例 会 案 内

第61回ウォーク例会・開催要項



 
       
【史跡巡りシリーズ・西尾張編part14
                   13km

1.開催日時   平成28年4月2日(土) 9時~(15時)

2.集合場所   近鉄 弥富駅

3.コース等   弥富駅→鯏浦城址→荷之上の力石→金樹寺→御着船所跡→

        黒川治愿君功徳碑→水郷の塔→歴史民俗資料館→人造堰樋門→

        森津の藤→おみよし松→弥富駅


4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

            但し初参加の人及び誘って頂いた人は半額(150円)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

            
傷害保険の内容     死亡・後遺障害保険  166万円
                             入院保険金(日額)   4000円
                             通院保険金        2000円


                               
主な見所の紹介


 
鯏浦城址
 
興善寺地蔵
 
荷之上の力石
 
服部家住宅
 
金樹寺
 
御着船所跡
 
黒川治君功徳碑
 
総合福祉センター
 
水郷の塔
 
歴史民俗資料館
 
資料館前標識
 
立田人造堰樋門
 
森津の藤
 
おみよし松


主な見所の説明

◎薬師寺の大楠
 樹齢600年以上といわれる古木で、かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名であった。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には豊臣秀吉が舟をつないだとも伝えられている。この樹下には小祠神明社が祀られ参拝者が跡を絶たなかったというが、明治時代に弥富神杜に合祀された。

◎興善寺地蔵
 寺伝によれば、桓武天皇の勅願により延暦14年(795年)に創建されたという。天正2年(1574年)、織田氏に焼き払われた後再興されたが、寛永8年(1631年)の大地震で倒壊し清洲に移転し、さらに名古屋に移った。この地蔵は、明治24年(1891年)の濃尾地震後に、白頭池から2体掘り出され、荷之上の墓地に安置されたもので、興善寺の地蔵と伝えられている。

◎服部家住宅
 服部家は中世以来の家系で、戦国時代の混乱の後、天正4年(1576)に旧領に配下の家来を従えて戻り、現在地に居を構えたという。屋敷地は荷之上城の跡地と伝え、かつては東西北の敷地三方に堀が巡っていた。南に長屋門形式の表門を開き、敷地中央に主屋、主屋の北西に離座敷が建つ。主屋、離座敷、表門が重要文化財の指定を受け、表門東西の土塀、主屋東南の土塀と便所、離座敷北の文庫蔵、古図2枚、普請文書2冊と宅地が附指定されている。

◎水郷の塔
 1994年に弥富市のシンボルとして建設された。高さ14m、吹き上げる水をイメージした塔。木曽川を望むタワーの展望台からは、西に鈴鹿山系の雄大な眺めが、東に弥富市を一望できる。

◎立田輪中人造堰樋門
 木曽川の洪水を防ぎながら農業用水を引き入れ、排水を輪中の外へ出すのに苦心を重ねてきた立田輪中普通水利組合は、木曽川改修工事の行われた1902年(明治35)にこの樋門を完成させた。石灰と土を使った人造石工法で作られている。当初より排水としての効果はあまりあがらず用水の取水に利用されるようになったが、海部幹線水路の完成とともに遊休樋門となった。現在,立田輪中から弥富市が権利を継承し、郷土の水利史の遺跡として輪中公園の中に保存されている。

◎森津の藤
 この藤は、正保4年(1647年)の森津新田開拓当時に植えられたと伝えられており、尾張名所図会に『棚の広さ縦横二十五間四面、およそ棚の高さ二間ばかりにして、花の長さ四、五尺より一間程にも及べり』と紹介され、花が満開になると昼間でも空が見えず、まるで紫の雲に覆われたようだとも記されている。伊勢湾台風により樹勢に衰えがみられるものの、平成6年に公園整備が行われ、花の時期には今でも大勢の人が訪れる。

◎おみよし松
 正保3年(1646年)の平島新田開拓当時の植樹と伝えられ、樹齢は350年以上にもなる。おみよし松の名の由来は、筏川の川岸に津島神社の天王祭の御葦舟(葦で編んだ小舟)が流れついているのを見て、天王結縁の土地を記念して植樹し、「御神葦松」と名付けたもの。昭和32年の旧弥富中学校建設のとき、筏川の一部が埋め立てられ、川岸にあった松が校庭内にとりこまれた形になった。