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      2016年1月より2022年12月にトップページに
掲載した句をここにコメントをつけて再掲します


( 2021年12月 多羅葉の章 )

70歳半ばも過ぎ、余生は短くなってきた。
でもまだ死を感じる体調でもない。
あと5年、今の状態を継続したい。
そして毎年あと5年あと5年と言い続ける。
これが近年の私である。

これを言っておられる状態はいい。
どこまで言っておられるだろうか。
これはおまじないでもある。
少し欲深いのだろうか。 
 
( 2021年10月  白粉花の章 )

柿も熟せば落ちるもの、さて落ちる時、
どんな状態で落ちるのか、
落ちた後どうなるのか、とても気になる。
堪えて頑張って老後まで来た。
どういう終末を迎えるのか、
今を満喫しながらも
その後をひそかに憂うのである。 
老醜をさらすことになるのだろうか。
   ( 2021年9月 薩摩芋の章 )

わが家の家系はどうなっているだろう。
気にしていたが、そのままであった。
孫が何か突然尋ねてきた。
戸籍簿では明治時代まで分かった。
思いがけないことも知った。
自分一人で生まれてきた訳ではない。
父母があって先祖があって自分がある。
このことをあらためて思い返した。
  ( 2021年8月 紫蘇の章 )

もう20年以上、朝は5時起きである。
そして8時まで、ほぼ一定行動である。
 ここで別行動をすると、何かを忘れる。
そしてこの3時間が一番充実している。
日記や文章を書き、書き写しをする。
メールの返信は一晩置いた方がいい。
早起きは心身の健康の秘訣である。
こうして老後にありがたさを覚える。
 ( 2021年7月 茗荷の章 )

現代人はとかく頭脳に走りがちである。
頭の中だけでの判断は危険を伴う。
参加してやってみて本当のことが分かる。
その価値を知ることもできる。

状況が許せば、何事にも参加しよう。
思わぬ出会いや発見がある。
時間の許す高齢者こそ容易い。
好奇心と意欲で老後を謳歌しよう。
 
  ( 2021年6月 舞鶴草の章 )

6月もコロナコロナで過ぎてしまった。
予断は許されぬが、
少し明かりは見えてきた。
人生いろいろあるが、
私は運が良い方と思っている。
 この良さを信じ、7月には
光明を見いだしたい。
中止しているものも再開したい。
信じるところに光差す。
  ( 2021年5月 花筏の章 )

つい自分で生きている気持ちになる。
そう思うから時には傲慢にもなる。
しかし、それは表面的な一部である。
 自分の体、健康も思いのままにならない。
思いもかけない出来事に遭うこともある。
もう宿命、運と言うばかりである。

生かされていると知れば納得しやすい。
そして生かされている命である。
全うするのが当然ということになる。
 ( 2021年4月 二輪草の章 )

やむを得ず自ら手を挙げて役を引き受けた。
私の人生で、ほとんど無いことである。
くじ引きで役を引いたことも覚えがない。
それがこの新年度に一度に起きた。
たまたまが重なり合った。吉か凶か。

やるからには吉にしなければならない。
意欲を持ってやれば道は開ける
楽しみな令和3年度になった。
これも人生の妙味である。
 
   ( 2021年3月 姫金雀枝の章 )

どんな夢を抱こうとも、どんな素晴らしい
決意をしようとも、健康を損ねたら
殆どのことはなし得ないでしょう。
それ程に健康は大切なことなのに、
健康な時はその大切さを忘れる。

私は老いながらもいくつものことを
計画している。なし得るにはまず健康を
保たねばならない。今こそより慎重な
行動に心がけねばならない。
( 2021年2月 金豆の章 )

会議で大半のことはすんなり決まるが、
肝心の一つのことが決まらず
往々に長引くのである。

老人会の進め方で会議がもたれた。
問題はただ一点、会長候補者である。
これが決まらないと会は消滅である。
長引く会議にしびれを切らし、
ぼくが会長に手を挙げた。
それで会議は終了した。 
 
( 2021年1月 八朔の章 )

