例 会 案 内
下記の案内は11月7日(土)に延期しました。
その時の参考にしてください。(3月27日記)
第85回ウォーク例会・開催要項 |
1.開催日時 令和2年4月4日(土) 9時~(15時) 3.コース等 新木曽川駅→木曽川資料館→黒田城址→法蓮寺→籠守勝手神社→ 5.その他 *雨天でも開催します。 *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。 *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全 健康管理は自己責任でお願いします。
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黒田城址 |
法蓮寺 |
籠守勝手神社 |
田所遺跡 |
光明寺霊園 |
光明寺城址 |
光明寺公園 |
北方代官所跡 |
森春濤詩碑 |
宝江の渡し跡 |
木曽川橋駅跡 |
雀の宿公園 |
宇夫須奈神社 |
賀茂神社 |
主な見所の説明
◎籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ) 延喜式の黒田神社の古くからの通称であり、正式に籠守勝手神社と改称したのは明治時代初期。億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が雄略天皇から逃れるさい、ここに宿泊したと伝えられ、これを後世に伝えるために行なわれているのが御駕籠祭(おこもりまつり)である。厄払い、豊年を祈願する祭であり、1500年以上の歴史がある。かつては、神社に勝手に籠もり心より願をかけると、必ず成就するといわれていた。現在は行なわれていない。 ◎光明寺霊園・織姫乃碑 明治33年(1900)1月、現一宮市光明寺の一織物工場で49名の女子労働者が機織場の2階2間の寄宿舎に住み込んでいた。午前3時ころ、その階下から出火。そこには太い鉄の柵がはめられていた。鎮火後、散乱した遺体は13歳の少女数人を含む31名の女子労働者のものと認められた。当時、寄宿舎の窓に鉄棒をはめ込むのは、「男などの入るべからず様」とこの地方の織物業者一般のしきたりであったといわれるが、こうした形で女子労働者の身柄を拘束していた。 ◎北方代官所 尾張・美濃の両国をまたがって管轄した代官所(陣屋)。代官所は、江戸時代に江戸幕府直轄の領地(支配所、天領)に設置され、代官が派遣されて統治を行っていた。この代官所は尾張・美濃国内で171村8万7193石余りの広大な地域を支配していた。この陣屋には1659年よりあった川並奉行所があり、奉行を代官が兼務して、木曽川から切り出し、筏で届く木材の管理していた。川並奉行所は、当時の木曽川堤防馬道を挟んだ川岸に御番所を置き、船の積荷を検閲、夜は船の往来を禁止していた。(1871年に廃止) ◎雀のお宿 創設者である野田素峰(順之助)(1892~1947)は、明治25年に現在の一宮市大和町花池に生まれた。生来病弱で早稲田大学を中退、愛妻とともに故郷へ帰り本町で書店を開きましたが、まもなく愛妻が病死。自分と同じ境遇の虚弱児の救済を発願して、大正10年、北方町宝江に療養施設を造る。しかしながら、当時は児童の愛護事業に対する社会の理解は乏しく、昭和2年に木曽川町里小牧の木曽川河畔に移転した。施設運営の道は険しく、何度もの挫折があったが、早稲田大学時代に知り合った北原白秋、野□雨情らの支援を受けながら、少しずつ社会の理解を得られるようになった。「雀のお宿」の名付け親は北原白秋とされている。昭和11年秋、木曽川堤の改修工事に伴い、恵那峡に移転した。そして、戦争が厳しくなる中、昭和17年に閉鎖された。 ◎賀茂神社 延喜式にある尾張国葉栗郡の穴太部神社であるとされている。境内に湧出する清水は「玉ノ井霊泉」(玉ノ井清水、玉井清水)といい、この周辺の地名「玉ノ井」の由来となっている。この清水は光明皇后の目の病気を平癒させたといわれており、現在も眼病平癒の信仰がある。 |