(第1集)
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した句をここにコメントをつけて再掲します
(2004年12月 石蕗の章) 相対する相手から握手を求められたら、 はっきり拒否するか、渋々ながら応じるか。 応じれば妥協することになる。 それが考えどころである。 しかし、ここは勇気を奮って応じるか。 我々は往々にしてどうでもいい ところで我を張るものである。 妥協が生きていくと言うことでもある。 |
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(2004年11月 菊の章) ついに思いのたけを言ってしまった夕食時、 (どうも良い話ではなそうだ) 気まずい空気が流れる。 その後の食事は、言った言葉が気になって 味も分からない。 ボクも若い頃何回もしでかした失敗。 言葉はTPO(時・場所・状況)が重要だ。 |
(2004年10月 鶏頭の章) 10月第3日曜日が「孫の日」と知った。 プレゼントする口実ができた。 4歳児と0歳児の孫に何を送ろう。 絵本が一番だ。 早速買いに行く。 絵本コーナーを覗くのは いつ以来のことだろう。 |
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(2004年9月 月下美人の章) あれほど暑かった夏も過ぎ、 風に秋を感じるようになった。 夕方の風が冷たく感じるようになると、 何か哀愁も感じてくる。 そんな時、昔のことが話したくなる。 私もそんな年になった。 夜長にゆっくり聞いてくれる 友が欲しい、家族が欲しい。 |
(2004年8月 向日葵の章) 毎日数え切れないほどの人やものに 支えられて生きている。 電気、水道、そして、列車などが 止まるともう大混乱である。 自ら生きている部分もあるが、 生かされている部分がいかに多いか、 よく知って日々を過ごす必要がある。 そこに感謝の気持ちが生まれる。 |
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(2004年7月 梔子の章) 人間調子の良いときは、自分の力と 過信し、それがいつまでも 続くように思いがちである。 しかし、そんなことはあり得ない。 気がつかないだけで周りの大きな 力に生かされているのだ。 人に優しくできるときにはしておこう。 情けは人のためならず |
(2004年6月 紫陽花の章) 身も心も巣立ちの準備はできた。 あれほど降っていた雨も上がり、 空には虹が・・・・ 飛び立つ好機である。 誰にもチャンスはやってくる。 それをうまく捉えるか、逃すか・・・ 人生はそれに大きく左右される。 川柳を始めるチャンスですよ・・・ |
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(2004年5月 撫子の章) B子を捨てるべきと思いながらも、 ぐずぐずしているうちに本当に欲しいA子を 失ってしまった。人生よくあるパターンだ。 二兎を追うもの一兎を得ず 中途半端は大事なものを見失う。 捨てるものは思い切りよく捨てて、 次の目標に向かって進もう。 私にとって、君にとって B子とは・・・A子とは・・・・ |
(2004年4月 蒲公英の章) 無風の中のこいのぼりは哀れなものである。 元気よく泳ごうにも自分ではどうすることも できず、ただ悶々とするのみである。 我々はどうであろうか。 もちろん順風がいいであろうが、刺激に 慣れすぎた現代人が、無風もまた 良しとすることができるであろうか。 人間はこいのぼりとは違うのだから・・・・・ |
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(2004年3月 侘助の章) あれはあなたが勝手に描いていた夢なの! 泣いていたとて始まらぬ、 一心不乱に歩きなさい。 そうすれば忘れられます。 歩く効用は私が一番良く知っています。 私を信じなさい! |
(2004年2月 蕗の薹の章) 人間無視されることほど 面白くないものはない。 逆に、関心を持たれると嬉しいものである。 僕を見ている人は少なくとも僕に関心がある。 嬉しくてつい好意を持ってしまう。 ところが往々にその目は軽蔑の目で あったり、獲物をねらう目であったりする。 まずは、自分というものをよく 見つめることが大切である。 |
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(2004年1月 葉牡丹の章) 赤ちゃんが生まれるのに、大人の都合など 関係ない。わが孫は予定日を過ぎても なかなか生まれてこない。これは日を 選んでいるからであろう。 そして、選んだ日は大晦日である。 一度聞いたら忘れない。そして、 その年の扶養控除の対象にもなる。 さすがわが孫、良くできた孫である。 |
(2003年12月 南天の章) 「あなたの未来は明るいですか?」 「いえ、私の未来は暗いです」 「では、あなたの未来は暗くなる ためにあるのですか?」 「・・・・いえ、そうではありません」 「では、この句を意識して生きていって ください。明るくなると信じていれば、 明るくなります。信じていなければ、 かなえられません」 |
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(2003年11月 千両の章) 僕がどうしていようと、どうであろうと 関わりなく柿は時期が来れば柿自身と 自然の力で知らぬ間に熟していく。 僕の力で回っていること何てあるのだろうか、 あってもわずかなものである。 まして、自分中心で回っているなんて 大間違いである。 我々はまわりと一緒に生き、 生かされているのである。 |