新聞を読むときは「話・話」 の題材を
求めていつも胸を打つ記事を探します。
これを続けてもう15年以上になります。

そして今は毎日コロナのニュースです。
そんな中ですので、より明るい話を
求めます。皆頑張って生きています。
探せばあるものです。
少しでも明るくなれるように、
 「話・話」 はまだ続けます。
 
  ( 2020年12月  烏瓜の章 )

2020年はコロナに始まり
コロナで終わった1年と言えよう。
多くのことが中止や縮小に見舞われた。
悪いことばかりだった気がしてくる。
しかし、日記帳をひもといてみると、
結構良い出来事を見つける。
人はつい悪いことばかりが意識に残る。
こんな時日記帳はいい役割を果たす。
わが家の重大ニュースを拾い出して
そのことに気づいた。 
(2020年11月 五色唐辛子の章)

恐妻家と言われると否定したくなるのが、
男の常でしょう。特に若い頃はそうでしょう。
そして妻にはそれなりの理由もあります。
順々従った方が夫婦円満の秘訣です。

男には人前の見栄もあります。つい、
心に逆らっていい返事をしてしまいます。
ここで妻を持ち出し断ります。
楽ですね。それを最近知りました。
特に老後は恐妻家になることにつきる。 
 
  (2020年10月 布袋葵の章 )

何事も遠ざけたままでは本当の
ことは分からない。身近にして
始めて良いも悪いも分かる。
人生何事も挑戦、体験である。
そして興味もわく。判断もする。

これぞ人生の醍醐味ではなかろうか。
そして人生は開けるのである。
 やらないでどうこう言うのは、
全く避けたいことである。
   ( 2020年9月 小海老草の章 )

75歳を迎えました。後期高齢者です。
運転免許の更新手続きが変わります。
健康保険の扱いも違ってきます。
一人前ではないと宣言された感じです。
そう思うと何か鬱々とします。

自分は元気だ、まだいろいろできる、
そう思ってこそ張り切って過ごします。
世の中の仕組みに惑わされるな!
己の道は己で歩む、この心意気だ
 ( 2020年8月 庭藤の章 )

考えてから動く、動きながら考える。
どちらが良いか、ことと場合によるでしょう。
要警戒は慎重のあまり動かないことである。

動くことによって新たな知恵が生まれる。
老いるほど動くのが億劫になる。
ここはまず動くをモットーに残りの
人生を歩んでいきたい。
動いて得たことこそ喜びは大きい。
 
  ( 2020年7月 百合水仙の章 )

毎朝定コースを歩くのが日課となった。
そのコースは、堤防の遊歩道を歩き、
そして村中のお墓、寺院、薬師堂、
神社と4度手を合わせ帰宅する。

 手を合わせれば無心の時もあるし、
何かを思う時も、その日によって違う。
手を合わせることは貴重な時間である。
こんな時間を持つことになったことを
嬉しく、また感謝したい心持ちである。
   ( 2020年6月 大山蓮華の章 )

 ひょんないきさつからメダカを飼うことになってしまった。先日まで全く思ってもいなかったことである。
 さて飼ってみれば愛おしいものである。その動きが癒やしにもなる。今年は結婚して50年目、金婚式である。それがこのコロナ禍である。いろいろな行事が中止される。メダカを飼ったことが最大の記念品になるかも知れない。人生は何が起こるか分からない。でもこの50年には感謝である。 
 ( 2020年5月 麝香豌豆の章 )

 今年に入って騒ぎが始まったコロナ禍も自粛自粛で5ヶ月が過ぎ、少し落ち着きを始めました。そしていろいろなことが少しずつ動き出しました。しかし、2次、3次流行も懸念されています。油断は禁物です。自粛はまだ続きます。いろいろ配慮しながら、活動を再開したいものです。
 自粛でその他の被害が大きかったら、何の自粛だったのか、と言うことになります。ここは人間の英知を発揮したいものです。
 
 ( 2020年4月 朝鮮槙の章 )

コロナウイルスで暮れる毎日、
まだ終息の時期は見えてきません。
こういう禍は過去にもありました。
それを乗り越え、人類は生存しています。

「止まない雨はない」「明けない夜はない」
じゅ文のように唱えています。
身勝手な行動が終息を遅くします。
今は自粛することが収束させる道です。
 
   ( 2020年3月 分葱の章 )

