(第4集)
2016年1月より2022年12月にトップページに
掲載した句をここにコメントをつけて再掲します
( 2021年12月 多羅葉の章 ) 70歳半ばも過ぎ、余生は短くなってきた。 でもまだ死を感じる体調でもない。 あと5年、今の状態を継続したい。 そして毎年あと5年あと5年と言い続ける。 これが近年の私である。 これを言っておられる状態はいい。 どこまで言っておられるだろうか。 これはおまじないでもある。 少し欲深いのだろうか。 |
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( 2021年10月 白粉花の章 ) 柿も熟せば落ちるもの、さて落ちる時、 どんな状態で落ちるのか、 落ちた後どうなるのか、とても気になる。 堪えて頑張って老後まで来た。 どういう終末を迎えるのか、 今を満喫しながらも その後をひそかに憂うのである。 老醜をさらすことになるのだろうか。 |
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( 2021年9月 薩摩芋の章 ) わが家の家系はどうなっているだろう。 気にしていたが、そのままであった。 孫が何か突然尋ねてきた。 戸籍簿では明治時代まで分かった。 思いがけないことも知った。 自分一人で生まれてきた訳ではない。 父母があって先祖があって自分がある。 このことをあらためて思い返した。 |
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( 2021年8月 紫蘇の章 ) もう20年以上、朝は5時起きである。 そして8時まで、ほぼ一定行動である。 ここで別行動をすると、何かを忘れる。 そしてこの3時間が一番充実している。 日記や文章を書き、書き写しをする。 メールの返信は一晩置いた方がいい。 早起きは心身の健康の秘訣である。 こうして老後にありがたさを覚える。 |
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( 2021年7月 茗荷の章 ) 現代人はとかく頭脳に走りがちである。 頭の中だけでの判断は危険を伴う。 参加してやってみて本当のことが分かる。 その価値を知ることもできる。 状況が許せば、何事にも参加しよう。 思わぬ出会いや発見がある。 時間の許す高齢者こそ容易い。 好奇心と意欲で老後を謳歌しよう。 |
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( 2021年6月 舞鶴草の章 ) 6月もコロナコロナで過ぎてしまった。 予断は許されぬが、 少し明かりは見えてきた。 人生いろいろあるが、 私は運が良い方と思っている。 この良さを信じ、7月には 光明を見いだしたい。 中止しているものも再開したい。 信じるところに光差す。 |
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( 2021年5月 花筏の章 ) つい自分で生きている気持ちになる。 そう思うから時には傲慢にもなる。 しかし、それは表面的な一部である。 自分の体、健康も思いのままにならない。 思いもかけない出来事に遭うこともある。 もう宿命、運と言うばかりである。 生かされていると知れば納得しやすい。 そして生かされている命である。 全うするのが当然ということになる。 |
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( 2021年4月 二輪草の章 ) やむを得ず自ら手を挙げて役を引き受けた。 私の人生で、ほとんど無いことである。 くじ引きで役を引いたことも覚えがない。 それがこの新年度に一度に起きた。 たまたまが重なり合った。吉か凶か。 やるからには吉にしなければならない。 意欲を持ってやれば道は開ける 楽しみな令和3年度になった。 これも人生の妙味である。 |
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( 2021年3月 姫金雀枝の章 ) どんな夢を抱こうとも、どんな素晴らしい 決意をしようとも、健康を損ねたら 殆どのことはなし得ないでしょう。 それ程に健康は大切なことなのに、 健康な時はその大切さを忘れる。 私は老いながらもいくつものことを 計画している。なし得るにはまず健康を 保たねばならない。今こそより慎重な 行動に心がけねばならない。 |
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( 2021年2月 金豆の章 ) 会議で大半のことはすんなり決まるが、 肝心の一つのことが決まらず 往々に長引くのである。 老人会の進め方で会議がもたれた。 問題はただ一点、会長候補者である。 これが決まらないと会は消滅である。 長引く会議にしびれを切らし、 ぼくが会長に手を挙げた。 それで会議は終了した。 |
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( 2021年1月 八朔の章 ) 新聞を読むときは「話・話」 の題材を 求めていつも胸を打つ記事を探します。 これを続けてもう15年以上になります。 そして今は毎日コロナのニュースです。 そんな中ですので、より明るい話を 求めます。皆頑張って生きています。 探せばあるものです。 少しでも明るくなれるように、 「話・話」 はまだ続けます。 |