(2003年10月 彼岸花の章) どこまでも清々しい、どこまでも清い青空。 どんなに汚れたものも、醜いものも この青空に出会えば、身をただされる、 清潔なものになる。 人はそれぞれそんな侵すことが できないものを持っている。 そして、人は大きなまちがいも 起こさず生きている。 |
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(2003年9月 薄の章) 茜色の空にススキがゆったり揺れている。 そんな景色の中に身を置けば、 昼間の騒々しさも遠いものとなり、 穏やかな気分に浸ってくる。 これを平和という。 現代人はついこんな時間を忘れがち、 多く持てるように心がけたいものだ。 |
(2003年7月 捩花の章) コーヒーの香りが私は好きである。 そんな香りに浸っていると何事も よい方に考えてしまう。 よい知らせに思いを馳せながら ゆっくりコーヒーを飲む時間は 至福の時間である。 |
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(2003年6月 百合の章) 食事をするにも好きなものから食べる人、 好きなものは後に残しておく人、様々である。 同様に、いやなことに出会うと後回しに する人、先に済ませてしまう人、 私はどちらも後者の気がする。 どうせ避けられぬならいやなことは さっさと済ませ、気分スッキリ次に望みたい。 皆さんはいかがでしょうか? |
(2003年5月 石竹の章) 「雨の日には雨の日の良さがある」 というウォーカーの合言葉がある。 雨の日にしか気づかないこと、 見られないもの、感じられないものがある。 そんな日はゆっくり歩いて雨の日を満喫しよう。 人生の中にも雨の日はある。 そんな時は焦ってもがいても良い 結果は生まれない。 じっくり見きわめて進みたいものだ。 |
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(2003年4月 雪柳の章) カーナビは素晴らしい、行きたい所に導き、 知らない所も教えてくれる。そんなカーナビ だから僕の行く末も知っているだろう。 ・・・しかし、それは無理なことだ。 カーナビもパソコンもデータがあってのこと。 人間の将来のことなど、過去のデータからの 推測通りになることなど、ほとんどない。 誰にも分からないのだ。 有頂天にならず、悲観的にならず、 その時にふさわしい生き方をしていくのみだ。 |
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(2003年3月 菜の花の章) 20才には20才の、50才には50才の 数だけ夢を抱いて誰もが生きてきた。 かなった夢、かなわなかった夢、 いろいろあってそれでよい。 そして、それは過去ばかりではない。 これからの人生も、生きている限り、 それを繰り返していく。 夢を描けなくなったとき、人生は 終わりである、終わりにしたい。 |
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(2003年2月 節分草の章) 漆黒の空に美しい夜景。 そんな夜の街なら何でも 受け入れてくれるだろう。 そんな街に向かって1日の愚痴を 思い切りは吐き出そう。 そして、また新たな気分で朝を迎えよう。 |
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(2003年1月 蝋梅の章) “大切な思い出の残った古い手紙、しかし 思い出に浸っているばかりではいけない。 燃して新たな出発をしよう” “何としたことか、くすぶって残っている。 恨みでも残っているのであろうか” 一方にとって良い思い出も、もう一方には いやな思い出ということもある。 思い出はお互いに気持ちの 良いものにして残したいものだ。 |
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(2002年12月 山茶花の章) なぜ左手ではいけないのか・・・・・ ・・・それは手紙を書くのは右手だから。 両手ではいけないのか・・・・ ・・・両手が温かくなるのには時間がかかる。 せめて右手だけでもぬくもりを感じたら、 暖かみある手紙を早く書きたい。 あなたの喜ぶ顔が早く見たいから・・・。 つまらぬ句にも屁理屈はつくものだ。 |
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(2002年11月 野菊の章) 年を経るにつれ、思い出したくもないことが だんだん増えてくる。見るたびにそんな過去を 思い出させる品物も増えてくる。 そんなものは一気に処分してしまおう。 しかし、しばし待て! 良い思い出だけが良い人生なのだろうか。 本当は辛い思い出の中にこそ、自分を鍛え、 成長させてくれたものがあるのだ。 それこそ宝だ。 そんな宝を簡単に処分してはいけない。 |
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(2002年10月 秋桜の章) 世の中不景気でせせこましくて、 ストレスはたまるばかり、出るのは愚痴ばかり。 しかし、ふと見上げた空の青さ、 あまりに鮮やかな青さに、そんなことを愚痴に 思う自分が恥ずかしくなる。 そんな美しさのもとにいる僕は幸せなのだ。 |