人の命の終焉は誰にも分からぬもの。
そして今、気になるのはコロナウイルス。
ニュースでは、まだまだ拡大の域です。
終焉はいつの日かと模索する。

模索してもまだ分からない時期。
でもいつか終焉します。
この終焉は嬉しいこと。
遅れた春を待ちましょう。
( 2020年1月 大岩団扇の章 )

スマホは何ができるのか?。
いろいろなアプリを入れて試してみる。
しかし、老いた身にはなかなか難しい。
今更悩みなど増やす必要がないのに。
でも、いろいろ試してこそ見つかるもの。

そしてできることにびっくりする。
使い方次第では本当にすぐれたグッツだ。
頭を使うことは老いにも必要なこと。
悩み増えてもいろいろ挑戦しよう。 
 
   ( 2020年1月 甘藍の章 )

夫婦も元気な若い内はけんかしても
いがみ合いをしてもいいでしょう。
しかし歳取ってくるとそうは行きません。
お互いが気も心も弱くなってきます。

ここはお互いの思いやりです。
それを持てばいい老後になるでしょう。
これからこそ寄り添い、助け合い、
いたわりながら過ごして、
穏やかな花を咲かせ続けたいものです。
   ( 2019年12月 四季桜の章 )

余生という頃になると、もう先が見えて
くる年齢です。高齢者です。
歳月が気になるのです。
残された時間が愛おしくなります。
過ぎ去った時間も愛おしくなります。

これからは更に光陰矢のごとしでしょう。
1日1日、大切に過ごしたいものです。
まだできることはたくさんあります。
心がけ次第でしょう。
( 2019年11月 野茨の章 )

ウォーキング中に転倒するという
全く信じたくない目に遭った。
骨折など無く擦り傷だけですんだ。
この幸運も信じられない。

この痛い目を今後に生かさねば
タダの痛さだけになってしまう。
原因を突き止めることも必要であろう。
二度としないような方策も必要であろう。
何が起こるのか知れぬのが人生である。 
 
( 2019年10月 数珠珊瑚の章 )

生きている間は、できるだけ長く、
溌剌と若々しく生きたいもの。
若々しさを保つのは挑戦の心だろう。

高齢者は思ってもできない人も多い。
あまり言うと反発を買うだろう。
ここは不言実行が賢かろう。
自分のため、人のため、
できることは何でもやろう。
 
 
  ( 2019年9月 風知草の章 )

神社に参拝して祈願する。
考える程に分からない日本の風習です。
しかし、風習ですので自然にそうする。

好天でも富士山は見られない。
それが悪い予報では絶望の富士周遊。
最初に訪れた浅間大社で祈願する。
見事好転して、好天になる。
富士山の全姿も見ることができた。
よくよく幸運な旅であった。 
 ( 2019年8月  冬珊瑚の章 )

人間得意技を持つことは重要である。
それは生きていく上で強みになる。
その強みをどうやって身につけるのか。
それは継続である場合が多い。
凡人には継続の勝るものはない。
強みを育む立役者は継続である。
私の強みはウォークに川柳、
そしてパソコンである。
いずれも25年以上続けている。
 
   ( 2019年7月 小坊主弟切草の章 )

  我が地域には夏休みの早朝ラジオ体操が
行われており、今年は参加者がかなり多くなっている。私が参加し始めた7年前に大人の参加は数人であった。今年は20人以上になっている。私は密かにいろいろな策を施してきた。その成果であろう。
 私には嬉しいことである。そして、私は密かに自分を褒めているのである。継続して事に当たればいつか成果は出るのである。
   ( 2019年6月 花手毬の章 )

人間は一寸先も分かりません。
若い時ならまだしも、高齢者が
来年も余り変わらない自分があると
信じるのは全く愚かです。

でも愚かと思いながらも
それを信じるも一法でしょう。
信じてそれに備えるのです。
信じて積極的に生きるのです。
永遠に生きると思って今日を有意義に!
 ( 2019年5月 立浪草の章 )

