“終戦時は今でいう小学校2年生でした。住んでいた東京では深刻な食料不足がなかなか解消されず、川で魚を捕まえたり、川の土手で野菜を育てたりして飢えをしのいでいました。特に捕まえた魚を食べる場合、私は子ども心に「さっきまで生きていたのに・・・」と思ったものです。焼き魚をうまくむしって食べられず、まだ身が残った骨を捨てようとしたことがありました。母が「ちょっとお待ち」と制し、「命をささげてくれた分、奇麗に食べないと成仏できないよ」と続け、残り火で再び焼いてくれました。そうして私は骨まで食べることができました。かりかりした煎餅のような歯応えは今も記憶しています。私が食材を大切にし続けるのはこうした経験があったからでしょう。”(11月9日付け中日新聞)
名古屋市の主婦・水野さん(85)の投稿文です。植物にも動物にも命はある。人間はそれらの命を頂いて、殺して生きている。考えてみれば残酷なことである。でもそうしていかないと生きられない。では頂いたその命に報いるのにはどうすればいいのか。それは粗末にしないことである。水野さんのお母さんはそのように教えられた。そして、85歳になられた水野さんは、今もこの教えを守っておられる。
これは人間の勝手な理屈かもしれない。でもそう思うことで救われるのである。最近、動物愛護を語られる人は多い。いろいろ見ていると、随分片寄った意見があると思う。愛護を語られる人も、絶対に別の動植物の命を頂いているのである。人それぞれに環境や条件が違う。それに思いが及ばないのは、独りよがりではなかろうか。