例 会 案 内

第21回ウォーク例会・開催要項




 
       
【河川探訪シリーズ・五条川編part2】
                   14km
 

1.開催日時   平成21年7月4日(土) 9時〜(15時)

2.集合場所   名鉄犬山線 岩倉駅(神明生田神社)

3.コース等   神明生田神社→八大龍王社→宝頂山→富士塚→(Sコース・名鉄

         布袋駅へ 6km)→堀尾公園(昼食)→小口城跡→小弓の庄

        (ゴール)→羽黒駅

              

4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)

5.その他

     *雨天でも開催します。

     *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。

   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全

   健康管理は自己責任でお願いします。

            
傷害保険の内容      死亡・後遺障害保険  166万円
                             入院保険金(日額)   4000円
                             通院保険金        2000円


主な見所の紹介
              (写真は平成21年2月1日及び5月16日の下見時のものです)


井上城跡

八大龍王社

宝頂山墓地

富  士  塚

堀尾跡公園

小口城跡

暴水流亡各霊墓

木津用水側から五条川を見る

五条川改修記念碑

木津用水と五条川が交差

小  弓  橋

小弓の庄(ゴール)


主な見所の説明

◎井上城
 15世紀の初め頃、井上村には有馬主殿正が城を構えて、井上庄17ケ村を領有していたが、嘉吉元年(1441)尾張の守護代・織田郷広に攻められ、井上城は落城したという。その後、「尾張志」によると重松生水正という人が居住している。
 岩倉城の織田敏広の舎弟織田広近は1459年小口城を築き、1469年には犬山に木之下城を築いて美濃に備えた。そして小口城には岩倉譜代衆の中島左兵衛尉が「井上城」から小口城に移った。その後の井上城については、16世紀中頃に、信長の生母土田御前の一族である土田弥兵次が居城していたという説がある。弥兵次の妻は隣村・小折村の生駒家宗の娘・類女(後の吉乃)である。

◎宝頂山墓地
 生駒家の墓所。右端から信長の室「吉乃の方」の兄にあたる生駒家四代家長夫妻の五輪塔と五代利豊夫妻の石廟、そして十代周房の墓碑。石廟形式の墓は大名など格の高い人に見られるが、この近辺ではこの墓地だけ。住居建築の切妻の屋根形をした石造りの墓で、中に石塔などを安置している。
 この一角は利豊の隠居所であったといわれ、言い伝えによれば、晩年は生きながらにして成仏することを願った利豊の心情を思い、六代利勝が住居にふさわしい墓を造った。この石廟の側壁には生駒家六代利勝が筆を取った夫妻の事績が彫ってある。
 利豊は幼い時より秀次に近侍し、16歳で小田原合戦に従軍、秀次の自刃後は秀吉に仕え、関ケ原の戦いでは徳川方として功績をあげている。その後、尾張藩主徳川義直に仕えて尾張藩士となり、大坂夏の陣に従軍、寛文10年(1670)96歳の長寿でこの世を去っている。

◎富士塚
 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折り、徳川家康が織田信雄とともに小折の城を訪ねた帰途、この富士塚に立って敵情を視察した。このゆかりの塚に6代目の利勝(5代利豊の養子)が、初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、天和2年(1682)2月、林羅山の孫の信篤に碑詞を依頼し、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てた。「お亀塚」とも呼ばれる。

◎暴水流亡各霊墓
 寛永10年(1634年)2月かんがい用溜池として築造され,この地方の新田開発を促した入鹿池が明治元年(1868年)4月から5月にかけて降り続いた長雨により水量が激増、5月14日夜あけに大音とともに堅固を誇った大堤防が決潰した。流れ出した池水は、一気に低地に向かって流出、尾張富士、本宮山の山峡を駈け下り、両方の62カ村を流亡し、なお余流は数百カ村に流入したといわれる。丹羽、春日井、中島、海東の4郡133カ村で流失家屋807戸、浸水家屋は床上、床下あわせて11,709戸、死者941名、負傷者1,471名、流没した耕地8,480町歩余の大きな被害を出した。
 大口町中小口地内五条川六部橋西端には、このときの大水で亡くなった人々の冥福を祈るように、暴水流亡各霊墓が建っている。