慌ただしかった時期も何とか乗り切り、
妻と3泊4日のツアーに参加した。

宮古島でのんびり過ごす旅であった。
13年前に来ているだけに懐かしさも。
ここまで来ると海の色が違う。
ただのんびり見ているだけでもいい。
帰って前の資料を取り出してみた。
そうして川柳も作った、できた。
気持ちの良い旅であった。
 
   ( 2019年4月 貝母の章 )

気分を改める機会はいろいろある。
正月や誕生日、新年度等である。
そして今回は改元である。
平成が終わり、令和が始まった。

これを生かすのも人生の知恵である。
気分新たにしてこの時代を迎えたい。
もう人生の終末、終焉である。
といいながらも20年あるかも知れない。
精一杯生きよう。楽しもう。
( 2019年3月 紅弁慶の章 )

「猿も木から落ちる」「弘法も筆の誤り」と
言う言葉がある通り、何事も、
自分は上手、できると思っていると
つい間違いを起こす。

下手と思っていればつい慎重になる。
そして、間違いを起こす確率も減る。
私は車の運転が苦手である。それなのに
いまだ無事故無違反である。
下手という自覚がそれをなしていると思う。
 
( 2019年2月 立坪菫の章 )

今一般に供養とは亡くなった人に
供物をささげたり祈ったりするこという。
そこには尊敬の念を以てその人のことを
思い、その生き方から学び、
生かすこともあるのではなかろうか。

父が亡くなって37年、母は亡くなって9年。
そして、今度は義弟が亡くなった。
先人の知恵を学び、生かしていかねば
ならない。これが私の供養である。
 
  ( 2019年1月  小松菜の章 )

植物も動物も言葉をかければ
変わって来ると言われる。
牛に音楽を聴かせ、花に言葉をかける。

まして人間は感情の生き物。
褒められれば喜び、けなされれば沈む。
沈みがちの時に温かい言葉は
特にありがたい、嬉しい。
高齢になると失敗も多くなる。
優しく受けとめて欲しいものである。 
   ( 2018年12月 菠薐草の章 )

年々衰える記憶力、時折愕然とする。
1年前のことは元より、昨日のことも。

ここで威力を発揮するのは記録である。
特に毎日書く日記である。
私は大晦日に1年のまとめをする。
わが家の重大ニュースを拾い出す。
日記や家計簿を開いて拾い出す。
書くことはいろいろな面でいい。
 ( 2018年11月 柳花笠の章 )

今、私の責任の第1が一宮友歩会の運営、
第2がサロン羽根邨の運営、
第3が「話・話」の継続と考えている。
健在であればそれを続ける覚悟はある。
そしてこれは生き甲斐でもある。

しかしながら70歳を超えた身である。
いつまでこの健在は続くのであろうか。
これらが1年でも1ヶ月でも長く
できることを祈るばかりである。
 
  ( 2018年10月 河骨の章 )

幾十年たち立派に成長した庭木、
庭としても円熟味が増してきた。
その庭木の剪定を数年前から
一人我流で行うようになった。
本数が多すぎ、大きくなりすぎて
剪定作業は大変だ。疲れる。

大変なら妻は切り倒せという。
今の私には未練がある過ぎ無理だ。
頑張れるだけ頑張ろう。
 
( 2018年9月 梅花藻の章 )

般若心経や経文などというものは
なかなか理解できるものではない。
訳も読んでみたがよく理解できない。

でも理解もせずただ唱えている。
心頭滅却してただ唱える。
そこに意味もあるようだ。
当分機会を捉えてひたすら
般若心経や経文を唱えてみよう。 
成果など必要ない。あっても経過だ。
 
 ( 2018年8月 男郎花の章 )

今夏の炎暑、猛暑に熱中症が続出。
そしてエアコンをつけよの声の一辺倒。
数年前は節電、使用調節などの大合唱。
今年は節電の声は全く聞こえてこない。
電力、環境等問題は解決したのだろうか。

喉元の暑さにすべてを忘れる。
人間はどんな理屈でも作る。
戦争大合唱にならない保証はない。
 
 
( 2018年7月 山桃の章 )