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( 2020年12月 烏瓜の章 ) 2020年はコロナに始まり コロナで終わった1年と言えよう。 多くのことが中止や縮小に見舞われた。 悪いことばかりだった気がしてくる。 しかし、日記帳をひもといてみると、 結構良い出来事を見つける。 人はつい悪いことばかりが意識に残る。 こんな時日記帳はいい役割を果たす。 わが家の重大ニュースを拾い出して そのことに気づいた。 |
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(2020年11月 五色唐辛子の章) 恐妻家と言われると否定したくなるのが、 男の常でしょう。特に若い頃はそうでしょう。 そして妻にはそれなりの理由もあります。 順々従った方が夫婦円満の秘訣です。 男には人前の見栄もあります。つい、 心に逆らっていい返事をしてしまいます。 ここで妻を持ち出し断ります。 楽ですね。それを最近知りました。 特に老後は恐妻家になることにつきる。 |
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(2020年10月 布袋葵の章 ) 何事も遠ざけたままでは本当の ことは分からない。身近にして 始めて良いも悪いも分かる。 人生何事も挑戦、体験である。 そして興味もわく。判断もする。 これぞ人生の醍醐味ではなかろうか。 そして人生は開けるのである。 やらないでどうこう言うのは、 全く避けたいことである。 |
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( 2020年9月 小海老草の章 ) 75歳を迎えました。後期高齢者です。 運転免許の更新手続きが変わります。 健康保険の扱いも違ってきます。 一人前ではないと宣言された感じです。 そう思うと何か鬱々とします。 自分は元気だ、まだいろいろできる、 そう思ってこそ張り切って過ごします。 世の中の仕組みに惑わされるな! 己の道は己で歩む、この心意気だ! |
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( 2020年8月 庭藤の章 ) 考えてから動く、動きながら考える。 どちらが良いか、ことと場合によるでしょう。 要警戒は慎重のあまり動かないことである。 動くことによって新たな知恵が生まれる。 老いるほど動くのが億劫になる。 ここはまず動くをモットーに残りの 人生を歩んでいきたい。 動いて得たことこそ喜びは大きい。 |
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( 2020年7月 百合水仙の章 ) 毎朝定コースを歩くのが日課となった。 そのコースは、堤防の遊歩道を歩き、 そして村中のお墓、寺院、薬師堂、 神社と4度手を合わせ帰宅する。 手を合わせれば無心の時もあるし、 何かを思う時も、その日によって違う。 手を合わせることは貴重な時間である。 こんな時間を持つことになったことを 嬉しく、また感謝したい心持ちである。 |
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( 2020年6月 大山蓮華の章 )
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( 2020年4月 朝鮮槙の章 ) コロナウイルスで暮れる毎日、 まだ終息の時期は見えてきません。 こういう禍は過去にもありました。 それを乗り越え、人類は生存しています。 「止まない雨はない」「明けない夜はない」 じゅ文のように唱えています。 身勝手な行動が終息を遅くします。 今は自粛することが収束させる道です。 |
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( 2020年3月 分葱の章 ) 人の命の終焉は誰にも分からぬもの。 そして今、気になるのはコロナウイルス。 ニュースでは、まだまだ拡大の域です。 終焉はいつの日かと模索する。 模索してもまだ分からない時期。 でもいつか終焉します。 この終焉は嬉しいこと。 遅れた春を待ちましょう。 |
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( 2020年1月 大岩団扇の章 ) スマホは何ができるのか?。 いろいろなアプリを入れて試してみる。 しかし、老いた身にはなかなか難しい。 今更悩みなど増やす必要がないのに。 でも、いろいろ試してこそ見つかるもの。 そしてできることにびっくりする。 使い方次第では本当にすぐれたグッツだ。 頭を使うことは老いにも必要なこと。 悩み増えてもいろいろ挑戦しよう。 |
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( 2020年1月 甘藍の章 ) 夫婦も元気な若い内はけんかしても いがみ合いをしてもいいでしょう。 しかし歳取ってくるとそうは行きません。 お互いが気も心も弱くなってきます。 ここはお互いの思いやりです。 それを持てばいい老後になるでしょう。 これからこそ寄り添い、助け合い、 いたわりながら過ごして、 穏やかな花を咲かせ続けたいものです。 |
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( 2019年12月 四季桜の章 ) 余生という頃になると、もう先が見えて くる年齢です。高齢者です。 歳月が気になるのです。 残された時間が愛おしくなります。 過ぎ去った時間も愛おしくなります。 これからは更に光陰矢のごとしでしょう。 1日1日、大切に過ごしたいものです。 まだできることはたくさんあります。 心がけ次第でしょう。 |