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(2002年9月 木槿の章) 秋の夜の中天にまん丸な月が出た。 こうこうと月が男を照らす。 昼間の喧噪に疲れた男が ふと見上げた月の美しさに 自然心が明るくなる。 何か勇気が湧いてくる。 新たな夢を持ってやろう、 男はこうしてまた頑張るのであった。 |
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(2002年8月 朝顔の章) 今年の夏はことに暑かった。 そんな時にこそこそと内緒話を していたら更に暑さが増す。 こんな時は内緒話も大らかに やったほうがよろしい。 そうすれば内緒話も内緒話で なくなり、心も軽くなる。 内緒話などない大らかな 生活をしたいものだ。 |
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(2002年7月 桔梗の章) 流れ星って本当に行き先を自分で定めて 流れているのだろうか。可能なら自分の 行方は自分で定めたいものである。 しかし、大自然の法則で流れ星も行方は 定められてるのかも知れない。私自身も いろいろあがめいてはいるが、私自身では どうにもならない大自然の法則で行方は 定められているのかも知れない。やるだけ やって自然に任せるより仕方があるまい。 |
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(2002年6月 アヤメの章) 誰の人生にもチャンスは必ず訪れている。 しかし、そのチャンスをきちんとつかむのか、 うっかり逃すのかによって人生は大きく 違ってくる。つかの間の梅雨の 晴れ間もチャンスとばかり、積極的に 出て、運をつかみ取る。たとえ失敗しても、 消極的にただ待っている人生より、良い 人生だと思って過ごしていきたいものだ。 |
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(2002年5月 射干の章) 我々はつい自分より恵まれた人と比較し、 自分のおかれた環境に不満を覚え、 不相応な幸せを求めてしまう。しかし、 それは得られるものではなく、また、 得られたとしても自分と遊離した幸せであり、 本当の充足感は得られない。自分の足元を よく見つめ、地道な努力をし、1段1段階段を 着実に上っていくしかないのである。自分の 内面まで急激には変えられないのだから・・・ |
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(2002年4月 花海棠の章) 3月に二女が結婚しました。 花嫁の父には一種言われぬ心境があると 言われます。あまりに淡々としていては観衆 には面白くもありません。演技でも観衆の 期待する花嫁の父を演じねばなりません。 私はそんな演技は苦手です。 果たして私の姿は演技だったのか・・・・ 真実だったのか・・・・・ |
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(2002年3月 沈丁花の章) 誰にも均一、平等に春がやってくるわけでは ない。春にも選ぶ自由はある。春に停車して もらうにはどうすればいいのか。どんな人に春 は訪れるのか。 人にできることは限られている。それぞれの 能力、環境に応じて望ましい自分像を描き、 それに向けて努力する。そして、静かに春を 待つ、そんな日々を過ごしたい。 |
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(2002年2月 マンサクの章) 春が来る、春が来ると言いながらなかなか 来そうもない。でも季節は正直なもの、その うち来るだろう、酒でも飲んで待っていよう。 これで確かに季節の春は来る。 さて、人生はどうだろうか。あくせくしても一 生なら、成りゆきにまかせても一生。どうせ 同じ一生ならどう過ごすか・・・・残り少なく なってきてどう考えるか・・・・ |
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(2002年1月 スイセンの章) 日は沈み、日は上がる。その間に昨日と 別れ、今日が始まる。特に、初日の出は もっと大きな決別をして、新たな年を始める。 過去にいつまでも拘泥していない。 私にも昨年はいろいろあった。特に川柳に ついては川柳東浦の会の解散があった。 新たな気持ちで、新たな出で立ちをしたい。 |
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(2001年11月例会句) 22年続いた川柳東浦の会が 11月をもって解散した。 東浦の会に入ってはじめて川柳という ものを始めた。会の創立から解散まで 会員であった私としては、感慨無量の ものがある。ここで得た知識や 人間関係を明日につないで 行かなくてはいけない。 新たな道を探していこう。 |
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(2001年9月例会句) 今年の茄子は全くよく成った。それも晩秋 までまだ盛りと成っていた。 私の人生はどうなのだろう。人生80年と して、20年ごとに切ればまさしく晩秋である。 そして、その意気はどうなのだろうか。同じ ように晩秋であろうか。 せめて心意気は今年の茄子のように、まだ 盛りといきたいものだ。これは心掛け次第で できることだから・・・・ |