今年の夏の暑さは何としたことでしょう。
この暑さでは思考もままならない。
朝からぐったり、思考停止が続く。
頑張れば、熱中症が恐い。
ここは我慢、もう少しの間、
おとなしくしていよう。

異常、異常と言っているが、これが
いつの間にか普通という事にならないか。 
この方も心配である。
( 2018年6月 杉菜の章 )

余生とは余分な人生である。
余分な人生に何が必要か。
必要なものなど何もない。
でも前向きに生きる意欲は保ちたい。

勝っても負けても、損でも得でも、
そんなことは大したことでは無い。
来たるものを淡々と受け入れる。
そう思えばより闊達に生きられる
 こんな姿勢で余生に臨みたい。
 
  ( 2018年5月 箱根空木の章 )

余裕ができたこともあって、ここのところ
畑仕事に精を出している。
通る人が皆声をかけてくれる。
声をかけられると仕事に励みがつく。
これが昔から住んでいること、
また田舎の良さであろう。 

道路沿いを花畑にしている。
通る人に楽しんでももらう為である。
更に話は盛り上がる。
   ( 2018年4月 白詰草の章 )

さあ、春だ、種蒔いて、苗も植えた。
どう育つだろう。うまくできるだろうか。
期待に胸がふくらむ。

何もせずに待っているだけでは
何事も成就できない。手を尽くし、
努力をして、初めて期待できる。
苦労した分喜びも大きい。
棚ぼた式に達成感はない。
人生は結果だけではない。
   ( 2018年3月  葱の章 )

ここまで学業に、仕事にいつも勤勉に
走り続けてきた気がする。
遊びでもいつも何かの役員をやり、
勤勉だった気がする。
余裕の時間は苦手であった。
しかし、これからは本当に余裕の
時間ができる気がする。
だから少しずつ、そんな時間に慣れ、
楽しんでいきたい。
それが今年の課題であろうか。
( 2018年2月 水菜の章 )

人間退くタイミングは難しい。
 崇められいい気分でやっていると
批判の言葉も耳に入らなくなる。
これは政治家や企業人に限らない。

退くのを残念がる言葉を沢山貰った。
でも惜しまれて退くのが最善である。
未練を持ってはならない。
後は静かに裏で支える。
この姿勢を貫きたい。
 
  (2018年1月 蔓梅擬の章 )

老いたから、余生だから何も
しなくてよい、は全く逆である。
何もしなかったら呆けるだけである。
これからこそ挑戦がより必要である。
 
老人は楽しくなければいけない。
楽しくするには挑戦である。
昨年はいろいろ挑戦した。
今年も挑戦を続けよう。
 ( 2017年12月 紅菜苔の章 )

何をするにも自ずから目的を持つ、
また目的を持たねば果たせない。
そして、それを果たした時、
安堵もし、喜びも持つ。
それが十分だったら更に大きい。

2017年はいくつもことを企て、
精力的に動き、果たしてきた。
大きな喜びが持てた年であった。
 
( 2017年11月 姫向日葵の章 )

余生である。余分な人生である。
そんな余生に喜びを与えられる。
もう小さな喜びで十分である。

余生である。したいようにすればいい。
そしてした結果、喜びを与えられた。
余生には大きすぎる喜びである。
一生懸命やった結果である。
素直にそして謙虚に喜ぼう。 
 
   ( 2017年10月  甘臭木の章 )

余生だからより挑戦できることがある。
でも挑戦には沢山のものが必要である。
まずは心意気、健康、場所・・・・等々。

幸いに老人クラブ連合会長という場を
与えられた。生かしているか???
まずは生かしていると思う。
あと半年、この役に挑戦しよう。
少し弱った足を鍛え直そう。
そして、そんな自分を愛おしもう。
  ( 2017年9月 孔雀草の章 )

老いると明日大丈夫という保証はない。
毎日毎日を大切に生きねばならない。
「明日死ぬと思って生きなさい」である。

今日の今日を見据えねばならない。
今日は何をすべきか、何が大切か、
そうしていれば大きな悔いはない。 
果たして我が老いはそんな意識で
過ごしているであろうか。
   ( 2017年8月 柳花笠の章 )