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( 2019年11月 野茨の章 ) ウォーキング中に転倒するという 全く信じたくない目に遭った。 骨折など無く擦り傷だけですんだ。 この幸運も信じられない。 この痛い目を今後に生かさねば タダの痛さだけになってしまう。 原因を突き止めることも必要であろう。 二度としないような方策も必要であろう。 何が起こるのか知れぬのが人生である。 |
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( 2019年10月 数珠珊瑚の章 ) 生きている間は、できるだけ長く、 溌剌と若々しく生きたいもの。 若々しさを保つのは挑戦の心だろう。 高齢者は思ってもできない人も多い。 あまり言うと反発を買うだろう。 ここは不言実行が賢かろう。 自分のため、人のため、 できることは何でもやろう。 |
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( 2019年9月 風知草の章 ) 神社に参拝して祈願する。 考える程に分からない日本の風習です。 しかし、風習ですので自然にそうする。 好天でも富士山は見られない。 それが悪い予報では絶望の富士周遊。 最初に訪れた浅間大社で祈願する。 見事好転して、好天になる。 富士山の全姿も見ることができた。 よくよく幸運な旅であった。 |
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( 2019年8月 冬珊瑚の章 ) 人間得意技を持つことは重要である。 それは生きていく上で強みになる。 その強みをどうやって身につけるのか。 それは継続である場合が多い。 凡人には継続の勝るものはない。 強みを育む立役者は継続である。 私の強みはウォークに川柳、 そしてパソコンである。 いずれも25年以上続けている。 |
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( 2019年7月 小坊主弟切草の章 )
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( 2019年6月 花手毬の章 ) 人間は一寸先も分かりません。 若い時ならまだしも、高齢者が 来年も余り変わらない自分があると 信じるのは全く愚かです。 でも愚かと思いながらも それを信じるも一法でしょう。 信じてそれに備えるのです。 信じて積極的に生きるのです。 永遠に生きると思って今日を有意義に! |
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( 2019年5月 立浪草の章 ) 慌ただしかった時期も何とか乗り切り、 妻と3泊4日のツアーに参加した。 宮古島でのんびり過ごす旅であった。 13年前に来ているだけに懐かしさも。 ここまで来ると海の色が違う。 ただのんびり見ているだけでもいい。 帰って前の資料を取り出してみた。 そうして川柳も作った、できた。 気持ちの良い旅であった。 |
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( 2019年4月 貝母の章 ) 気分を改める機会はいろいろある。 正月や誕生日、新年度等である。 そして今回は改元である。 平成が終わり、令和が始まった。 これを生かすのも人生の知恵である。 気分新たにしてこの時代を迎えたい。 もう人生の終末、終焉である。 といいながらも20年あるかも知れない。 精一杯生きよう。楽しもう。 |
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( 2019年3月 紅弁慶の章 ) 「猿も木から落ちる」「弘法も筆の誤り」と 言う言葉がある通り、何事も、 自分は上手、できると思っていると つい間違いを起こす。 下手と思っていればつい慎重になる。 そして、間違いを起こす確率も減る。 私は車の運転が苦手である。それなのに いまだ無事故無違反である。 下手という自覚がそれをなしていると思う。 |
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( 2019年2月 立坪菫の章 ) 今一般に供養とは亡くなった人に 供物をささげたり祈ったりするこという。 そこには尊敬の念を以てその人のことを 思い、その生き方から学び、 生かすこともあるのではなかろうか。 父が亡くなって37年、母は亡くなって9年。 そして、今度は義弟が亡くなった。 先人の知恵を学び、生かしていかねば ならない。これが私の供養である。 |
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( 2019年1月 小松菜の章 ) 植物も動物も言葉をかければ 変わって来ると言われる。 牛に音楽を聴かせ、花に言葉をかける。 まして人間は感情の生き物。 褒められれば喜び、けなされれば沈む。 沈みがちの時に温かい言葉は 特にありがたい、嬉しい。 高齢になると失敗も多くなる。 優しく受けとめて欲しいものである。 |
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( 2018年12月 菠薐草の章 ) 年々衰える記憶力、時折愕然とする。 1年前のことは元より、昨日のことも。 ここで威力を発揮するのは記録である。 特に毎日書く日記である。 私は大晦日に1年のまとめをする。 わが家の重大ニュースを拾い出す。 日記や家計簿を開いて拾い出す。 書くことはいろいろな面でいい。 |