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(2001年8月例会句) 3年当用日記を使うようになって6冊目、 17年になる。毎朝決まった時間に書く習慣 がついて続いているのである。 それと私の日記は、落書きのようなもので ある。誰にとがめられることのない落書きは 楽しい。また、真っ白な雪の上に描く落書き は楽しい。思いもままに書いて、昨日を少し 反省し今日に向かう、私の生活の一部に なっている。 |
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(2001年6月例会句) 中高年にはつらい時代がやってきた。 特に団塊の世代は産まれてから ずっと辛いこと続きである。 ふと辛いことから抜け出したくなる。 そんなときいろいろなうまい話が来る。 でもそんなものをあてにならない。 耐え、時が来るのを待ち、 自力で抜け出すしかない。 |
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(2001年4月例会句) 待ち人はなかなか来ない。街角でぼんやり 立って、それとなく人を観察することになる。 面白い。仲良くしていく人、言い合いながら 行く人、急ぐ人・・様々な人間風景に出会う。 何か考えさせられてしまう。 しかし、観察しているということは、観察 されていることでもある。作者は気づいてい るであろうか。 |
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(2001年3月例会句) 月はもう中天に上がり目的を達している。 僕も年齢ではもう50歳代半ば、しかし、何を やってきたのだろうか、何を果たしてきたの だろうか。まだ半ばの気がするが、もう残さ れている時間は少ない。 これからこそ自由にやれる世代、考えて、 挑戦してやって行かねばと思う。 |
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(2001年2月例会句) 私達は毎日いろいろなことを見たり、 聞いたり、人にあったりして過ごして いる。その中には少し関心を持って 対応すれば、素晴らしい発展に 繋がるものも潜んでいる。 しかし、そっと来るものは つい見過ごしてしまう。 本当に良いものは大きな足音を 立ててやってきたりはしない。 そっと来るものに耳を澄まして 逃さないようにしたいものだ。 |
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(2001年1月例会句) 2001年21世紀が始まった。 年明けてカレンダーは確実に変わってい た。しかし、時間は連綿と続いている、 区切りなどはない。 でもカレンダーのように、新たな気持ち で新しい世紀を過ごしていきたいもので ある。反省と挑戦を、エンスージアズム (熱意)を持って進めていこう。 |
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(2000年12月例会句) 昨年9月孫ができた。その目と自分の 目を比べてみる。50年の間に自分の 目はこんなに濁ってしまったのか。 何かする度に、何かに合う度に少し ずつ濁りを増してきた。 もう人生後半、いや幾ばくもないかも 知れない、今後はその濁りを少しでも 薄めていく生活をしたいものだ。 |
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(2000年11月例会句) 君の優しい手にかかれば 渋柿も渋みがとれている。 こんなことはあり得ない。 ところがそんなことを思わせて しまう君の優しさ。 優しさは人間の原点、 いつまでもその優しさを 忘れないようにしてほしい。 いや、そんな心配はなく 君はいつまでも優しい。 |
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(2000年10月例会句) 暑い夏が過ぎて、すごしやすい秋が 来た。芸術の秋、スポーツの秋・・・・ そして、まだ見えぬ事に期待が集まる。 そうして毎年、毎日繰り返して過ごして きた。期待通りだった時、期待はずれ で終わったとき・・・・でも、毎年、毎日 期待を持って迎えたいものである。 もちろん坂は自分で越えなければ ならない。 |
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(2000年9月例会句) 友達が来る。なにが無くてもまず 珈琲を飲みながらお互いの安否を確 かめ合う。気心の知れたこんな友達 がいるのはうれしい。年老いてくるとま すますそんな友達がほしくなる。友達 は大切にしたいものだ。 |
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(2000年7月例会句) 「雨雲がやってくるようだ」 「どちらの方からだ?」 「明日の方らしい」 「それはまずいな、明日は ウォーキングだ」 「雨の日には雨の日の良さがあろう、 自然の流れに任せよう」 |
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(2000年1月例会句) きりの良い年とはもちろん2000年の ことである。きりが良いからと言って何 も良いことと因果関係があるわけでは ない。ただの願望である。それでもそ んな気がするし、そう思って明るい気 持ちで過ごして行きたい。 |