余生とは余分な人生、余った人生など
所詮、老後の残された人生である。
そんな余生に杞憂など持つことはない。
何が起きても大したことはない。
大らかに生きたい。その方が楽しい。

第三の人生に入った。まさに余生である。
大らかに生きて余生を楽しもう。
楽しむには積極的に生きることである。

ますますいろいろなことに挑戦だ。
 ( 2017年8月 丘虎の尾の章 )

誠実に勤めてきたつもりである。
しかし、立場という演技もあったろう。
それも送別会を以て終わりである。
送別会が進む中、その終演を意識する。

第三の人生に入る。余生である。
我が身一つという意識を持つ。
我が思うままに思いきりやろう。
そして朽ち果てよう。それも良しである。
 
 ( 2017年6月 枇杷の章 )

道の狭い村中を訪ねて回るには、
車より自転車が最適である。
そして自転車にも安全のために
ヘルメットは必要である。

これは今の我が姿である。
こうして我が道を信じていくのである。
格好も悪くないと思っている。
老人クラブ連合会長が「今日も自転車で
走っている」と評判にならないだろうか。
 
( 2017年5月 黄素馨の章 )

同じコーヒーでも、飲む相手、場所、
雰囲気等で全く違ってきます。

畑作業の休憩時に、藤棚の下で
妻と飲むコーヒーは極上です。
5月の風もいいが、真夏の木陰もいい。
わが家のとっておきの場所です。
満ち足りた至福の時間でもあります。
こんな時間を大切にしたいものです。 
 ( 2017年4月  三叉の章 )

4月から地区の老人クラブ連合会長を
引き受けた。まさに青天の霹靂、
予期せぬ大役である。
老人会長だからといって老人
らしくしている必要はあるまい。
やるからには若々しくやりたい。
そんな気持ちを秘めていざ行かん。
モットーは「老人は楽しく!」と決めた。
前向きにやれば楽しくなる。
 
 ( 2017年3月 雛草の章 )

古稀を過ぎてもう数年となるが、
快い風はなかなか難しい。

今年はまもなく完全退職となる。
地域の大役も回ってきている。
古稀の年以上に大きな転機である。
ここで快い風を呼びこみたい。
呼びこもう。もう意思である。
自分の思うようにやろう。やれる。
それが快い風である。
 
   ( 2017年2月  花韮の章 )

冬の天候は変化が大きい。
真っ青な快晴が翌日
何も見えない吹雪であったり。
短期の旅ではどちらに当たるか、
この違いは大きい。

先日は吹雪の止んだ翌日出かけた。
今年の冬の旅の天候には恵まれた。
もう春である。雨はあっても
吹雪はもうない。大いに楽しもう。
( 2017年1月 匂菫の章 )

古稀を過ぎ老いを感じることもある。
しかし、先日はツルハシや備中を使い
荒れた畑をよみがえらせた。
まだこれだけできると自信を持った。

力を出せばまだできることはある。
挑戦できることも横たわっている。
新しい年を迎え挑戦を続けよう。
本当の戦いはこれからだ。
 
  ( 2016年12月 柾の章 )

老後とは先のことと遠ざけてきた。
しかし、年齢には勝てない。
平成28年はそれを実感させてくれた。
手術、そして手術後の状態に
年齢を感じざるを得ない。
老後の道は着実に近づいてきている。
自分に伸びてきている。
しかし、まだ近づくに任せられない。
本当の戦いはこれから始まる。 
   ( 2016年11月 藤袴の章 )

晩秋は夏のよう暑い日があるかと
思えば冬のように寒いがある。
寒暖入り混じる。

同じように吉と凶も入り混じる。
今年も終わりに近づく。
いろいろな結果が決まってくる。
吉ばかり凶ばかりと言うことはない。
吉凶入り混じって人生は保たれる。
明日を信じて生き抜こう。
( 2016年10月 団子菊の章 )