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( 2018年11月 柳花笠の章 ) 今、私の責任の第1が一宮友歩会の運営、 第2がサロン羽根邨の運営、 第3が「話・話」の継続と考えている。 健在であればそれを続ける覚悟はある。 そしてこれは生き甲斐でもある。 しかしながら70歳を超えた身である。 いつまでこの健在は続くのであろうか。 これらが1年でも1ヶ月でも長く できることを祈るばかりである。 |
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( 2018年10月 河骨の章 ) 幾十年たち立派に成長した庭木、 庭としても円熟味が増してきた。 その庭木の剪定を数年前から 一人我流で行うようになった。 本数が多すぎ、大きくなりすぎて 剪定作業は大変だ。疲れる。 大変なら妻は切り倒せという。 今の私には未練がある過ぎ無理だ。 頑張れるだけ頑張ろう。 |
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( 2018年9月 梅花藻の章 ) 般若心経や経文などというものは なかなか理解できるものではない。 訳も読んでみたがよく理解できない。 でも理解もせずただ唱えている。 心頭滅却してただ唱える。 そこに意味もあるようだ。 当分機会を捉えてひたすら 般若心経や経文を唱えてみよう。 成果など必要ない。あっても経過だ。 |
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( 2018年8月 男郎花の章 ) 今夏の炎暑、猛暑に熱中症が続出。 そしてエアコンをつけよの声の一辺倒。 数年前は節電、使用調節などの大合唱。 今年は節電の声は全く聞こえてこない。 電力、環境等問題は解決したのだろうか。 喉元の暑さにすべてを忘れる。 人間はどんな理屈でも作る。 戦争大合唱にならない保証はない。 |
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( 2018年7月 山桃の章 ) 今年の夏の暑さは何としたことでしょう。 この暑さでは思考もままならない。 朝からぐったり、思考停止が続く。 頑張れば、熱中症が恐い。 ここは我慢、もう少しの間、 おとなしくしていよう。 異常、異常と言っているが、これが いつの間にか普通という事にならないか。 この方も心配である。 |
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( 2018年6月 杉菜の章 ) 余生とは余分な人生である。 余分な人生に何が必要か。 必要なものなど何もない。 でも前向きに生きる意欲は保ちたい。 勝っても負けても、損でも得でも、 そんなことは大したことでは無い。 来たるものを淡々と受け入れる。 そう思えばより闊達に生きられる こんな姿勢で余生に臨みたい。 |
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( 2018年5月 箱根空木の章 ) 余裕ができたこともあって、ここのところ 畑仕事に精を出している。 通る人が皆声をかけてくれる。 声をかけられると仕事に励みがつく。 これが昔から住んでいること、 また田舎の良さであろう。 道路沿いを花畑にしている。 通る人に楽しんでももらう為である。 更に話は盛り上がる。 |
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( 2018年4月 白詰草の章 ) さあ、春だ、種蒔いて、苗も植えた。 どう育つだろう。うまくできるだろうか。 期待に胸がふくらむ。 何もせずに待っているだけでは 何事も成就できない。手を尽くし、 努力をして、初めて期待できる。 苦労した分喜びも大きい。 棚ぼた式に達成感はない。 人生は結果だけではない。 |
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( 2018年3月 葱の章 ) ここまで学業に、仕事にいつも勤勉に 走り続けてきた気がする。 遊びでもいつも何かの役員をやり、 勤勉だった気がする。 余裕の時間は苦手であった。 しかし、これからは本当に余裕の 時間ができる気がする。 だから少しずつ、そんな時間に慣れ、 楽しんでいきたい。 それが今年の課題であろうか。 |
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( 2018年2月 水菜の章 ) 人間退くタイミングは難しい。 崇められいい気分でやっていると 批判の言葉も耳に入らなくなる。 これは政治家や企業人に限らない。 退くのを残念がる言葉を沢山貰った。 でも惜しまれて退くのが最善である。 未練を持ってはならない。 後は静かに裏で支える。 この姿勢を貫きたい。 |
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(2018年1月 蔓梅擬の章 ) 老いたから、余生だから何も しなくてよい、は全く逆である。 何もしなかったら呆けるだけである。 これからこそ挑戦がより必要である。 老人は楽しくなければいけない。 楽しくするには挑戦である。 昨年はいろいろ挑戦した。 今年も挑戦を続けよう。 |
