例 会 案 内

第56回ウォーク例会・開催要項



 
       
【史跡巡りシリーズ・名古屋編part5
                   13km

1.開催日時   平成27年6月6日(土) 9時~(15時)

2.集合場所   名鉄本線 鳴海駅(西口)

3.コース等   鳴海駅→城跡公園→鳴海球場跡→砦公園→中島砦→大高緑地→

        丸根砦→春江院→大高城址公園→長寿寺→鷲津砦公園→明忠院

        →鳴海八幡社→鳴海駅


4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

            但し初参加の人及び誘って頂いた人は半額(150円)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

            
傷害保険の内容     死亡・後遺障害保険  166万円
                             入院保険金(日額)   4000円
                             通院保険金        2000円


                               
主な見所の紹介


 鳴海宿本陣跡

鳴海城跡公園 

誓願時 
 
鳴海球場跡

砦公園 
 
鳴海絞開祖三浦之碑

中島城址 
 
平部町常夜灯

大高緑地 

丸根砦 

春江院 

大高城址公園 

長寿寺 
 
鷲津砦公園
 
明忠院
 
鳴海八幡社


主な見所の説明

 ◎鳴海宿
 鳴海は古くは成海とも書き海に面していた。鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海街道の名産品として人気をはくし、現在も伝統産業として続いている。本陣が1、脇本陣が2、旅籠が68あった。

◎鳴海城
 根古屋城ともいい、応永年中(1394~)安原宗範の築城といわれる。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となった。

◎鳴海球場
 大正末からの野球熱の高まりにより名古屋にも東京の神宮球場、大阪の甲子園球場に並ぶ大球場建設の気運が高まる中、昭和2年10月、愛知電気鉄道(現名古屋鉄道)が沿線開発として建設した。収容人員は22,500人であり両翼は106mセンターは136mと広さで甲子園球場を凌駕するものであった。
 昭和26年スタンドを大改造し収容人員40,000人のプロ野球公式規格の球場としたが、中日スタジアムに繁栄を奪われ、昭和33年10月に閉鎖した。

◎中島砦跡
 丹下・善照寺の3つの砦で鳴海城を包囲するために織田信長が扇川と手越川の合流点に築いた砦で梶川平左衛門以下260名の武士を配置した。規模は長さ80間(144メートル)、幅50間(90メートル)ともいわれ、信長は善照寺砦からこの砦を経て桶狭間に向かった。砦が廃された跡は梶川の五輪塔が残されていたが今はない。

◎長寿寺
 永禄3年(1560)今川義元、織田信長の兵火に寺は焼失、その後、江戸時代に入り尾張藩の家老の大高領主志水甲斐守忠継の祖母長寿院元操尼は黄檗宗の信仰深く、寛文7年(1667)その臨終に鷲津山の地に禅寺を建立し妾像を安置せば永くこの地を守護せんと孫忠時に遺命し、天和2年(1682)伽藍を竣工した。
 現在の本堂、庫裏、開基堂は、昭和53年改築したもの。志水氏の菩提寺として、寺域山中に志水家九代~14代の墓がある。

◎明忠院(みょうちゅういん)
 天正元年(1573年)鷲津山領主山口海老之丞が父母の追善のため創建。元は中之郷に明忠庵と称し真言宗に属して六坊の密院を建て広い寺域を持っていたが、兵火で焼かれ廃寺同様になっていた。元和5年(1619年)海老之丞の孫ら山口一族が再興し、春江院の善庵和尚を中興開山として曹洞宗に改宗。享保17年(1732年)現在地に移転。
 1921(大正10)年、明忠院の住職 服部賢準氏が、父母が農作業中に田畑などに放置されたままの幼児を見て幼児保育の必要性を痛感し、寺の本堂で 農繁期の幼児保育を始めた。1949(昭和24)年に 愛知県における第1号の保育園として認可され、境内にその記念碑がある。