予定表を見る。まだ空白の日がある。
この日も詰めよう。何をしよう。
友人とお茶でも飲むか、いや、
それより妻と旅行にでも行くか。

今年の前半は自重の日々であった。
後半になってその自重を振り切った。
次々予定を入れた。こうして秋を
駆け抜けている。これは元気さであろうか、
それとも焦りであろうか。 
 
 
( 2016年9月 仙人草の章 )

 2016年は、手術後の不具が長引き、全く試練の年になった。行動は鈍る。しかし、食欲は旺盛である。当然体重は増える。生まれて以来の最重量を記録する。
 食欲の秋である。ここで流されては将来に禍根を残す。今ならまだ間に合う。減食を宣言する。ご飯は減らした。間食も減らした。記録して成果を確認していけば励みにもなろう。ここでもまた試されている。見下されてなるものか。 
 
 ( 2016年8月  冬瓜の章 )

西瓜の色味具合を外から判断する。
取る時毎回のことながら頭を悩ます。
音や表面の色を見て取るのであるが、
これがなかなか分からない。
分からなければ人に聞けばいい。

分からなければ人に聞く、
このことは幾つになっても同じである。
年老いた今こそどんどん聞くべきである。
覚えていたことは忘れ、新しいことが
次々増えているのである。
 
 ( 2016年7月  西瓜の章 )

繊細な人を尊び、鈍感な人を疎んずる、
これは世の中の一般的な評価であろう。
でも時によっては繊細は生き辛いし、
鈍感は過ごしやすいこともある。

今回の手術後はかなり辛いものがある。
これが繊細であったら、ストレスで
耐えられなかったかも知れない。
鈍感で深刻にならず助かったと思う。
時には鈍感に価値があるのだ。
 
   ( 2016年6月 胡瓜の章 )

米作りはいろいろな手順がいる。
まずは田をならし、水を引き入れる。
これで次の手順は整った。田植えである。
そして次の手順に入る。
これは人生も同じである。
子供から大人へ、青年から老人へ。
それぞれに必要な準備がいる。
そして次の段階へ足を踏み入れる。
高齢になるほどそのテンポは速い。
準備に怠りはないか。
( 2016年5月 山吹の章 )

これからの10年を想うと、これまでの
70年以上に吉凶入り混じり
いろいろな変化がある気がする。
年々衰えを覚えながらも
人生終焉に向けて総まとめに入っていく。
より気を引き締めねばと想う。

高齢者に例を引いたまでのことであり、
10年は年相応にいろいろ変化がある。

10年単位で計画するのもいい方法である。
 
    ( 2016年4月 花蛍の章 )

「瞳から溢れるもの」いろいろです。
悲しみでしょうか、熱意でしょうか、
それとも熱い涙でしょうか?

そんな瞳で眺められたら・・・
ぼんやり眺める、目をそらす、
それともしかと受け止める。

しかと受け止めたいものです。
そこに友情や愛が生まれる。
( 2016年3月 蛇の目菊の章 )

尿が漏れる生活はやはりきつい。
しかし、明らかに改善はしつつある。
その気さえあれば普通に活動はできる。
新年度が始まる。次々行事もある。
避けられないのなら活き活きやろう。

先日は一宮友歩会の例会があった。
会長の役目を果たしながら
約15kmを元気に歩き通した。
気力があれば、気概があればできる。
 
 ( 2016年2月 雲間草の章 )

  私は今、前立腺がん手術の後の尿漏れがひどく、尿が垂れ流し状態である。医師は
「治らない人はないない、時間が解決する」
と言ってチョンである。
     「信じる者は救われる」
 今はただ医師の言葉を信じ、心静かに時を待つだけである。
 手術後、1ヶ月がたって改善の兆しが見えてきた。ホッとしているところである。
 
 ( 2016年1月  魚柳梅の章 )

ほとんどの人は平凡な人生と思っている。
ほとんどの部類に属するから平凡である。
その平凡を幸せと想うか、想わないか。
これはもう様々であろう。
でも平凡であるには多大な努力がいる。
多大な努力の結果が平凡に至る。
平凡は素晴らしい。
悔やむこと卑下することではない。
 平凡を大いなる幸せと想いたい。
 


川柳&ウォーク