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( 2017年12月 紅菜苔の章 ) 何をするにも自ずから目的を持つ、 また目的を持たねば果たせない。 そして、それを果たした時、 安堵もし、喜びも持つ。 それが十分だったら更に大きい。 2017年はいくつもことを企て、 精力的に動き、果たしてきた。 大きな喜びが持てた年であった。 |
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( 2017年11月 姫向日葵の章 ) 余生である。余分な人生である。 そんな余生に喜びを与えられる。 もう小さな喜びで十分である。 余生である。したいようにすればいい。 そしてした結果、喜びを与えられた。 余生には大きすぎる喜びである。 一生懸命やった結果である。 素直にそして謙虚に喜ぼう。 |
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( 2017年10月 甘臭木の章 ) 余生だからより挑戦できることがある。 でも挑戦には沢山のものが必要である。 まずは心意気、健康、場所・・・・等々。 幸いに老人クラブ連合会長という場を 与えられた。生かしているか??? まずは生かしていると思う。 あと半年、この役に挑戦しよう。 少し弱った足を鍛え直そう。 そして、そんな自分を愛おしもう。 |
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( 2017年9月 孔雀草の章 ) 老いると明日大丈夫という保証はない。 毎日毎日を大切に生きねばならない。 「明日死ぬと思って生きなさい」である。 今日の今日を見据えねばならない。 今日は何をすべきか、何が大切か、 そうしていれば大きな悔いはない。 果たして我が老いはそんな意識で 過ごしているであろうか。 |
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( 2017年8月 柳花笠の章 ) 余生とは余分な人生、余った人生など 所詮、老後の残された人生である。 そんな余生に杞憂など持つことはない。 何が起きても大したことはない。 大らかに生きたい。その方が楽しい。 第三の人生に入った。まさに余生である。 大らかに生きて余生を楽しもう。 楽しむには積極的に生きることである。 ますますいろいろなことに挑戦だ。 |
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( 2017年8月 丘虎の尾の章 ) 誠実に勤めてきたつもりである。 しかし、立場という演技もあったろう。 それも送別会を以て終わりである。 送別会が進む中、その終演を意識する。 第三の人生に入る。余生である。 我が身一つという意識を持つ。 我が思うままに思いきりやろう。 そして朽ち果てよう。それも良しである。 |
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( 2017年6月 枇杷の章 ) 道の狭い村中を訪ねて回るには、 車より自転車が最適である。 そして自転車にも安全のために ヘルメットは必要である。 これは今の我が姿である。 こうして我が道を信じていくのである。 格好も悪くないと思っている。 老人クラブ連合会長が「今日も自転車で 走っている」と評判にならないだろうか。 |
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( 2017年5月 黄素馨の章 ) 同じコーヒーでも、飲む相手、場所、 雰囲気等で全く違ってきます。 畑作業の休憩時に、藤棚の下で 妻と飲むコーヒーは極上です。 5月の風もいいが、真夏の木陰もいい。 わが家のとっておきの場所です。 満ち足りた至福の時間でもあります。 こんな時間を大切にしたいものです。 |
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( 2017年4月 三叉の章 ) 4月から地区の老人クラブ連合会長を 引き受けた。まさに青天の霹靂、 予期せぬ大役である。 老人会長だからといって老人 らしくしている必要はあるまい。 やるからには若々しくやりたい。 そんな気持ちを秘めていざ行かん。 モットーは「老人は楽しく!」と決めた。 前向きにやれば楽しくなる。 |
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( 2017年3月 雛草の章 ) 古稀を過ぎてもう数年となるが、 快い風はなかなか難しい。 今年はまもなく完全退職となる。 地域の大役も回ってきている。 古稀の年以上に大きな転機である。 ここで快い風を呼びこみたい。 呼びこもう。もう意思である。 自分の思うようにやろう。やれる。 それが快い風である。 |
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( 2017年2月 花韮の章 ) 冬の天候は変化が大きい。 真っ青な快晴が翌日 何も見えない吹雪であったり。 短期の旅ではどちらに当たるか、 この違いは大きい。 先日は吹雪の止んだ翌日出かけた。 今年の冬の旅の天候には恵まれた。 もう春である。雨はあっても 吹雪はもうない。大いに楽しもう。 |
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( 2017年1月 匂菫の章 ) 古稀を過ぎ老いを感じることもある。 しかし、先日はツルハシや備中を使い 荒れた畑をよみがえらせた。 まだこれだけできると自信を持った。 力を出せばまだできることはある。 挑戦できることも横たわっている。 新しい年を迎え挑戦を続けよう。 本当の戦いはこれからだ。 |
