祭であり、1500年以上の歴史がある。かつては、神社に勝手に籠もり心より願をかけると、必ず成就するといわれていた。現在は行なわれていない。

◎光明寺霊園・織姫乃碑
 明治33年(1900)1月、現一宮市光明寺の一織物工場で49名の女子労働者が機織場の2階2間の寄宿舎に住み込んでいた。午前3時ころ、その階下から出火。そこには太い鉄の柵がはめられていた。鎮火後、散乱した遺体は13歳の少女数人を含む31名の女子労働者のものと認められた。当時、寄宿舎の窓に鉄棒をはめ込むのは、「男などの入るべからず様」とこの地方の織物業者一般のしきたりであったといわれるが、こうした形で女子労働者の身柄を拘束していた。

◎北方代官所
 尾張・美濃の両国をまたがって管轄した代官所(陣屋)。代官所は、江戸時代に江戸幕府直轄の領地(支配所、天領)に設置され、代官が派遣されて統治を行っていた。この代官所は尾張・美濃国内で171村8万7193石余りの広大な地域を支配していた。この陣屋には1659年よりあった川並奉行所があり、奉行を代官が兼務して、木曽川から切り出し、筏で届く木材の管理していた。川並奉行所は、当時の木曽川堤防馬道を挟んだ川岸に御番所を置き、船の積荷を検閲、夜は船の往来を禁止していた。(1871年に廃止)

◎雀のお宿
 創設者である野田素峰(順之助)(1892~1947)は、明治25年に現在の一宮市大和町花池に生まれた。生来病弱で早稲田大学を中退、愛妻とともに故郷へ帰り本町で書店を開きましたが、まもなく愛妻が病死。自分と同じ境遇の虚弱児の救済を発願して、大正10年、北方町宝江に療養施設を造る。しかしながら、当時は児童の愛護事業に対する社会の理解は乏しく、昭和2年に木曽川町里小牧の木曽川河畔に移転した。施設運営の道は険しく、何度もの挫折があったが、早稲田大学時代に知り合った北原白秋、野□雨情らの支援を受けながら、少しずつ社会の理解を得られるようになった。「雀のお宿」の名付け親は北原白秋とされている。昭和11年秋、木曽川堤の改修工事に伴い、恵那峡に移転した。そして、戦争が厳しくなる中、昭和17年に閉鎖された。

◎賀茂神社
 延喜式にある尾張国葉栗郡の穴太部神社であるとされている。境内に湧出する清水は「玉ノ井霊泉」(玉ノ井清水、玉井清水)といい、この周辺の地名「玉ノ井」の由来となっている。この清水は光明皇后の目の病気を平癒させたといわれており、現在も眼病平癒の信仰がある。