例 会 案 内
第22回ウォーク例会・開催要項 |
1.開催日時 平成21年10月3日(土) 9時〜(15時) 2.集合場所 名鉄本線 笠松駅(福祉会館) 3.コース等 福祉会館→歴史民俗資料館→杉山邸→笠松渡船場跡→光得寺→ 5.その他 *雨天でも開催します。 *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。 *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全 健康管理は自己責任でお願いします。
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主な見所の紹介
鮎鮨街道碑 |
笠松県庁跡 |
笠松町歴史民俗資料館 |
杉山邸 |
笠松渡船場跡 |
笠松競馬場 |
蘇岸築堤記念碑 |
光得寺(昼食予定) |
米野の戦い跡 |
米野の戦い跡(戦没者慰霊碑) |
笠田広場 |
木曽川南派川(河田橋より) |
愛宕塚古墳 |
岩塚古墳 |
日光川(最上流) |
曼陀羅寺 |
主な見所の説明
◎鮎鮓街道 江戸時代、長良川で捕れた新鮮な鮎を鮎鮨に加工し、江戸の将軍へ献上しており、その鮎鮨を運んだ街道のこと。「御鮨街道」とも呼んだ。元和元年(1615年)の家康父子の岐阜来訪時に鮎鮨が食膳にあがり賞美された。これが幕末まで続く献上制度の始まり。元和5年(1619年)から尾張藩領になると、尾張藩が、毎年5月から8月まで年10回程度、江戸幕府に献上していた。岐阜から江戸へ。清洲までは岐阜街道(尾張街道・名古屋街道・飛騨街道)、清洲からは美濃路、そして東海道の熱田宿を経て昼夜兼行で運ばれ、4〜5日(記録によると96時間)という短時間で江戸に着いたという。 ◎美濃郡代笠松陣屋・笠松県庁 江戸時代、笠松には陣屋(役所)が置かれ、22人の役人が治水、裁判などの仕事をしていた。この陣屋は明治政府ができると廃止されたが、慶応4年(1868年)に美濃国の一部が笠松県となったとき、陣屋跡に笠松県庁が置かれた。明治6年(1873年)、県庁が岐阜市に移るまでは、ここでさまざまな仕事が行われ、岐阜県の中心地となっていた。 ◎光得寺 織田信秀と斎藤道三との戦いで砦が設けられた寺。梵鐘は室町時代の銘が彫りつけられており、岐阜県の重要文化財に指定されている。織田信長が美濃攻めの時、陣鐘として使ったという言い伝えがある。 ◎米野の戦い 慶長5年(1600年)8月22日(今の暦でいうと9月29日)木曽川を渡った東軍の池田輝政ら1万8千と、これを迎え打つ西軍の百々綱家ら岐阜の城兵3千2百はこの付近ではげしく戦った。これが関ケ原合戦の前哨戦となった米野の戦いである。東軍が取った227の首は円城寺に葬った。岐阜城の半分近くが戦死したとも伝える。東軍にも多くの戦死者が出た。翌日東軍は岐阜城を攻め落とし、東西20万の軍勢が関ケ原へと向かうことになる。(現地案内板より) ◎浅井北古墳群 浅井町の河田・黒岩・大野・尾関の四つの地域に集中している古墳で、すでに破壊された古墳をふくめて50基あったといわれている。現在見学できるものは次の5基。(今回は上記の4基を見学します) 岩塚古墳・・・ 円墳、 発掘径推定15m、石室のみ 毛無塚古墳・・・ 円墳、 直径38m、高さ3.5m 桃塚古墳・・・ 円墳、 直径15m、高さ1.5m 愛宕塚古墳・・・ 前方後円墳、 直径6.5m、高さ2.2m 小塞神社古墳・・・ 前方後円墳、 直径32m、高さ2.5m |