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( 2016年12月 柾の章 ) 老後とは先のことと遠ざけてきた。 しかし、年齢には勝てない。 平成28年はそれを実感させてくれた。 手術、そして手術後の状態に 年齢を感じざるを得ない。 老後の道は着実に近づいてきている。 自分に伸びてきている。 しかし、まだ近づくに任せられない。 本当の戦いはこれから始まる。 |
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( 2016年11月 藤袴の章 ) 晩秋は夏のよう暑い日があるかと 思えば冬のように寒いがある。 寒暖入り混じる。 同じように吉と凶も入り混じる。 今年も終わりに近づく。 いろいろな結果が決まってくる。 吉ばかり凶ばかりと言うことはない。 吉凶入り混じって人生は保たれる。 明日を信じて生き抜こう。 |
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( 2016年10月 団子菊の章 ) 予定表を見る。まだ空白の日がある。 この日も詰めよう。何をしよう。 友人とお茶でも飲むか、いや、 それより妻と旅行にでも行くか。 今年の前半は自重の日々であった。 後半になってその自重を振り切った。 次々予定を入れた。こうして秋を 駆け抜けている。これは元気さであろうか、 それとも焦りであろうか。 |
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( 2016年9月 仙人草の章 )
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( 2016年8月 冬瓜の章 ) 西瓜の色味具合を外から判断する。 取る時毎回のことながら頭を悩ます。 音や表面の色を見て取るのであるが、 これがなかなか分からない。 分からなければ人に聞けばいい。 分からなければ人に聞く、 このことは幾つになっても同じである。 年老いた今こそどんどん聞くべきである。 覚えていたことは忘れ、新しいことが 次々増えているのである。 |
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( 2016年7月 西瓜の章 ) 繊細な人を尊び、鈍感な人を疎んずる、 これは世の中の一般的な評価であろう。 でも時によっては繊細は生き辛いし、 鈍感は過ごしやすいこともある。 今回の手術後はかなり辛いものがある。 これが繊細であったら、ストレスで 耐えられなかったかも知れない。 鈍感で深刻にならず助かったと思う。 時には鈍感に価値があるのだ。 |
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( 2016年6月 胡瓜の章 ) 米作りはいろいろな手順がいる。 まずは田をならし、水を引き入れる。 これで次の手順は整った。田植えである。 そして次の手順に入る。 これは人生も同じである。 子供から大人へ、青年から老人へ。 それぞれに必要な準備がいる。 そして次の段階へ足を踏み入れる。 高齢になるほどそのテンポは速い。 準備に怠りはないか。 |
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( 2016年5月 山吹の章 ) これからの10年を想うと、これまでの 70年以上に吉凶入り混じり いろいろな変化がある気がする。 年々衰えを覚えながらも 人生終焉に向けて総まとめに入っていく。 より気を引き締めねばと想う。 高齢者に例を引いたまでのことであり、 10年は年相応にいろいろ変化がある。 10年単位で計画するのもいい方法である。 |
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( 2016年4月 花蛍の章 ) 「瞳から溢れるもの」いろいろです。 悲しみでしょうか、熱意でしょうか、 それとも熱い涙でしょうか? そんな瞳で眺められたら・・・ ぼんやり眺める、目をそらす、 それともしかと受け止める。 しかと受け止めたいものです。 そこに友情や愛が生まれる。 |
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( 2016年3月 蛇の目菊の章 ) 尿が漏れる生活はやはりきつい。 しかし、明らかに改善はしつつある。 その気さえあれば普通に活動はできる。 新年度が始まる。次々行事もある。 避けられないのなら活き活きやろう。 先日は一宮友歩会の例会があった。 会長の役目を果たしながら 約15kmを元気に歩き通した。 気力があれば、気概があればできる。 |
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( 2016年2月 雲間草の章 )
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( 2016年1月 魚柳梅の章 ) ほとんどの人は平凡な人生と思っている。 ほとんどの部類に属するから平凡である。 その平凡を幸せと想うか、想わないか。 これはもう様々であろう。 でも平凡であるには多大な努力がいる。 多大な努力の結果が平凡に至る。 平凡は素晴らしい。 悔やむこと卑下することではない。 平凡を大いなる幸せと想いたい。 |