例 会 案 内

第22回ウォーク例会・開催要項




 
       
【史跡巡りシリーズ・岐阜編part2】
                   15km
 

1.開催日時   平成21年10月3日(土) 9時〜(15時)

2.集合場所   名鉄本線 笠松駅(福祉会館)

3.コース等    福祉会館→歴史民俗資料館→杉山邸→笠松渡船場跡→光得寺→

             米野の戦い跡→笠田公園→(Sコース・河田バス停11.5km)

             浅井古墳群→飛保曼荼羅寺(ゴール)→名鉄江南駅


4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

            
傷害保険の内容      死亡・後遺障害保険  166万円
                             入院保険金(日額)   4000円
                             通院保険金        2000円


主な見所の紹介
  


鮎鮨街道碑

笠松県庁跡

笠松町歴史民俗資料館

杉山邸

笠松渡船場跡

笠松競馬場

蘇岸築堤記念碑

光得寺(昼食予定)

米野の戦い跡

米野の戦い跡(戦没者慰霊碑)

笠田広場

木曽川南派川(河田橋より)

愛宕塚古墳

岩塚古墳

日光川(最上流)

曼陀羅寺


主な見所の説明

◎鮎鮓街道
 江戸時代、長良川で捕れた新鮮な鮎を鮎鮨に加工し、江戸の将軍へ献上しており、その鮎鮨を運んだ街道のこと。「御鮨街道」とも呼んだ。元和元年(1615年)の家康父子の岐阜来訪時に鮎鮨が食膳にあがり賞美された。これが幕末まで続く献上制度の始まり。元和5年(1619年)から尾張藩領になると、尾張藩が、毎年5月から8月まで年10回程度、江戸幕府に献上していた。岐阜から江戸へ。清洲までは岐阜街道(尾張街道・名古屋街道・飛騨街道)、清洲からは美濃路、そして東海道の熱田宿を経て昼夜兼行で運ばれ、4〜5日(記録によると96時間)という短時間で江戸に着いたという。

◎美濃郡代笠松陣屋・笠松県庁
江戸時代、笠松には陣屋(役所)が置かれ、22人の役人が治水、裁判などの仕事をしていた。この陣屋は明治政府ができると廃止されたが、慶応4年(1868年)に美濃国の一部が笠松県となったとき、陣屋跡に笠松県庁が置かれた。明治6年(1873年)、県庁が岐阜市に移るまでは、ここでさまざまな仕事が行われ、岐阜県の中心地となっていた。

◎光得寺
 織田信秀と斎藤道三との戦いで砦が設けられた寺。梵鐘は室町時代の銘が彫りつけられており、岐阜県の重要文化財に指定されている。織田信長が美濃攻めの時、陣鐘として使ったという言い伝えがある。

◎米野の戦い
 慶長5年(1600年)8月22日(今の暦でいうと9月29日)木曽川を渡った東軍の池田輝政ら1万8千と、これを迎え打つ西軍の百々綱家ら岐阜の城兵3千2百はこの付近ではげしく戦った。これが関ケ原合戦の前哨戦となった米野の戦いである。東軍が取った227の首は円城寺に葬った。岐阜城の半分近くが戦死したとも伝える。東軍にも多くの戦死者が出た。翌日東軍は岐阜城を攻め落とし、東西20万の軍勢が関ケ原へと向かうことになる。(現地案内板より)

◎浅井北古墳群
 浅井町の河田・黒岩・大野・尾関の四つの地域に集中している古墳で、すでに破壊された古墳をふくめて50基あったといわれている。現在見学できるものは次の5基。(今回は上記の4基を見学します) 
    岩塚古墳・・・ 円墳、 発掘径推定15m、石室のみ
    毛無塚古墳・・・ 円墳、 直径38m、高さ3.5m
    桃塚古墳・・・ 円墳、 直径15m、高さ1.5m
    愛宕塚古墳・・・ 前方後円墳、 直径6.5m、高さ2.2m
    小塞神社古墳・・・ 前方後円墳、 直径32m、高さ2.5m