例 会 案 内

第25回ウォーク例会・開催要項



 
       
【史跡巡りシリーズ・西尾張編part7】
                   15km

1.開催日時   平成22年4月10日(土) 9時〜(15時)

2.集合場所   名鉄津島線 甚目寺駅(甚目寺観音)

3.コース等   甚目寺観音→円周寺→プロムナード→小町塚→菊泉院

         二ッ寺親水公園→文化の森→歴史民俗資料館→(Sコース:木田駅

         10km)→八剱社→七宝焼きアートビレッジ→芳春院の里

         →七宝駅

4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

            
傷害保険の内容      死亡・後遺障害保険  166万円
                             入院保険金(日額)   4000円
                             通院保険金        2000円


                               
主な見所の紹介


甚目寺観音・楼門

甚目寺観音・三重塔

花と緑のプロムナード

平成プロムナード

晴明塚

小町塚

福島政則公生誕地碑

菊泉院・福島政則公菩提寺

二ツ寺親水公園

美和町文化の杜

美和町歴史民俗資料館

五八悪水治水記念碑

津島街道(上街道)

葛ノ葉稲荷神社

七宝焼アートビレッジ

芳春院の里


主な見所の説明

◎鳳凰山甚目寺
 江戸時代から尾張四観音の筆頭として、現在でも尊崇を集めている。創建は「推古天皇5年(597)伊勢の甚目龍麻呂という漁師が海中より紫金の聖観音菩薩を網にかけ、近くに一草堂を建て甚目寺と名付けておまつりした」とされている。平成2年の発掘調査では白鳳時代(7世紀後半)の単弁蓮華文軒丸瓦や柱跡などが発見された。現在、塔心礎以外、創建時の痕跡は残っていないが、国指定重要文化財でもある三重塔・南大門・東門などにその歴史の古さが忍ばれる。

◎晴明塚(清明遺跡)
 昔、安部晴明がこの地を通ったときに、農夫が田の中に繁茂した雑草で困っていた。見かねた晴明が祈祷を行い、その害を取り除いた。それで里人が晴明の徳を喜んで祀った塚だといわれている。このあたりからは弥生時代から鎌倉時代にかけての遺物が多数出土し、これらは甚目寺町歴史民俗資料館(町民会館3階)にて収蔵展示されている。

◎小町塚
 小野小町が東国へ下る途中、この新居屋で亡くなったという伝説がある塚。法性寺の縁起によると、寛永8年(1631)に、この地より「如意輪観音」が掘り出され、この観皆様は「小町の持念仏」として、法性寺に安置されることになった。

◎福島政則及び生誕地
 1561〜1624年。幼少から秀吉に従う。賤ヶ岳合戦において初手柄をたて、その後も小牧長久手などに転戦。文禄4年(1595)秀次の跡を受け尾張清洲城主。関ケ原合戦後に安芸広島城主。慶長15年(1610)故郷二ツ寺の氏神である高之宮神明社、月之宮社の社殿造営をするなど故郷への恩を忘れず大出世を遂げるも、元和5年(1619)広島城修築を咎められ信州川中島へ蟄居。まもなく病死する。名古屋築城に際しては、堀川を築き、後の名古屋発展に貢献、納屋橋の中央欄干には福島正則の家紋(中貫十文字)が刻まれる。
 政則の生家は生誕地碑の南西にあり、昔はそこを「おみよ屋敷」と呼んでいた。

◎菊泉院
 鎌倉時代に平安仏教の寺院として創建され、文禄元年(1592)、禅宗寺院として開山した。福島政則の菩提所である。正則公の遺品としては「肖像画」「御位牌」「木造毘沙門天立像」「仰書之写]を所蔵する。

◎五八悪水治水記念碑
 この碑は江戸時代の水争いを記した貴重な碑である。享和元年(1801)の大雨で、ここを走る上街道をはさみ争いが起こった。下五ヶ村が街道に置き土をし、上八ヶ村がこれを破った。役人が出動し、協議の結果、道の高さを二尺ときめ、基準の石杭(定杭)を立てることになるが、滞水はますますひどくなった。やっと天保4年(1833)清須代官所に改修を訴え、目比川から日光川、そして海へと水は落ち、収量も倍増した。この碑は三人の役人の名を記しその徳を称えている。また改修したにもかかわらず、上街道をはさんでの争いは明治になっても再燃し、裁判闘争になった。

◎芳春院・お松
 松は天文16年(1547)、 尾張国海東郡(現在の愛知県海部郡七宝町)に篠原家の娘として生まれる。天文19年(1550)に父の篠原一計が没し、母が尾張守護斯波氏の家臣高畠直吉と再婚すると、まつは前田利家の父前田利昌に養育されることになる。永禄元年(1558)、数え12歳で従兄弟である利家に嫁ぐ。2男9女を産む。なお、女性1人が産む子供の数が多かったとされる戦国時代にあっても11人の実子がいる女性は稀有であり、記録が残る限りでは最も数が多い。慶長4年(1599)に利家が病により没すると出家し、芳春院と号する。元和3年(1617)に金沢城内で死去、享年71。